私は悪夢を見た

「約束しただろ?ずっと一緒だって。大丈夫だよ」


 甘い言葉。聞き慣れた雅臣まさおみの声。私を支えてくれる唯一の理解者。

 さっきまでそこにいたはずの彼はいつのまにかいなくなって、その代わりに不定形で真っ黒な物体が床の上でうごめいている。


「さあ、おいで」


 彼の声を発する暗闇が、触手のようなものをこちらへ伸ばす。

 後退あとずさりしたけれど、すぐに背中は壁に当たった。


「っは…」


「りえ、大丈夫かい?うなされていたようだけど」


 目を開く。ベッドの上で私は上半身を起こしていた。

 夢だった。

 あんなB級映画みたいな夢を現実だと思うなんて馬鹿らしい。

 でも、柔らかで低めな声は…さっきも聞こえていたからか、安心する彼の声なのに何故か体がこわばる。

 深呼吸をして、部屋を見る。

 いつもの部屋だ。意を決して、隣を見ると雅臣まさおみの見た目をした雅臣まさおみがキチンと横たわって上半身を起こしていた。

 背中を温かな手でさすられて安心する。彼の腕はあの変な触手じゃない。


おみくん…ありがとう。大丈夫、いつも見る変な夢」


 大型犬のような丸みを帯びた目は、目尻が少し下がっている。

 長い睫毛まつげに囲まれてアイラインを引いているような大きくて印象に残る目。

 すっと通った鼻筋と大きすぎない鼻翼びよく、少し厚みのある女性みたいに柔らかくて血色が良い唇。

 右目の下ある涙ぼくろまで含めて、完璧といってもいいほど美しい彼…雅臣まさおみは私の恋人だ。

 彼の厚すぎない胸板へ顔を埋めると、ふわりと壊れ物でも触るみたいに彼が私の亜麻色の髪をでてくれる。


「今日はいろいろあったしね。どうする?もう一回寝直す?」


「うん、そうする」


 彼の腕枕に頭を乗せて、もう一度目を閉じる。

 温かくて心地よい。一定の間隔で彼の内側から響いてくる振動に耳を傾ける。


 今年の春で社会人になった私は、もう何度目かの転職をしていた。

 正社員は諦めて、契約社員とかアルバイトをしてみたけれど短くて三か月、長くて半年しか仕事は続かなかった。

 これも私が人の心をわからないから…人間の擬態が下手すぎる。


 一晩寝たけれど、私のモヤモヤは消えないままだ。仕事をやめることに関して、彼は毎回困ったような顔をして「人の心ってやつがわかるまでは自由にしていいよ」と言ってくれた。だから、私はいつからかわからない位ずっとそれに甘えている。

