第八章 ぬっぺふほふの嬰児

第一話 赫千勇魚を告発せよ

「もどせー、もどせ」

「もどせー、ながせ」


 赤い雨の降りしきる、公園併設の広場に、重低音が響き渡る。

 集まった島民達が、雨に濡れることも厭わずに口にする退魔の言葉だった。


 遠巻きに居並ぶひとびとは、ほとんどが見知った顔。

 鍛冶屋の老婆、谷頭、宮司の取り巻き、青年団、そして鬼灯翁。


 彼らに囲まれるようにして、ぼくと蛭井女史、そして思慕くんはいた。

 捕まったとき、蛭井女史は大いに抵抗したからだろう、その顔は打撲のあとで見るも無惨になっている。

 それでも島民達への嫌悪からか、視線に宿る険しさは消えていない。


 逆に、まったく抵抗しなかった思慕くんは無傷で、しかしどうにも元気がないのだった。

 あるいは、どこか傷めているのかもしれない。その証拠に、彼女はずっと、


「ぅ、ぅぅぅぅ……」


 と、小さくうめき続けている。



「もどせぇながせー」

「ながせぇもどせー」


 鳴り渡る大音声。降りしきる雨の音にも、カミナリにも負けないような大音声。

 だが、それを掻き分けて、広場に飛び込んでくる影があった。


 紺色の制服にレインコートを羽織った中年男性。

 駐在の田所所在だった。


「な、なんばしよっとねあんたたちは!?」


 彼はぼくらを見つけ、驚愕に目を見開く。

 当たり前だ、法治国家でこんな状況、誰だって目を疑う。


「すぐに辞めんしゃい! まっちょらんね、おいがいま、そこから降ろしてやるけんね!」


 駆け寄ってきた彼が、ぼくらの拘束を解き放たんとロープに手をかけた瞬間、思わず叫んでいた。


「危ない!」

「──?」


 間の抜けた声とともに、彼の身体が硬直する。

 巡査は目を見開き、ゆっくりと胸元を見下ろす。

 紺色の服が、ゆっくりと赤に染まっていく。

 胸郭からは鈍く、銀色に輝く先端が突き出していた。


「なっ」

「邪魔なので。いい加減消えてくれないか、余所者?」


 振り返った彼が見たのは、心底嫌そうな顔をした褐色の肌の男。

 思いっきり蹴りつけられた田所巡査は吹き飛び、泥水に塗れながら二回、三回と転がって……そのまま動かなくなった。


 あとに残ったのは、


「赫千……勇魚ぁ……!」

「ええ、学者先生。自分です」


 悪びれもせずに微笑む、勇魚宮司の姿で。

 その手には、血にまみれた十字架が──その中に仕込まれていた刃が、露出していて。


「……自分たちがなにをやっているのか、解っているのか、あなたたちは!」


 負け惜しみのように気勢を吐いたが、事実それは、敗北者の戯言に過ぎなかった。

 案の定、勇魚宮司は鼻で笑う。


「解っているとも。知らないのはそちらのほうだろう、教授先生?」

「…………」

「既にほとんどのことを知ったような顔をしているが、あなたは自分たちを甘く見ている。伊達や酔狂でアワシマという荒神と共存してきたわけではない。あれを海に還す方法は、準備されている」


 それは、川と呪文と鳥居を使うのだろう。

 島を横断する鳥居は、道祖神とともに小流川を挟むようにして存在する。

 川というのは、この世のとあの世の境目だと古くから言い伝えられてきた。

 そして、塞ノ神や流し雛が代表するように、川へと厄を流す儀式は枚挙の暇がない。


 なにより、アワシマを呼び込むのがあの鳥居なのだ。

 ならば、逆説的に送り返すこともできるのだろう。


 道祖神と鳥居、それが強力な境界形成能力を持ち、川の中にアワシマを追いやることさえできれば、そのまま海に押し流せるの、ということか。

 実際、広場の近くを川は流れており、そこは度重なる大雨で増水し、茶色く濁り、いまにも決壊しそうな有様だ。


「及第点、と言っておこうか教授先生? しかし、アワシマをおびき寄せるには、釣り餌が必要になる。それは、アワシマの肉体の思い人でなくてはならない」

「……なら、それはあなただろう、勇魚宮司」

「自分が? はっ!」


 彼は、あり得ないとばかりに自嘲した。


「自分は拒絶されたさ、あのウロブネのなかでな」


「──まさか」


 この島に来てからの、あらゆる出来事が脳内を高速で駆け巡る。

 手足さえ動かせないからだろう、ただひたすらに頭だけがクリアーだった。


「……全部、ぜんぶあなたが仕組んだことだったのか」

「うん?」

「ずっと不思議に思っていた。なぜ、萌花くんはこの島で歓迎されたのか。そして、巫女に祭り上げられたのかと。けれど、解った」


 はじめから、すべて逆なのだ。

 何もかもが逆なのだ。


「赫千勇魚、!?」

「────」


 秀麗な褐色の偉丈夫が。

 醜悪にニタリと嗤う。


「どうして萌花くんなのかは解らない。だが、おまえは彼女を欲しがった。だから――彼女がこの島へ来ることになったとき、考えた」


 神の花嫁たる巫女。

 萌花くんを巫女にするとして、一番に邪魔だったのは、実の妹だったに違いない。


「おまえは、あの嵐が訪れる前の夜、菊璃巫女を殺して海に捨てた。けれど、ここでハプニングが起きたんだ。彼女の遺体が、浜に打ち上げられてしまった」


 それはアワシマによる計略だったが、彼にとっては予想外だった。


「この辺りの複雑な海流なら、数日は彼女の遺体は発見されず、おまえは祭りを終えることが出来たはずだった。しかし、猶予はなくなった」


 だからだ。

 だから、勇魚宮司は萌花くんの退路を断った。


「それは、ヨギホトの花嫁になれば」

「そう、ヨギホトさまの花嫁になれば、外の人間と結ばれねばならないという掟を教えてやったのよ」


 男が。

 神職の皮を被った獣が、嗤う。


「今度こそご明察だ、プロフェッサー怪奇学! 額月萌花は貴様に恋をしていた。だからこう吹き込んだ『巫女を務めれば、島の外の人、あの貝木稀人と既成事実を作れるぞ』と。『あの男はあとで、鍵を以て夜這いに来るぞ』と言ってやったんだ」

