第24話

 僕は人生で初めて職業安定所というものを利用した。年齢とか自分の詳しい経歴や希望条件などを最初に書くのだけれど、鉛筆で書くし、丁寧に書かなくてもいいし、間違えても消しゴムで消せるので履歴書なんかより楽だった。そして僕は免許がなくても正社員で募集をしている会社を探した。あと、出来れば生地関係の仕事があればいいなと思っていた。服飾とかの言葉とかやたらテキスタイルと言う文字が目に入った。そのどれを見ても要免許だとか、大卒以上だとか。経験者歓迎と言うのもあったので僕はキリヤ堂で一年以上の生地の経験と知識があったからこれは大丈夫だろうと思った。いろんなところの生地関係の求人をピックアップしていったら森川さんに一回の相談では五社までと上限が決まっていることを教えてくれた。それにしても僕の知らない言葉が生地関係の仕事でもやたら多い。テキスタイルが生地のことだとは知っていたけれど、他にデザイナーだとかパタンナーだとか。デザイナーはデザインをする人のことかなと想像出来たけれど、パタンナーとは一体何だろう。パタンと倒れる仕事なのかと僕は本気で思った。あと、正社員に拘らなければ時給九百円とか千円の生地関係のアルバイト募集もあった。この中で五つを選んで職業安定所の窓口にいる職員さんのところへ行って相談をするらしい。僕は条件とか勤務地を比べながら、条件のところに要相談と書いてある会社を選んだ。そして順番待ちの紙を持って僕の順番を待った。それにしても職業安定所にはたくさんの人がいた。これだけの数の人が仕事を探しているのか、みんな仕事がないのか、中にはすごく高齢な人もいるし、女の人もいた。これは社会問題ではないのかと僕は思った。新聞も読んでいないくせに。たくさんの人が順番待ちをしていたため、僕は長時間待つことになった。自分の紙に書かれた番号はまだまだ先だった。窓口が五つあって、五人の人が職業安定所の人と話をしていて、話が終わると席を立ち、番号が一つ進む。見ているとみんな長い時間をかけて話し込んでいる。就職のことだから大事なことであり、みんな一生懸命なんだなあと僕は思った。二人がほぼ同時に席を立ったら番号が一気に二つ進んで、ドンドン進めと僕は思ってしまう。あと、窓口は他にも三つ開いているのにそこは職員さんがいなくて稼働していなかった。カウンターの向こうにはたくさんの職員さんがいた。僕は空いている三つの窓口も職員さんはたくさんいるのだからフル稼働にすればもっと待ち時間も少なくなるし、効率が良くなるのではないかと思った。公務員さんが楽で安定した仕事と言われている気が分かる気がした。僕は順番待ちしている間に森川さんといろいろと話をして待っていた。森川さんは次の仕事は絵に携わるアルバイトに決まっていて、それは友達の紹介で決まったと言っていた。それを聞いた時に僕は生地関係だけでなく、文章に携わる仕事も探しておけばよかったかなと思った。でも、そういう仕事は大卒以上とか経験者のみとか絶対に僕にとっては無茶なハードルがあるのだろうと決めつけて、今回決まらなければちょっと見てみればいいかなぐらいに考えた。ファイナンス業も僕には向いてないし。森川さんは、小沢君は生地の仕事が一番いいと思う、文章は仕事にしなくても自分で書くことも出来るし、小説家の求人なんてないからと言った。確かにその通りだと思った。小説家の求人を想像してみると少し面白かった。

 小説家募集。勤務時間午前九時から午後六時まで。月給十八万円から。昇給年一回。賞与年二回。夏季休暇、年末年始休暇あり。大卒以上。要普通免許。資格、本を一冊以上出している売れっ子の作家さん急募。