 朝食にトーストとコーヒーを用意してくれた彼とテーブルへ向かい合わせに座る。


「人が亡くなったときは、悲しそうな顔をして御愁傷様ですと言えばいいと教わったから実践できたけど…」


「そうだね。動物にも種類があるんだ。愛玩動物と家畜。多分、森田さんって人が悲しんでいたのは愛玩動物の死なんじゃないかな」


「愛玩用とはいえ、死んだ個体は死骸であり、肉でしょう?やっぱり人の心って難しい」


 湯気の出ているコーヒーをすする。まだ苦みには慣れないけど、大人っぽいので我慢して飲み込む。

 眉尻を下げながら優しく微笑む雅臣まさおみがトーストをサクリと音を立てて食べる。完璧すぎて偽物みたいに綺麗だ。


「そんなに見つめてどうしたの?何かおかしなところある?」


「ううん、綺麗すぎて見とれていただけ」


 人の心はわからない。でも、雅臣まさおみの見た目が最高に美しくて彼と付き合っている私のことを大抵の女性はうらやましがると言うことは知っている。

 今までも恋人というものはいた。でも、大抵は私が持ちかける契約を「本気だと思わなかった」と怒って別れてしまうのだ。

 ただ私は、恋人という口約束の関係性を明確にするために契約書を作っただけだ。

 契約を定め、了承のあかしにサインを求め、契約書に基づいた行為以外は行わない。

 それだけのことが、何人かの男性には理解できないものだったらしい。

 でも、雅臣まさおみは違った。彼は契約書を面白がり、文句を言うことなく従ってくれる。

 必要なことが増えれば、そのたびに議論をして、契約書の更新を行う。

 議論と契約書の改稿を重ねることで、私たちの関係性はより良いものになっていく。

 最初に恋人を作ろうとした動機は、普通の女の子に擬態するためだった。

 恋人がいれば、面倒な行事も多少断っても許される。

 だから、好きという感情はわからないけれど恋人というものを作りたい。それだけの理由で何人かの異性と恋人という関係性を持った経験はある。

 くだらないものだと思っていた。声をかけてきた雅臣まさおみは、顔がとても美しかったから、耳を傾けたにすぎない。

 契約を笑わずに結んでくれた彼は、様々なことを教えてくれた。

 義務のようなものだとイヤイヤしていた性的接触も、娯楽の一つだと今は理解している。


「人間に擬態するのって難しい。おみくんみたいな人の心がある人に生まれればよかった」


 頬を膨らませて、向かいがわでニコニコと穏やかに微笑んでいる彼を見る。


「そういえば、りえはペッカム型擬態って知ってる?」


「擬態という概念は知ってるけど、細かい分類はそういえば知らないかも」


 朝食を食べ終わり、少し冷めたコーヒーを口にした雅臣まさおみは、そのまま優しい微笑みを崩さずに話を続ける。

 こういった有意義な豆知識を教えてくれるところも、好きなところの一つだ。


「自分の姿を景色や物体に似せて、獲物に近付くための擬態だよ。それだけじゃなくて、擬態をすることで自分の天敵からも見つかりにくくなる」


 何を言いたいんだろうと首をひねると、彼は私の髪の毛に手を伸ばす。

 事前の承諾なくボディタッチをすることを最初は禁止していたけれど、私は彼からの肉体的接触を好ましいと思っていることがわかった。

 そのため、付き合い始めて二、三か月ほどで恋人契約第32条の「相互間の言語を介さない同意の解釈について」を改稿した。

 新たに「拒絶の意を明確に示さない限り身体的接触は同意と見なす」に変えたけど、今のところ不都合はない。


「擬態っていうのは本来、食べられるがわがするものなんだけど、こうして捕食をするがわも姿を偽れると便利なんだ」


 蠱惑的こわくてきな笑みを浮かべた雅臣まさおみは、私が食べ終わった食器と自分の食器を持って立ち上がるとキッチンへ向かった。

 ステンレスのシンクに水が流れる音がする。

 彼が何を言いたいのかわかりあぐねて、私は手元のマグカップを見つめてうつむいた。


「擬態をする利点については、充分わかっているつもりだけど…」


「そうだね。そのためにボクたちは一緒にいるわけだし」


 私は彼がいないと生きていけない。

 スマホをタップして擬態について調べる。

 弱いものが強いものから身を守るための擬態が目に入って指を止める。


 捕食するがわになれということなのだろうか…。

 私は、弱い。

 すぐに職場で嫌われて排除されてしまう。

 人間は人間ではないものに冷たい。

 私は、人の心がわからない。

 そんな私でも雅臣まさおみはそばにいてくれる。


「考え過ぎちゃったみたいだね」


 いつのまにかシンクの方から流れる水の音がやんでいた。

