第41話 あおいろラスト(8)


     六



「ごめんごめん、ちょっと急だったな」


大石くんが、店の軒先、ビニルの雨よけを少し窮屈そうに背を折って抜ける。高さにはまだ余裕があったから、癖になっているのかもしれない。


「ううん、大丈夫だけど。というかお父さんが勝手に呼んだんじゃないの?」

「まぁ当たり。一応断りは入れたんだけど、折角だからって」

「あはは、なんの折角でもないよね」

「いや、結構いい折角になったよ。友達に会えるのは嬉しい。それに……パンはいらないよ、って五回も聞けた」

「……う、聞こえてたの?」


返事の代わり、堪え切れないと言ったように大石くんは口端で笑う。また恥ずかしさで顔に血がのぼってくるのを感じて、私は顔を振り背けた。


「甘い」大石くんがぼそりと呟く。


「……へ?」

「あーいや、店からだけじゃなくて、渡辺さんからもパンの甘い匂いがした。香水かと思った」

「そんないいものじゃないよ。ずっと匂ってたら嫌になる」

「そういうもの?」

「そういうもの!」


そのまま店の前で立ち話をする。改めて格好いいな、と大石くんの容姿をぼんやり見つめていて、制服を着ていることに気づいた。


「あぁ今日は受験だったから。公立入試」私の視線で察したのか、大石くんが先回りして言う。

「そっか、今日だったね。お疲れ様。これで終わり?」

「一応後期もあるけど、もう受かったような気がしてる」

「自信ありだね」

「あぁ、ほとんど全部解けたんだよ。朝にここのパン食べたおかげかな。もちろんセンター試験でマークミスしてたら全部だめだけど」

「朝も来たの?」

「あぁ早くからやってるのな。やっぱ頭回すには、甘いものだろ」


手首に提げた小袋が掲げられる。「わたぱん」と、ひらがなで打たれたオリジナルの紙袋の中からは、チョココロネが二つ透いて覗いていた。


「で、帰りも、ってかなり食べるね」

「疲れにも甘いものって言うだろ。でもさすがに二つってわけじゃない、一つは差し入れ」

「へぇ誰に?」

「大雅に」


不意に名前を聞いたせい、はっと反応してしまう。紙袋の中のチョココロネのように、その一瞬を、動揺を見透かされたのか、


「ん? 渡辺さんもくる? 俺は全然いいよ」

「えっと、どこに?」

「公民館だよ、近いだろ」

「確かに近いね。でもなんで公民館なんだろ、受験終わったんだよね」

「大雅のやつ、全部適当な風に見えて、意外とセンチメンタルなところあるからなぁ。名残惜しかったんじゃないか? 勉強のためとはいえ、昨日まで毎日いた場所だし。でも一人だと寂しいから、俺が呼ばれたってところかな」


あれで寂しがりでもあるんだ、としょうがなさそうに、でも嬉しそうに大石くんは付け加える。

なるほど、たしかにそうだ。私は笑って、相槌を打った。なにでも素知らぬふり装っているくせして、人一倍面倒くさい。それに、人の一挙一動にいちいち構ってくる。それはどこかで、寂しさの裏返しでもあるのだろう。


「驚いた、まさか同意されるなんて」

「どういうこと?」

「大雅のこと、ちゃんと見てるな、って思ったんだよ」

「……そんなつもりなかったんだけどなぁ」


照れるかと思ったけれど、ただ本音が自然と漏れた。


「はは、つもりがなくてそうなら、なおさらその証拠だよ。で、どうする?」


その問いかけに、心臓が一つ大きく跳ねる。

明日こそ会える、それが最後と決めていたから、急な展開に心が追いついていなかった。準備も明らかに足りていない。時間をかけて素敵なヘアスタイリングをして、少しだけ香水もまとって。明日は、卒業式は、しっかり整えて行こうと思っていたのに。

