第五話 歓待と夢と
「さあさ、先生さんも飲みなっせ!」
グッと突き出されるとっくりに、ぼくは苦笑を浮かべるしかなかった。
あのあと。
祭祀堂から鬼灯屋敷に戻ったぼくらを待ち構えていたのは、豪勢な宴だった。
無数の眞魚木細工の上に、海産物が所狭しと並べられ、食べた端から追加されていく。
それはお酒も同じで、この屋敷に集まった人々は水のように酒をあおり、また次の杯を空にしていく。
「萌花くんは、大丈夫でしょうか……」
「大丈夫やけん気にせんでよかよ。巫女はヨギホトさまと一晩添い遂げるだけじゃ。なーんも危なかことはなか」
そう説明されても、不安は募る。
いま、この屋敷には多くの人が集まっている。
けれど島民の全てではないらしい。
ほとんどの島民は、祭りのあと自分の家で酒盛りをするのだという。
そして、夜の間は決して出歩かない。
「なんだか、物忌みのようだ」
他の者にケガレをうつさないよう引きこもることを指す言葉だが、しかしこのケガレというのは、来訪神に与えないようにするべきものでもある。
当時は流行病などを感染させないような隔離処置だったとか、いわゆる自粛で日常生活を制限していたとか、そういう説もあるらしい。
集団で集まるという意味で、この宴は物忌みとはとても遠い。
けれど、来訪神と距離を置くという意味では……この上もなく近似しているのだった。
「教授先生、食べちょりますか? 飲んぢょりますか? どんどん飲んでぇ、楽しんでくれれば嬉しかね!」
ホストであるはずの鬼灯翁が、直々にぼくの方へと歩み寄ってくる。
彼はこちらへと、ぐいっととっくりを突き出し、酒を勧める。
「いえ、ぼくはちょっと、食欲がなくて」
「ほぅ。じゃっどん、お連れどんは酒がすすんどるようじゃが?」
その言葉にぎょっとした。
隣を向けば、思慕くんが浴びるように酒を飲んでいる。
一見して酔っているのが見て取れた。
「キミ! キミは未成年だろ!」
「硬いことを言うんじゃァないよ。つーかな、おれは見た目通りの歳じゃねェって」
「だとしても──?」
言い募ろうとしたところで、コトリと彼女が倒れかかってきた。
急性アルコール中毒か!? と、冷や汗をかきながら慌てて抱き留めると、彼女はこちらを見上げてくる。
とろんと潤んだ瞳、水蜜桃のように上気した頬。
こぶりな真っ赤な舌が、ちらちらと軟体生物のように艶めかしく薄い唇の奥から覗いて。
吐く息は熱く、噎せ返るほどのアルコール臭を孕んでいる。
「稀人……」
蠱惑的な声音で、艶然とした表情で。
彼女は、ぼくの耳元に顔を近づけて──
「飲んだフリをしておけ。でないと、命に関わる」
──他の誰にも聞き取れないほど小さな、しかし厳しい声で、そう告げた。
え? と聞き返そうとしたときには、既に彼女の熱い身体は離れていた。
そして、ケラケラ笑いながら、またお酒を飲む。
当惑していると、
「さあ、教授先生。明日には船も通うようになるらしかたい。そいけん後腐れなく、いまは飲んで飲んで! わしらに祝わせておくれ」
島長が、酒を突き出して。
ぼくは、それを杯で渋々受けて。
そうして、ぐいっと一息に煽る──フリをして、ほとんどを口の端から溢れさせる。
「おお、いい飲みっぷりだ! さあさ、もう一杯!」
言われるがまま、杯を重ねる。
飲まないようにしてはいたものの、それでも徐々にアルコールがまわり。
やがて、ぼくの意識は酩酊していく。
「……眉に唾。覚悟の一念。しっかり見届けてこい、稀人」
最後に、歩き巫女のそんな託宣を聞いた。
ような気がした。
§§
揺れた。
地震だろうかと、無意識が反応する。
「──う、ぅぐ、んん……」
同時に、酷い頭痛が襲ってきて、ぼくは目を覚ました。
喉が、喉が渇く。
喘ぎながら周囲を見渡せば、見覚えのある部屋。
どうやら酔いつぶれて、自室に運ばれたらしい。
「痛っつ」
ぐわんぐわんと視界が撓む。バクバクと心音にあわせて頭が痛む。
ああ、しかも身体の自由もろくに利かない。
まだ、酔いが回っているのだろうか。
……いや、この感覚には覚えがある。
たしか、そうずいぶんと昔、何かの調査に出向いた村で飲ませてもらった、幻覚作用のある木の根の酒と同じ症状で――
「――――」
思考が回らない。
ただ、寒い。
真っ暗な部屋の中、自由を奪われた状態でひとりいると、猛烈な寂しさのようなものが襲ってきた。
それは、恐怖にも似た感情だ。
寂寥感。
脅迫的に、人肌が恋しくなる。
「待て」
ぼくは、何を考えている?