 すっかり冷めたマグカップをテーブルに置いたまま私は彼に連れられてソファーへと座る。


おみくんはいいよね。人の心があるから仕事もクビにならないし、友達もいるんだもん」


 頬を膨らませた私の髪を優しくでて、彼が隣に腰を下ろす。

 ブラウンのソファーがゆっくりと沈んでほんのりと温かな彼の体が私に触れる。

 彼の膝に頭を乗せてスマホを見て過ごす。次の仕事はどうしよう。


「まぁ、ゆっくり次の仕事を探せばいいさ」


 雅臣まさおみに教わったとおりにしてから、面接で落とされる頻度は減ったのだけど。

 これからも私を支えてくれるよね。

 あなたには人の心があるんだもん。

 私がしているのは、擬態じゃなくて寄生なのかもしれない。

 スマホを見る。SNSの動きがゆっくりだと思ったら、今日は平日だ。雅臣まさおみも家にいてくれるからすっかり土曜日か日曜日の感覚でいた。



 あれ、そういえば今日は雅臣まさおみ…仕事へ行かなくてもいいんだっけ。

 カレンダーへ目を向ける。今日は19日…金曜日だ。

 そもそも、彼の仕事はなんだったっけ。


「そういえば、おみくんお仕事行かなくていいの?」


 視線をスマホから外して雅臣まさおみの綺麗な顔を見る。

 返事をした彼は、私を見て動きを止める。

 ニコニコとした表情のまま、彼は立ち上がった。

 雅臣まさおみの膝から転がり落ちた私は、床にぶつけた頭を手で押さえて涙目になりながら彼を見る。


「負荷が高かったのが原因かな。まあいい。ついでに負荷テストをしてみよう」


 いつもの笑顔…のはずだ。

 でも、彼の声色が冷たく感じる。心なしか、部屋の温度まで一、二度下がってしまったみたいに肌寒い。

 立ち上がることも忘れて、ソファーにあるブランケットに手を伸ばす。でも、それは雅臣まさおみの長くてすらりとした足によって遠くへ蹴り飛ばされた。


「なんで」


 なんでそんなひどいことをするの?と言いかけて言葉を飲み込む。

 雅臣まさおみが両方の口角を持ち上げて綺麗に微笑んだ。そのあまりの冷たさに、思わず肌が粟立あわだつのを感じる。


「人の心ってなんだい?」


 聞き慣れた声のはずなのに、知らない人みたいに聞こえる。


「ボクは、ただたくさんの人間が求めてきたことを君にしているだけだよ」


 腰を落として、私に話しかける彼の目は私を見ていない。

 どことなく焦点の合わない男性という存在が急に怖くなって私は、座ったまま後退あとずさりをする。


「泣き言に対しては否定も肯定もせずに聞き流し、愚痴に対しては共感をし、似たようなエピソードでの失敗を作って聞かせ、愛情には親愛を示す言葉で返した」


 怖い。聞きたくない。大好きな人の顔と声でそんなことを言わないで。


「人の心がないというからボクは君に期待していたんだよ。でもまあ、観察しがいはあるから共にいるのだけど」


 ギョロリと目が動く。視点の合ってなかった目が私を捉える。

 さげすむような、見下すような…。いや、哀れんでいるのだろうか。

 いつも見ていた親愛や親しさを感じるものとは違うことだけしかわからない。


「ひ…や…」


 手首をつかんだ彼の力が強くて、体を思い切り引いてしまった。

 本棚に体が当たり、しゃがんでいた雅臣まさおみの頭に重いコーヒーメーカーが直撃した。

 鈍い音がして、彼の顔が床にたたきつけられる。


「あ…あ…」


 転がったコーヒーメーカーと倒れた恋人を目の前にして、私は呆然とした。

 直前まで危害を加えられそうだった男でも恋人という肩書かたがきがあると、私はこんなにも動揺するのか…。

 スマホを手にして救急車を呼ぼうとロックを外す。


 ぬるり…と腕な感触が走る。何かが巻き付いたみたい。

 倒れている雅臣まさおみの頭から、何かが流れ出している。血ではない。

 そこだけコーヒーか、黒インクをこぼしてしまったみたい。

 真っ黒な液体がどんどん広がって、混乱する。

 拭かないと…と救急車を呼ぶことも忘れてタオルを探す。

 再び手首を引っ張られた。

 一瞬だけ逃げられたはずの現実に引き戻される。彼が倒れていて、手首に謎の触手が巻き付いているという悪夢みたいな現実へ。


 床に広がっていた黒い液体はムクムクと膨らみ始めて、あっという間に大人おとな一人分くらいのなにかになった。

 真っ暗なそれは、細くて長い柔らかな触手が、頭頂部から三本生えている。

 その触手の一本が、私の手首に巻き付いているようだ。

 黒い塊の中央には縦に裂けた三つの裂け目がこちらを見た。裂け目の中は真っ黒で白と灰色に彩られた円がぎょろぎょろと黒い空間を泳ぐように左右に動く。

 恐らく目なのだろう。白と灰色に彩られた目は、私を見てから動きを止めた。