今日このままいけば、またいつもみたく言い合いになって終わってしまう気がする。でも、それでもいいかと思った。

会える。会いたい。

可能なら、一日でも早く。

準備どうこうよりも、純粋なこの気持ちを大切にしたかった。私は行く、と返事をする。


「了解、俺も退屈しないから嬉しい」


大石くんは、自転車だった。かごに鞄を入れ、押して歩く。


「この辺り、坂ばっかりだから自転車って滅多に使えないよな」

「今日はどうして?」

「朝、少しでも余裕を持ちたかったんだ」


私はそれを後ろからついていった。通りは知り合いばかりだ、興味を持って注がれる視線が痛くて、横に並ぶのは憚られた。

それに気づいたのだろう、途中で大石くんは道をかえてくれる。そんな心遣いまで気が回るあたりが、大石くんの魅力だ。容姿だけじゃない、中身まで伴っている。けれど思えば、浮いた話は聞いたことがない。そもそも誰かと付き合っているイメージが沸かなかった、もちろん私を含め。釣り合うとしたら、年上のモデルみたいな大学生、同級生ならつばきくらいだろう か。もっとも、それは外面だけで、二人の噛み合わない会話も容易に想像できたけれど。


「大石くんって、年上と付き合ってそうだよね」

「ん、急になに。彼女はいないよ。ってこれ。クリスマスにも言ったな」

「イメージの話だよ。じゃあ好きなタイプは年上でしょ?」


頭ひとつ分以上は、私より背の高い大石くんの横顔を見上げる。

その視線が下に向いていたから靴先を見ると、都度私に歩幅を合わせようとしてくれているらしかった。はっきりと教えてはくれなかったけれど、気を遣わなくて済む相手がいいのかもしれないと思った。

話は脈々と続く。途中、大石くんがブレザーの前ボタンを開けた。そしてすぐ、くしゃみを一つ。


「格好悪いところ見られたな」

「私の方が何回も見られてるから、たまにはいいじゃん」


まだ寒いね、と言い合う。でももうカイロもココアもいらないね、と空気を吸った。

話が途切れることはなかった。三年憧れて、恋をして、ついにここまでたどり着いた。少し前なら、こんな贅沢な時間はない、終わってほしくない、と考えていたにちがいない。

けれど、今はどうも違うようだ。


アパートの横を過ぎて、小道を行く。あとは、まっすぐ行けば公民館だ。正面に古民家のような佇まいが見える。大石くんの携帯に着信があって、会話に間ができた隙、ひとつ息をついた。もう息はけぶらなくなっていた。


「……ごめん、渡辺さん! すっかり忘れてたんだけど、家の手伝いしなきゃなんだった」


通話を終えた大石くんが右に流した髪を少し掻きつつ頭を下げる。


「大雅には言っとくから、代理頼まれてくれない? どうせ俺は寂しさ埋める役回りだったし、それなら渡辺さんでもいいはず」


パンの入った紙袋が持ち手を結んで手渡された。


「へ、行かないの? というか、これ一つは自分で食べないの?」

「うーん、やめとく。パンはまた買いに行くよ。あぁパンはいらないんだっけ。だったら大雅に二つともあげてくれ」


大石くんは自転車に乗り、颯爽と去っていく。

去り際、目配せが一つあった。どうせここまできたなら自分で言っていけばいいのに。意外や焦るとそこまで考えが回らなかったのだろうか。私は振り返り、公民館に一歩一歩と近づく。その度に鼓動が早くなって、私の歩幅を数センチづつ小さくさせた。

明日が今日になって、ついには二人きり。よく考えれば、公民館に行くのはクリスマス以来だった。扉の前でちょっと躊躇する。それから、ドアを引いた。今日はすんなり入ることができた。


館長はいつものごとく寝ているようだった。人気がなく、どこからも音がしない。

夕方過ぎの公民館の弛んだ雰囲気は、明らかに今の私の心とそぐわなかった。


なんとなく手洗いに行き、鏡で後ろを一本結んだ髪の毛先、留ピンの位置を確かめる。水では直らないハネが悔しいけれど、仕方がない。よしと、胸上を軽く抑える。それから自習用スペースに向かった。


川中くんは、もうそこにいた。座っている場所はいつもと同じ、左の端だった。カバンを置く位置も変わっていない。私は川中くんの目の前に座って、ため息をつく。

一息に、用意してきた分の気が抜けた。


「…………なんだ、寝てやんの」


頭を小突く。起きそうにもなかった。心地よさげな寝息がする、頭がほんの少しだけそれに合わせて揺れる。見ていたらあらぬ衝動に駆られた。


「……髪、固っ」


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