胎に潜る
加湿器
第1話
遠くから、狼の嘆く声が聞こえる。
帝国の威光遠く、文明の灯の届かぬ月夜を男は荷車を牽いて歩く。よく磨かれた
男は夜を通して歩き、ようやくとこの管区へ辿り着いた。
今は、管区の端にある詰め所へと荷を運ぶ最中である。
男は、遠く帝都で生まれた兵士である。前任の老兵が世を去り、男はこの古く遠い
管区へ来た。彼はここへ来る前に、何人かの友達に別れを告げなければならなかった。
彼も一介の兵士であるから、士官学舎の門扉をたたいた時分には、燃えるような義の心を胸に秘めていたことであろう。しかしながら、夜を通した孤独な行軍に、かつて煌めいていたはずの炎は幾分心細いほどにまで弱まってしまっていた。
古い屋敷が二、三軒あるばかりの暗い夜道を歩く最中、男はどう理屈をつけてこの暗い田舎から出ていくか、と、そればかりを考えていた。重い手すりに体を預けて、車輪が一回、二回と転がるたびに、燃え上っていたはずのものが重く、重く沈んでいくのを男は感じていた。
――ふと、男が畦道を見やると、黒い
年の頃は、十四、五の、この夜更けに出歩くには、少々の違和感を伴う少女である。両手に抱える様にして、中身の詰まった麻袋を運ぶ少女に、男は不振がって声をかけた。
「そこな娘よ、何用があってこんな夜更けに出歩いておるのだ。」
険の滲み出る男の声に、少女はびくり、と肩を震わして男の方を仰ぎ見る。月光を照り返す少女の眼に不振の色が浮かぶのを見て、男は慌てて二の句を継いだ。
「わしはこの管区に新しく配属された番兵だ。お前も、前任の爺さんのことは知っているであろう。」
「これは兵士様、私めはこの先の領主様のお屋敷に、預かった荷物を運んでいるのでございます。」
「荷物とは、その袋のことか。」
男がちらりと手元の袋を見やると、少女は恭しく頭を下げる。
「お心を割いて頂くには、もったいない品物でございます。」
事も無げに少女が言うその言葉に、男は説明のつかぬ胸騒ぎを覚えた。かすかな怖気ではあったが、ひたり、ひたりと宵闇に心が浸されるような、冷たい胸騒ぎである。
「もったいないかどうかは、わしが決めることとしよう。」
男はそう言うと、少女の抱える麻袋をむんずとつかんで取り上げた。
少女はああっ、と声を上げて、精一杯に抵抗を試みる。白くか細い腕を振り払うように男が麻袋とは逆の腕を振るうと、食らいつくように再度振るわれた少女の腕が麻袋を
そうして、麻袋の口から、中身が
――奇妙に捻じくれて冷たくなった、赤子ほどの大きさの……
「……領主、とやらに話を聞く必要がありそうだな。」
少女はくたり、と膝をつく。男がその脇を抱える様にして顔を突き合わせると、少女はとつ、とつと、その肢体の如くにか細い声で語りだした。
「これは、モドキにございます。」
モドキ、という耳慣れぬ単語を、男はあえて聞き流す。先ほどに感じた、宵闇のごとき胸騒ぎが、背筋を上り脳髄を冷やしていくのを感じた。
奇妙にねじくれた小さな指が、麻袋に包まれたままの瞳がこちらを覗いているように感じて、男はさっと目をそらす。
「このムラには、使命があるのです。このムラの娘は、年頃になれば、いとこか、兄か、父親の子を産むのです。」
少女が糸のように細く紡ぐその一言一言を、男は噛み締めるように深く頷きながら聞いていた。
あまりに純粋に、無垢に感じられる語り口であった。びゅう、と風が吹いて、雲が月を隠していく。その様がまるで、この田舎にはびこる闇が、文明の灯に暴かれることを拒んでいるように男は感じた。
「大切な使命です。余所の方には、知られてはならぬのです。古く、貴い血を濃く残すための、大事な使命なのでございます。」
男は、先ほどまであれほどに心許なかった炎が、ゆらゆらと己のうちに立ち上るのを感じていた。
「その大切な血を狙って、モドキは胎に潜るのです。ヒトを装って、潜るのです。古く、貴い血を盗むために。」
男は、文明の灯の届かぬ所に残されたかような不正義に、帝国軍人としての誇りをひどく傷つけられたと感じた。
「領主様は、モドキを清めねばなりません。」
そうして男は、古く、暗く閉ざされたこの娘の蒙を、必ずや啓いてやらねばならないと決意した。もはや男の中に、どうやってこの田舎を出ていくかという、後ろ暗い企みは一かけらとて残ってはいなかった。くたばった不心得な前任に代わって、この仕事を果たすために私は導かれたのだ、とそう感じるほどに。
「娘よ、領主の館はいずこだ。」
男は、己の出来る限りに声の険を抑えて、娘に尋ねた。
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