「負荷の限界値が測定できなかったけど、まあいいか」


 落ち着いた彼の声が真っ黒な化け物から発せられる。

 逃げないと…やっとそう思って、更に後退あとずさりをするけれど、背中はすぐに壁にぶつかる。


 残された二本の触手も伸びてくる。


「やめ…む…ぐ」


 息を吸って辞めてと大声で叫ぼうとした。明確な拒絶の意思を示せば…という考えは素早く私の口を塞いだ触手によって阻まれてしまう。

 抵抗をしようとテーブルの脚をつかむ。でも、ズルズルとテーブルごと引きずられた私は、雅臣まさおみだったものに引き寄せられていく。

 無駄だとわかっているけれど、せめてもの抵抗はしようと手足をばたつかせてみた。でも、予想通り何の意味もない。

 この次はきっとあの中へ入れられてしまう。胃の中からさっき食べたものがこみ上げてくる。

 口から出た吐瀉物としゃぶつは私の口を押さえていた触手に吸い込まれていった。

 止まることない二本の触手は、私を真っ黒でタールみたいな体の中へ押し込んでいく。蜂蜜みたいな甘ったるい匂いでせそうになりながら私は飲み込まれた。


「これは嫌な夢だからね。作業が終わったらいつもみたいに忘れるんだよ?」


 優しい声。聞き慣れた声。

 でも、雅臣まさおみの姿はない。

 いつもより少し高い視点で外側が見える。


 倒れている雅臣まさおみに触手が伸びる。

 骨と皮だけになった薄っぺらい彼をぐるぐると丸めると、ゴキゴキと何かが折れる音がする。

 頭の部分が破けて空気の抜けた風船みたいだった雅臣まさおみはあっという間に丸められて黒い物体の中へ触手が押し込んだ。

 ぐちゃっとした湿り気を帯びた音がして、私の脇の下に触手が滑り込む。

 一瞬見えていた景色が途切れて頭痛がした。

 ゆさゆさと揺すられて目を開く。


「約束しただろ?ずっと一緒だって。大丈夫だよ」


 夢じゃない。

 目を開いたらいつもみたいに雅臣まさおみが私の隣にいると思った。でも、目の前にいるのは三つ目の黒い化け物だ。

 化け物の触手に両脇を支えられてベッドへ寝かされる。

 体は動かせないし、声も出せない。


「大人しくしているんだよ。契約で君のことは殺せないし、手間をかけたくはないからね」


 黒い化け物は三つの目をぎょろぎょろさせながら、そう告げて背を向けた。

 大人しくしたくなくても、そうせざるを得ない。脅す意味なんてあるのだろうか…と思っていると化け物が自分の体から触手を引き抜くのが見えた。

 化け物が体から取り出したのは、人間の男だった。

 頭を捕まれて宙に浮かされたまま脱力していた男が、ばっと目を見開く。

 無言のまま目だけを動かして周囲を探るようにしていた男が、目の前にいる化け物を見て大きく息を吸い込んだ。

 触手が、私にしたのと同じように素早く彼の口と鼻を覆ったので男の口からはくぐもった声が僅かに漏れるだけ。

 化け物に抵抗するように体をよじる男の努力もむなしく、彼の頭を固定している触手は微動だにしない。


「こんにちは」


 優しい口調。私と話すときと同じような口調で化け物は話す。

 男の口を覆っていた触手が緩んで、男の口元があらわになる。


「クソ!ばけもの!はなせ!」


 男は、息を慌てて吸うと、口の端に泡をつけながら唾を飛ばして叫んだ。


「こんばんは、だったかな。まぁいいか」


 穏やかな雅臣まさおみの声。


 そのすぐあとに、グシャリという音がした。

 宙ぶらりんにされていた男が、ぐったりと脱力する。

 視線を下に落とすと、触手が男のみぞおち部分に突き刺さっていた。

 じわりと暗い赤色がにじみ始めると、化け物の体がどんどんと小さくなっていく。

 つながっている触手部分がぐねぐねと伸縮している。何度も見た気がする。覚えてはいないけど。

 これは、男の中に化け物が入っていくところだ…。


 いつのまにか、ぶら下がっていたはずの男性は床に転がっていた。

 彼は、スッと立ち上がり汚れた服を脱と、大きく口を開く。

 ゴキゴキという音がここまで聞こえてくる。顎をはずして更に稼働域を広げた男は、限界まで大きく開いた口に服をねじ込んだ。

 何でもないような顔をして顎を戻した男は私の方を見て微笑んだ。

 男の顔は、とても整っていた。

 

 クローゼットから部屋着を取り出した彼は、私の元へ歩いてくる。

 しゅるしゅると口元を覆っていた黒いものが消えていくのがわかる。


「殺さないで」


 私の言葉を聞いて、見慣れない見た目をした彼が微笑んだ。

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