5駅目 阿佐ヶ谷

 人生最期の住処は、阿佐ヶ谷にしようと心に決めていた。


 今年で丁度85歳になる。40年程勤め上げた大手印刷会社を退職し、65歳でこの地に戻ってきた。1935年、私は阿佐ヶ谷で生まれた。父は陸軍で何やら指揮をとっていたようで、そこそこ裕福な家庭で育った。夏になると庭には、一面に朝顔の花が綺麗に咲いていたのを今でも覚えている。

 3軒隣住んでいた同い年の麻子ちゃんがよく朝顔を見に来ていた。私達はとても仲良しだった。

 近くにあった相撲部屋を覗いたり、善福寺川で泳いだり、楽しい幼少期を過ごした。


 麻子ちゃんは、肌の色が透き通るように白く、彫りは深くないものの目鼻立ちが整っている。空のような青色が似合う女の子だった。当時からどこか大人っぽく、私はひそかに「朝顔の君」と呼んでいた。


 近くの尋常小学校に2人で通っていた。3年生になる頃「女とばっか連るむと女になるぞ」と同級生から馬鹿にされ、それ以来、私は麻子ちゃんから距離を置いた。


 1945年の初夏、本来なら朝顔が咲く頃、東京は3月の大空襲により焼け野原となっていた。阿佐ヶ谷は、直撃は免れていたものの戦局は悪くなる一方であった。7月中旬、麻子ちゃんは長崎の親戚の家に疎開することになった。私は麻子ちゃんに合わせる顔がないと見送りに行かなかった。今思えば、つまらない意地を張っていたのだろう。


 庭先から

「慎ちゃん、また会おうね。」

 麻子ちゃんの声がした。ハッとして私は、急いで外へ出たがすでに麻子ちゃんを乗せたトラックは出発していた。

 それからすぐ、私も山形にいる親戚を頼り疎開することなった。


 8月9日、

「本日、長崎にて原子力爆弾投下」

 ラジオの原稿を読み上げる声に後ろから殴られたような気がした。麻子ちゃんは、無事だろうか。


 それから何十年も経ったが未だに麻子ちゃんの行方はわからない。私は終戦後まもなく、東京に戻り、大学を出て、働いた。働き出してすぐ、上司の妹である泰子と結婚した。

 泰子は、優しく穏やかで春を思わせる暖かさのある女性だった。子供もでき、絵に書いたような幸せを泰子は私に与えてくれた。最愛の女性だった。

 泰子は、阿佐ヶ谷に引っ越すという提案を静かに受け入れてくれた。小さな庭付きの一軒家に朝顔を植える。夏が近付く度に朝顔を甲斐甲斐しく世話をする私を見て泰子は「時々、朝顔に嫉妬してしまうんですよ。」と微笑んだ。その表情は、息を飲むほど美しかった。


 それから間もなく、泰子は死んだ。静かで穏やかな最期だった。


 独りになって何年も経つが、変わらず朝顔は庭に彩りを与えてくれる。


 私ももうすぐそちらに行くから待っていてくれ、心の中で呟く。

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