 多分、そんな人の書く小説は公務員のような小説なんだろうなあと僕は思った。ようやく次が僕の順番となった。僕は緊張していた。窓口には男の職員さんが三人で女の職員さんが二人。僕は森川さんという彼女がいるにもかかわらず、どうせ話をして相談に乗ってくれるなら絶対に女の人の方がいい、女の職員さんにあたれと心の中で願った。それでも願いはむなしく、男の人の職員さんの窓口で相談していた人が席を立って、僕の番号が呼ばれた。僕は少し残念に思いながら窓口の男の人に、よろしくお願いしますと言って席に座った。職員さんは、免許がないとかなり選択は限られてくると言った。そんなこと言われなくても分かっていると僕は思った。僕が選んだ五つの生地関係の会社の求人募集の条件が書かれた紙を広げて職員さんと色々と相談をした。職員さんは本当に僕のことを考えてくれていて、親身になって相談に乗ってくれているのが伝わってきた。要相談の部分には私が何とか募集をしている会社の人事の方にお願いをしてみますのでと言ってくれた。それから条件などを優先的に考えながら五つの会社にこれから順番に面接のアポイントを取る電話をし、要相談の部分は何とかお願いしてみますと言ってくれた。電話をかける順番は第一志望のところから。第二志望、第三志望と。何か聞くところによると面接には職業安定所の紹介状が無いと面接は受けられないらしい。また、採用人数も決まっていて、現時点で何人が採用されていて、何人の希望者が面接を受けたかも教えてくれた。だから第一志望のところから電話をかけていく。職員さんは手慣れた感じで求人を出している会社に電話をかけ、担当者とオドオドせずにハッキリと喋ってくれた。御社の求人に希望の男性がいる、年齢は二十一才で、キリヤ堂という生地屋さんで一年以上働いていた経験があるのでそれなりの知識もある方です、車の免許は持っていませんがご本人も貯金があり今後免許も取る予定です、専門学校以上の部分で要相談とありましたのでご本人は普通科の高校卒業の方なのですが一度面接をお願いできませんでしょうか。要相談と書いてあるけれど結局は相談など乗ってはくれない。職員さんがすごく頑張って僕のことをアピールしてくれたけれど第四志望までは面接を受けることさえ許されなかった。僕は就職とは本当に難しいものだと思いながら、まだ時間もあるし、全部だめだったらまた他の五つの会社を探してくればいい、待ち時間が長いから先に順番の紙を取って、その間に探しても時間は余るだろうからそうすれば効率がいいなと考えていた。全然期待もしてなかった最後の会社、株式会社本間テキスタイル。高卒以上、免許不要、経験者。この条件を僕は全て満たしている。基本給は村尾さんから聞いたようにいろいろと安いけれど手当てがついて二十万円から。会社の所在地は千駄ヶ谷徒歩五分。交通費別途負担。職員さんに質問をしてみると千駄ヶ谷駅は総武線で新宿から二駅だと教えてくれた。総武線は荻窪駅からも乗れる。この経験者というのだけがひっかかる。職員さんが本間テキスタイルに電話をしてくれる。するととんとん拍子で面接が決まった。僕のキリヤ堂での経験を職員さんが説明する前にすでに面接の日程の話まで進んだ。職員さんが僕に、面接日の希望や都合はあるかと僕に聞いてきたので僕は、履歴書を書くので明日以降ならいつでも大丈夫ですと答えた。職員さんがそのまま電話でそのことを伝えると明日の昼三時に会社まで来てくださいとのことだった。担当者の名前が本間さんだったので社長さん自らが面接をしてくださるのかと僕は思った。それでも本間テキスタイルは従業員数が四人。しかも職種が生地の卸売り。僕は生地を仕入れて売ることだと思い、キリヤ堂では生地を仕入れてお客さんにその場で切って売っていた、一体誰に売るのだろうかと考えた。そして職員さんに紹介状や詳しい求人内容のコピーを貰った。職員さんはわざわざ僕が書類を持ち帰りやすいように大きな封筒に書類を入れて僕に手渡してくれた。職業安定所の名前が入った大きな封筒。これを持って駅まで歩いて電車に乗れば、僕が失業者なのがバレバレになるのに僕は嬉しかった。