「だが、おまえは」

「そう、自分は」


 この男は、あのとき既に


「くっくっく……だからなあ、あの晩自分は、萌花ちゃんを犯してやろうとヨギホトさまから這い出した」

「それは、この共同体に対する重大な裏切りだったんじゃないのか?」


 無論だと、彼はなおも笑う。

 こともなげに、禁忌を明かす。


「来訪神ヨギホトの儀式は、本来外の血を入れるための儀式。この島で生まれついた自分が巫女と行為にいたれば、産まれてくるのは不完全なヒルコ──アワシマの類い。それは、島としては許されない」

「なら、なぜ鬼灯翁が許した!」

「……許されてなどいない。自分は秘密裏に事を運んだだけだ」

「だったら、ぼくがいまここで、おまえを告発する!」

「無駄さぁ」


 そいつは、口の端を悪逆に歪め、肩口に背後を振り返った。


「この雨と、大音声。だれもこっちの話なんて聞こえていない。聞くつもりもない。あいつらに大事なのは、災厄から逃れることで、この勇魚じゃない」

「……残念ですがね、貝木先生。この糞野郎が言ってることは事実ですよ。あたしはジャーナリストですからね、真実の開示ってヤツには詳しい。いま何もかもぶちまけても、事態は改善しやせんよ」


 憔悴しきった顔で、蛭井女史がもごもごと言葉を添える。


「すでにアワシマって危機が目の前にあるんだ。怒りも憎悪も、ぜんぶあたしらに向くに決まってる」

「だとしても」


 そうだ。だとしても、このままなにもしないなんてことはありえない。

 考えろ。

 考えるのだ、貝木稀人。

 この状況を打破する手段は──


「……勇魚宮司」

「なんだい?」


「あなた――萌花くんから、ナニをされたんだい?」


「────ッ!」


 刹那、勇魚宮司が怒髪天を衝く。

 十字架を握り込んだまま、ぼくの腹部を思いっきり殴りつける。


「かはっ」


 絞り出される呼気、食道を駆け上る胃液。身体をくの字に曲げたくとも、十字架がそれを許さない。

 身じろぎしたことで黒眼鏡だけが顔からずり落ちる。

 顔をしかめながら、涙目で男を見れば、それは鬼のような形相を浮かべていた。


「貴様に。貴様になにが解る!」


 なにも。

 なにも解らないけれど。

 それでも、ひとつだけ解る。

 それは。


「自分は、ただ幼子だった額月萌花が欲しかった! あの女を、自分のものにしたかった! あれは〝俺〟のものだったのだ……ッ! 産まれたときからずっと見ていた。一番傍にいたのは俺だ。鬼灯の継嗣に額月多根子を奪われたとき、一緒に萌花が連れ去られたときも俺は諦めなかった! そしてチャンスを確かに掴んだ!」


 憤激、赫怒、激発。

 彼から溢れ出す怒りは、憤りは、憎悪は、どんな言葉でも例えられなかった。

 ただ、それがどれほど歪んだ感情であっても。


 確かにこの青年が、一途に額月萌花を思い続けてきたことだけは事実なのだろうと、ぼくは痛感するしかなかった。


「なのに!」


 宮司が、言い募る。


「なのに、。なにもできなかった! 自分は、ヨギホトのなかで震えていただけだ、この十字架を、退魔のお守りを握りしめて祈ることしかできなかった! それは、それはアワシマが、邪霊が、襲いかかってきて──」

「……それじゃあ、ダメだ」

「──なに?」


 口の中の苦いものを吐き出し、気力だけで皮肉気な顔を作って。


「それじゃあ、まるで、まったく、ダメなんだよねぇ」


 ぼくは言ってやる。


「彼女を守れないようなヤツに、ぼくの教え子は、任せられない!」

「き、貴様ぁ……!」


 ……いや、ほんと。

 どの口が言うのかという感じだが、これがぼくの正直な思いだった。


 妣根思慕は彼とぼくをして似ていると表現したが、まさしくしかり。

 どちらも大切なものを大事な場面では守れなかった大馬鹿者という意味では、そっくりなのだ。


 ああ。

 解った。

 いまのぼくの感情は。

 この怒りは──情けない自分への、いさなに対する自傷行為でしかないのだ。

 それでも、舌は止まらず。


「生まれ変わって出直してくるんだな、勇魚宮司」

「それが、できていればぁあああああ!!!」


 彼がぼくの挑発に促され、刃を振り上げた瞬間だった。


 ズゥン……


 ひときわ大きな地震が、島を揺らした。

 そして、一帯に霧が立ちこめる。


 これは、まさか。


「……俺が手を汚すまでもない。来たぞ。貴様を喰らうものが」


 呪文が最高潮に達したとき。

 勇魚宮司が、振り返りながら叫んだ。


「海の邪霊群──アワシマが……!」


 巨大な影が、山陰から姿を現す──

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