第十三話 明朝


『チュンチュン、チュンチュン!』


 えーい、良い子のための必殺朝チュン発動!


 姉の寝室の窓の外に集まってきた数羽の雀の鳴き声にザカリーは目を覚ました。しかもこのチュン達はザカリーに対して好き勝手なことをさえずっている。


『チュンチュン、ザカリーさん、良かったね。ガブリエルさんに見放されないで』


『一時はもう駄目かと思ったわよ、チュンチュン』


『チュンチュン、ガブリエルさんが心の広い方で本当に恵まれているわね、ザカリーさん』


『これ以上彼女を悲しませたら容赦しないわよ。チュン』


 おしゃべり好きな雀たちを一睨みしたザカリーは隣でまだ眠っている姉の髪を撫で、額にキスをした。姉は久しぶりに朝までぐっすり眠れたようである。


 離れの一階でグレタは不審に思っていた。いつもならグレタが起こすまでもなく、彼女がやってくる時間に姉は着替えも身支度もほとんど終わって居間に降りてきているというのに、今朝だけは違った。


 昨晩は少し気分も良くなったと姉は言っていたというのに、もしかして起き上がれないほど頭痛がするのだろうかと心配になったグレタは慌てて階段を上った。姉の寝室に向かっていたグレタはそこから丁度出てきたザカリーのバカ野郎に出くわす。


 彼女が仕える大事なき遅れお嬢様の部屋に、ズボンにシャツを羽織っただけ、髪も乱れた男が朝っぱらから居たのである。


『貴方、お嬢さまに何をなさったのですか?』


 男の色気をムンムンと漂わせ、気だるい表情をしている奴の顔を見た途端、身分もわきまえずそう問い詰めそうになったグレタだった。


 彼女の気持ちは良く分かる。僕だったらぶん殴ってつまみ出していたところだ。まあ、問い詰めなくても何があったかなんて明白だ。しかしグレタはプロの侍女としての矜持きょうじを振り絞り、わざとらしくない微笑みを浮かべ、ザカリーに礼儀正しく頭を下げた。


「お早うございます、ルソーさま」


 前回ザカリーがここへ怒鳴り込んできた時にグレタは初めて顔を見て知っていた。この銀髪の若造が姉の言う『愛しのザック』なのだとすぐに分かった。


 とにかく、ザカリーは一度目ならずも二度目までもグレタの印象は最悪だった。それにもかかわらずグレタの職業意識は非常に高く、顔色一つ変えずザカリーに対峙した。優秀な使用人は家宝だからね、執事に言って昇給してやろう。


 姉の部屋の扉は開いたままで、ザカリーは人差し指を口の前に持って行き、静かに言った。


「ガブリエルは疲れが溜まっていたみたいで、まだ良く眠っているからギリギリまで寝かせてあげたい。馬車で出勤するならまだ時間はあると思うのだけど……」


『お前が疲れさせたんやろが!』


 ツッコミスリッパはどこだ、グレタ?


 しかし彼女はスリッパを手にすることもなく、爽やかな微笑みでザカリーに答えた。


「そうでございますか。普段お嬢さまは旦那さまと奥さまとご一緒に馬車で王宮に行かれます。馬車の中でお召し上がりになれるような軽食を準備させておきます」


 それでも後日彼女によるとこの朝、感情を出さずにいるのは相当の努力を要したらしい。


「ああ、そうだね。ありがとう」


「あの、ルソーさま。半時もすると旦那さまたちが本宅からこちらにお見えになるかもしれません。ですから、その、お急ぎになった方がよろしいのでは……」


 何? 優秀なのはいいが、夜這い男を僕らに隠れて逃がすのは感心しないな……そうしたらザカリーの奴、少々照れた笑みを見せながらこう言ってのけたらしい。


「いや、せめてガブリエルが起きるまでは居るよ。何時に起こせばいい? 今朝公爵夫妻に会いたい気分でもないけど……まあいざとなったら逃げも隠れもしないよ」


 この台詞には流石のプロ侍女グレタもキュンキュンしてしまった。彼女は僕達が子供の頃からずっと仕えているから姉の事情も良く知っていて、彼女の長年の片想いをずっと見守ってきたのだ。