僕は職員さんに丁寧に頭を下げてお礼を言った。職員さんは僕に、頑張って下さいと言ってくれた。僕を待っていてくれた森川さんに、本間テキスタイルという会社が明日、面接を三時からしてくれると伝え、森川さんは、テキスタイルということは生地屋さんだねといい、小沢君にはぴったりだよと言った。確かにファイナンス業よりいいかもしれないけれど明日の面接に合格しないといけないし、履歴書もまた書かないといけないし、履歴書用の写真はあと三枚残っていたからいいけれど、ファイナンス業の職歴とかはどうすればいいんだろうと僕は思った。それにしても新宿の職業安定所は新宿と名乗っているのに大久保駅の方が近い。僕は明日の予行練習も兼ねて、来た時は新宿駅からだったけれど、帰りは大久保駅からの総武線を利用した。各駅に止まる総武線。阿佐ヶ谷駅に止まった時には河本さんの顔を思い出した。総武線の電車の中、僕は職業安定所で貰った封筒から書類を出して森川さんといろいろと話をした。生地の卸売りとは詳しくは分からないけれど洋服を作る会社とかに生地を売るのではないかと森川さんが言った。そう言われるとなるほどと納得できた。それから流石に元経理だった森川さん、給料が二十万円からなら最初は二十万円としてこれぐらいを社会保険や年金や税金で引かれて手取りが大体これぐらいの金額になるのではと教えてくれた。ファイナンス業は正社員だったけど給料が手取りでそのままもらえたけれど保険とか年金とか税金もどうなっているか僕は分かっていなかった。保険証も持っていなかった僕がいきなり年金まで払うのかと考えたら大人の階段をドンドン加速して昇っていく気がした。それでもそれはまだ気が早いだけで。荻窪駅に着いてまた前の様にいつものドーナツ屋さんで履歴書を書いた。僕が森川さんに、ファイナンス業の一か月はどうしよう、正直に書いた方がいいのかと聞いてみた。森川さんは、フリーターが無職の時期があるのは別に不思議でもないし、仕方ないことでもあるし、別に書かなくてもいい、なんならキリヤ堂にいた期間を一か月伸ばせばいいと言った。僕はキリヤ堂にいた職歴を一か月多めに嘘を書いた。経験者をアピールするために特技の欄にありとあらゆるキリヤ堂で身に着けた知識を書き込んだ。もちろんキルト売り場担当責任者の肩書も書いた。趣味の欄にまで生地を真っ直ぐに切ることと書いた。調子に乗って元手芸部とも書いた。明日の面接は三時からなので森川さんのモーニングコールもいらない。その代り、その日は森川さんが僕の自宅にお泊りをしてクーラーを点けてCをした。常にコンドームを付ける前に膨らませて穴が開いてないかを確認する僕を森川さんは褒めてくれた。さらに履歴書を忘れないように財布と鍵の間に挟んでいるのを見て、小沢君は本当に賢いとも言ってくれた。クーラーの利いた涼しい部屋。それに暖かいお風呂。自炊した晩御飯。森川さんがお泊りする時は必ず何かしらの映画を借りてそれを二人で見る。行きつけのレンタルビデオ屋さんの店員さんは僕が一人の時はエッチなビデオをたくさん借りているくせに、森川さんと二人の時だけは普通の映画を借りていることを知っている。僕は森川さんとレジで僕の会員証を店員さんが機械でチェックしている時に、どうせ僕のことを裏表のあるドスケベ野郎だと思っているのだろうなと思っていた。別にそんなことは僕にとってどうでもよかった。ただ、あの十八禁のコーナーにだけは森川さんを入れたくはなかった。何故だろう。森川さんなら森山さんと違ってそういうのにも免疫はあって、面白いタイトルを見つけてはあっけらかんと笑うだろうし、面白いこともたくさん言いそうだった。それでも僕の頭の中にはバイヤーのことが未だにあった。理由はそれだけだった。図書館で本を借りては読んで。僕の生活水準は確実に上がっていた。今は無職だけれど、貯金もファイナンス業で働いたお金でむしろ増えたし、小説も書いていたし、それを読んでくれる相手もいたし。