脳裏に浮かぶのは、湯殿で視た身体の薄い少女の裸体。
麻痺しているはずの身体。
しかし、血液が股座の一部に集まってくるのが解る。
おいおいおい、どうした怪奇学。
幾らなんでも、正常じゃ──
「──先生」
声が、聞こえた。
幽かな、遠く風に乗って響くような、ここにいるはずのない人物の声。
耳をこらす。
「先生」
また聞こえた。
今度は、先ほどよりもはっきりと。
……この部屋は、屋敷の中庭に面している。
声は、中庭から響いてきているようで。
「先生」
三度、聞こえた。
今度は、確かにはっきりと。
いる。
中庭と、寝室。
それを一枚隔てる障子の向こうに、なにかが立っている。
ひと。
ひとか?
いつの間にか月が出ていたのか、降りしきる月光を受けて障子に映る影は、女性的なシルエットを帯びているように見えた。
「萌花くん……キミ、なのか……?」
「はい、先生」
「どうして、ここにいるんだ」
「中に入れてください」
「ウロブネは施錠されていたはずだ、誰も出入りが出来ないはずだ」
「中に入れてください」
「萌花くん」
「中に入れてください」
……会話が成立しない。
待て。
そもそも、中に入りたいのなら、障子を開けて入ってくればいいではないか。
彼女は確かに謙虚さのある若者だが、ドアのノックをするような礼儀とは縁遠い。
普段の彼女なら、有無を言わせず寝室に押し入ってくるはずだ。
では。
では、これは……
「怪奇的じゃないか」
その瞬間、自分の内心でなにが起きたのか、正確には計りかねた。
ただ、ほんの少しバランスが。
普段なら理性が抑制するはずのものが、融け落ちてしまって。
幻覚でもいい。
酔ってみる夢でもいい。
ともかく欲しかった。
他の誰でもない。
いま目の前にいる女性を、教え子を、貪って喰らい込めてしまいたかった。
「萌花、くん」
獣欲が、ぼくの心を突き破ったとき。豊満な、額月萌花の肢体を求めたとき。
がらりと、障子が開いた。
噎せ返るような潮の臭い。
月光を背にする青白い巨大な肉塊。
滴り落ちる腐汁が、咆哮する。
「せぇんぜぇぇいぃいいいいいいいいい!」
部屋の中になだれ込む肉塊。
決して狭いとは言えない寝室が、一瞬にして肉で充填され、襖や壁が弾けそうに膨らむ。
肉、肉、肉の洪水。
それはぼくの全身に絡みつき、四肢を、肌を、髪の毛の一本に至るまでしごきあげる。
血を、骨を、体液を。髄液を、命を、魂を。
全てを搾りつくさんと蠢動する襞と肉が総身を這い回り。
催したのは吐き気のような快楽。
嘔吐のように溢れ噴き出す生命のエッセンス。
これは、ぬっぺふほふのようだ。
漠然とした頭の片隅で、貝木稀人だったものは考える。
ぬっぺふほふには、目もなく耳もなく、皺の多い琉球芋に短い手足をつけたようなのっぺらぼうで、青白く、墓場に出て、怪力無双。
死肉の化けてでたもので、その肉を食えば不老不死になるという妖怪。
あるいは、
命の危機を脳髄が絶叫するほどの状況において、思考は錯乱し脈絡のないことを並べ立て、肉体は快楽に簡単に屈服し。
けれど、この両目だけが。
たしかに、それを視ていた。
「どうして」
そうだ、どうして。
「どうして泣いているんだい、萌花くん……?」
振り絞るようにして紡ぎ出した言葉を受けた瞬間、肉塊は硬直した。
そして、
『い、いぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!』
耳を劈くほどの絶叫――それは、言語として成立しない、美しい旋律のような音――をあげて、室内を蹂躙していた肉の塊が、波が引くように消え失せる。
そういえば、河童は決して言葉としては理解できない声で歌うのだという。
そんなことを、漠然と思い出しながら、視線だけで肉塊を追った。
中庭へと逃げたそれの前に、小柄な影が立ちはだかる。
妣根思慕。
彼女は件の御霊箱を掲げながら──箱から感じるのは、視線──肉塊へとなにかを告げる。
「────」
聞き取れない。
けれど、巨大な肉塊は恥じ入るように、なにかを拒絶するように身を捩り。
『せんせい』
やがて、額月萌花の姿へと、落ち着いた。
彼女は、悲しげに微笑んで、ぼくを視て。
そして、そのまま月光にほどけるようにして、消えた。
ぼくはただ、その異常な光景を、呆然と見ていることしかできなかった。
ぽつり、と。
雨粒が落ちてきた。
雨。
赤い、雨。
血のように真っ赤な雨が、伊賦夜島に降りしきる──
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