 やっと想いが叶って初めての夜の後、朝目覚めてザカリーが枕元に居ることが姉にとってどんなに大切なことだろうとグレタは彼女の為に喜んだ。


「そうでございますね。身支度をされる時間を考えても、あと四半時はお休みになっていてもよろしいでしょう」


「分かった。その頃まで寝ていたら起こすよ」


 グレタは下がり、ザカリーはまだ熟睡している姉の隣に座り、彼女の寝顔を眺めながら呟いた。


「俺が小さい頃は良く枕元で物語を読んだりしてくれましたよね……」




 しばらくして姉は目を覚ます。朝の眩しい光と同時にザカリーの微笑みが目に入ってきた。


「今日の夢はやたらと鮮明だわ。ザックがこんなに近くに、彼の魔力まで感じられて……ああもう少し見続けていたいわ……」


 グレタでさえ起こっていることが信じられなかったのだ、姉自身は全てが夢だったと思ってもそれはしょうがないだろう。もぞもぞと一人つぶやいた後、彼女はもう一度目をつむろうとした。


「お早う、ガブ。目は覚めた?」


「彼の声まで聞こえるわ。ああ、この幸せにいつまでも浸っていたいのに。まだ起きたくないわ、時間は大丈夫かしら……」


 クスクスという彼の笑い声まで姉の耳には入ってきた。


「このお寝坊さん、疲れているのは分かるけど、貴女の侍女がもうすぐ起こしに来ますよ。彼女だけならともかく、公爵夫妻もいらっしゃるとね、流石に裸で寝台に居ると……」


「えっ? は、裸?」


 姉はパチッと目を開き、やはり幻ではないザカリーの姿を枕元に確認し、そろそろと身を起こし、掛布団の中の自分を見ると……何もまとっていない……


「えっと、あの、お早う、ザック」


 まだ状況を把握しきれていない姉の乱れた黒髪を撫でながらザカリーは口付けた。触れた唇から彼のひんやりとした魔力が流れ込んでくるその感覚に姉はザカリーの存在をはっきりと認識し、昨晩ついに彼と結ばれたことを思い出した。


 姉は途中から覚えていず、自分がそのまま寝てしまったことを知る。姉が目覚めるまでザカリーが待っていてくれたことが意外だったようだ。そこで急に恥ずかしくなり頬を染めた姉は、掛布団に隠れるようにしてザカリーに聞いた。


「ザック、私貴方のお陰で今朝はとても気分がいいわ。貴方の貧血はどう? もう大丈夫? 私一人先に、その、寝てしまって……ごめん、なさい」


 最後の方は尻すぼみになってしまった。姉よ、謝るな。悪いのは皆ザカリーなのだ。


「いえ、貴女の方こそ体調が悪かったのに、俺が無理させてしまってすみません」


「実を言うと貴方が昨日王都に戻ってきた夕方から体調は良くなっていたの。特に、貴方が私の所まで来てくれて、一晩一緒に過ごせたから……」


 姉は年甲斐もなく益々赤くなっていった。対局の魔力を持つこの二人は、側に近寄るだけ、手が触れるだけでも余分な魔力が相殺されて気分が良くなるくらいなのだから、その、口付けやもっと親密な接触をした場合は……想像に難くないだろう。


「もうすぐ貴女の侍女が身支度の手伝いの為にやって来ますよ」


「そうね、それに私の支度が遅いとフランソワとクロエさんも迎えに来てしまうかもしれないわ……ザック貴方も急いで、裏口から出れば彼らに見つからないと思うから」


 姉は別に気にしていなかった。三十過ぎのこの歳で誰かに嫁ぐ予定もなかったから、嫁入り前に純潔を散らそうが構わなかったのである。しかし姉は僕が公爵家の体面が、なんて言い出すことを心配していたのである。


「別に今更コソコソする気はありませんけど、本当はちょっと気まずいですね。今日のところは退散しますよ」


「ザック、私が起きるまで待っていてくれてありがとう。嬉しかったわ」


「今晩も来ていいですか?」


「えっ? ええ、もちろんよ。お待ちしているわ」


 この歳までザカリー一筋でまともな恋愛経験のなかった姉である。にこやかに微笑むザカリーにそう聞かれ断れる筈もない。


 去る前に唇に軽く口付けて去って行った彼の背中をぼうっと眺めながら姉は一人でささやいていた。


「何だかザックが本気で私に恋しているような錯覚に陥るわ、あんな笑顔を見せられると……」




***ひとこと***

ガブリエルはまだ信じられないようですが、ザカリーは遂に次の形態であるガブ一筋青年に変身しました。これが最終形態になることを祈りましょう。

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