あとは就職さえして正社員になって、難しい言葉でいうならば福利厚生がちゃんとしている会社に採用されれば。僕は完全に東京の人になる。阪神の川尻の人である河本さんの旦那さんが歌った長渕剛の東京青春朝焼物語をいつか僕も今よりも大きくなった時に部下とか出来たら同じように替え歌で歌っちゃうのだろう。それでも僕は中央線に住んでいるわけでないし、僕が降りたのは西武新宿線の駅だし。替え歌にするにはちょっと語呂が合わないなあと考えたりした。僕は東京で生地に出会い、そして生地がたくさんのものを僕に導いてくれた。生地がたくさんのものを僕に与えてくれた。部屋にクリスチャンラッセルの絵なんてなくていい。森川さんの絵がある。いや、森川さんの絵だからいいのだ。あの日、キリヤ堂のみんなとお別れをした日から一カ月半ぐらいの月日が経った。僕は未だに池袋店には行ってない。森山さんのことも忘れていない。内田さんや佐々本さんのことも。糸井さんや山本さんのことも。河本さんや根本さんのことも。村尾さんのことだって。あの荻窪のいつもの場所に行けばやる気のないシンディローパーやブライアンメイやムーミンの人に会える気がした。でも、現実にはもう社員さん以外の人には会うことはないだろう。僕には森川さんがいる。ひょっとしたら荻窪のスーパーで買い物をしていれば誰かしらに会うこともあるかもしれない。そんな期待も密かに持っていたし、池袋店にはちゃんと就職が決まって大人になったら行こうと僕は考えていた。実際にキリヤ堂でお別れした人の中で一人だけ、僕は再開した人がいた。三階で働いていたアルバイトの今川さんだ。村尾さんの中のキリヤ堂荻窪店の美人ランキングで常に一位だったすごく美人の今川さんのことを僕はほとんど知らないし、会話をしたこともなかった。今川さんはキリヤ堂があった場所のすぐ近くのハンバーガー屋さんでレジの仕事をしていた。たまたまファイナンス業で働いていた時にそのお店の前を通った時、今川さんの姿が奇跡的に僕の目に映った。そしてスーツ姿の僕はその姿を今川さんに見せたかったのと、キリヤ堂時代の話をすることが出来て、もしかしたら他の人が今どこでどんな仕事をしているかを聞くことが出来るかもしれないと思い、僕はそのお店に入った。それでも結局今川さんは僕に対して普通のお客さんに対応するように淡々とレジの仕事をし、僕のことに気が付いてないフリをした。だから僕も今川さんに対して気が付いてないフリをした。僕は確信を持って、今川さんは絶対に僕のことを覚えていると思っていたし、気が付いていたと思っていた。それでもキリヤ堂時代に会話もしたことがなかったし、そういう対応をするのも仕方ないのかなと僕は思って、僕も気安く今川さんに声をかけることをしなかった。僕はただ、あの頃と違って、穴の開いた靴じゃなく革靴を履いて、ボロボロの汚いジーンズやTシャツじゃなくスーツを着てネクタイを締めている姿で、弁当を自分で作って、自動販売機でジュースも買わなかった僕が今ではハンバーガー屋さんでセットを頼むほどに大人になったことを見せたかったのだと思う。今川さんの新しい職場を見つけたことを僕は森川さんにも言わなかった。そしてそのハンバーガー屋さんにも二度と行くことはなかった。いろんな思いを乗せて僕は本間テキスタイルの面接当日、森川さんに玄関から見送られて自宅を出た。まるで新婚の夫婦のようだった。当然お出かけのAもした。森川さんはとてもしっかりしている。スーツを着て出掛ける僕にハンカチやちり紙を持たせてくれた。髪の乱れも直してくれる。しかもハンカチは薄手のガーゼのものと汗を拭くにはちょうどいいパイルかタオルか僕には分からなかったけれどおそらくパイルのもの。いつものことだけど革靴に自転車は本当に似合わない。僕は西武新宿線と中央線と総武線が繋がってくれたらいいのにといつも思っていた。東京の電車は東西には走っているのに縦の電車は本当にない。でもバスは走っている。それでもバスの移動する範囲は確実に自転車で移動できるしその方が早かった。それでもバスを利用する人が多くいるのはきっと需要があるのだろう。電車の運賃より高い二百円の東京のバス。僕もいつか自転車を卒業してバスと電車を併用する日が来るかもしれない。僕はファイナンス業の時と同じように一時間以上前に千駄ヶ谷駅に降りて地図と住所と職業安定所で貰った求人のコピーに載っている地図を参考にして目的地に向かって歩いた。徒歩五分と書いてあったくせに実際は十分以上かかった。ビルの名前もあっているし、看板は出ていなかったけれどビルの一階のポストのところに株式会社本間テキスタイルと書かれた表札のようなものが貼られていた。僕は、場所は合っていると安心し、近くの日影になっているところでハイライトを吸いながら面接の時間の五分前を待った。待っている間に僕はタレントの出川哲郎さんに会った。出川哲郎さんは自動販売機でジュースを買っていた。僕は思わず、あ、と言った。その声を聞いた出川哲郎さんは僕に向かって、どもと言った。東京で初めて芸能人を生で見た僕は、今日はすごくいい日だ、今日の僕はついている、きっと面接も合格して本間テキスタイルの正社員として採用されるだろうと思うことが出来た。また、芸能人の人はテレビカメラの回っていないところでは裏の顔とかあって本当は怖いんじゃないかと思っていたけれどすごく優しそうで気軽に挨拶をしてくれた出川哲郎さんを見て、僕はそういう偏見を捨てないといけないなと思った。おそらくパイルだと思う方のハンカチで汗を拭ってから三時五分前に僕は本間テキスタイルのフロアにエレベーターで上がった。目的の三階でエレベーターのドアが開く。目の前には開かれたオフィスのドアから事務所のような並べられた机とそんなに広くはないオフィスの一番奥の席に座っていた中年のサラリーマンの格好をした小太りでブルドックのような顔をしている人が見えた。僕が挨拶をする前にそのブルドックの人が僕に気付き、立ち上がってすごくいい笑顔で僕に何か言いながら近づいてきた。おそらく面接希望の人かと聞いているのだろうと僕には分かった。見た目がブルドックなのに声はおかまのようでものすごいギャップがあった。僕は、職業安定所から紹介されて三時に面接のお約束をいただいた小沢ですと言った。ブルドックの人はおかまのような声で僕を事務机とは少し離れた来客用の机に案内した。そしてその机にお互い向き合うようにして座り、僕は職業安定所から貰った紹介状と履歴書をブルドックの人に差し出した。ブルドックの人は、私がここの社長の本間ですと言った。部屋の中はクーラーが利いて涼しいはずなのに本間さんは汗をかいていたし、それを何度もハンカチで拭っていた。確かにクーラーは効いているけれど、スーパーとかみたいにキンキンに冷えているわけではない。オフィスの中は僕にはとても快適な温度に感じたけれど、おそらくクーラーの温度をそんなに低くしてないか、除湿とかにしているのだろうと僕は思った。さっそく履歴書を見せてもらうねと言って本間さんは僕の履歴書を封筒から取り出し、机の上に広げ、ハンカチで汗を拭いながら僕の履歴書に目を黙って通し始めた。本間さんの視線が僕の履歴書に集中している隙に、僕もシャキッとした姿勢のまま、目だけを動かしてオフィスの中を眺めてみた。たくさんの生地が束になってハンガー掛けに、まるで洋服をたくさんハンガー掛けにかけているようにしてオフィスの中央に置かれていた。久しぶりに見る生地。しかも生地をハンガー掛けにかけているのなんて初めて見た。本間さんが僕の履歴書を見ながら、お兄ちゃんはキリヤ堂でキルト売り場の担当者をやっていたのと聞いてきた。僕はなるべく大きな声で答えようと元気よく、はいと言った。どんなことをやっていたのと本間さんが聞いてきたので僕は、キルト売り場でキルトの在庫管理やキルトがよく売れるようにサンプルを作って飾ったり、あとはキルト以外の生地も全てお客さんに言われた長さで切って売る仕事をしていましたと答えた。それじゃあお兄ちゃんは生地のことに詳しいんだねと本間さんが言った。僕は、まだ一年と数カ月しか勉強していませんがたくさんの知識を教わりましたと言った。それで営業の経験はあるのと本間さんが聞いてきた。僕は営業と職業安定所の求人募集の紙に書かれていた営業のことを営業中の営業と思っていたので、あまり深く考えずに、そりゃあ仕事をしているところは常に営業中だろうし、営業を募集するのはその会社を営業中にするために募集していると思っていた。僕は戸惑って、本間さんに、営業の経験とはどういう意味なのでしょうかと聞いてみた。本間さんは、お兄ちゃん、営業の仕事を知らないのと驚いたような表情で言って、僕が先ほど気になったハンガー掛けにかけられた生地の束の幾つかを椅子から立ち上がり取って、机の上に置いてから話し始めた。この生地は何か分かるかい、お兄ちゃん。僕は差し出された生地の束の一つを見せられた。起毛でコートなどに使う生地なのかとは想像出来るが、僕はその生地を切ったことがない。僕の知らない生地だった。僕は、分かりませんと答えた。本間さんは、この生地はモッサーと言うんだよ、苔モスに似ているモス仕上げと言って、苔に似ているでしょと言った。僕はその生地を触らせてもらった。起毛だけど苔と言われたらそれっぽいかもしれない。本間さんは次に新しい生地を出してまた同じ質問を僕に投げかけてきた。この生地は何か分かるかい、お兄ちゃん。僕はその生地の名前を知っていた。その生地は知っています、ツイルですと即答する僕。相変わらず汗をハンカチで拭いながら本間さんは余裕を持った表情で続けた。よく知っているね、お兄ちゃん。じゃあ、その生地とこの生地の違いは分かるかな。パッと見で色が違うのは分かる。あと、何か大きな違いがあるのは感覚的には分かる。しかし、それをズバリ言うことが僕には出来なかった。首を捻っている僕に本間さんが言った。綾目は知っているかい、よく生地を見ると綾目が分かると思うけど右肩上がりの右綾と左肩上がりの左綾と言ってね、分かるかな。本間さんの言葉で大きな違いがズバリと分かった。同じような生地でもどちらも僕はきれいな真っ直ぐで切ることは出来ない。もし僕がハサミで切れば、右斜めになってしまうであろう生地と左斜めになってしまうであろう生地。僕はメモを取りたかったけれど今はメモ帳を持っていない。しかもキリヤ堂で得た知識も全然通用しない。佐々本さんならきっと本間さんとも対等に話すことが出来たのだろう。僕には無理だった。それから本間さんが、うちの会社はこういう主に洋服に使う生地を仕入れ先から仕入れ、それを主に洋服などを作る会社に売ることをやっている、それをやるのが営業マンであり、そういう営業マンを募集していたと言った。僕はそれを聞いた瞬間、今回の面接は不採用で終わってしまうなと感じた。出川哲郎さんに挨拶してもらったのに全然だめじゃないかと。その時に事務所の電話が鳴った。本間さんが席を立って小走りに事務机のところに行き、電話に出る。はい、本間テキスタイルです。僕は履歴書が無駄になるなあとか、今日の電車賃や職業安定所までの電車賃が無駄になるなあとか、結局、ちゃんと新卒で就職しないと僕なんかには正社員なんて一生なれないんだろうなあ、何故普通に生きることが出来なかったのかなあとか考えていた。本間さんが電話で話をしている間に全身黒で固めた人が、戻りましたと低い声で言いながら事務所に入ってきた。僕はその人と目が合った。黒いスーツのズボンに上が黒のワイシャツ、ネクタイはしていない。髪型もオールバックで一重で鋭い目つき。僕は一瞬で頭の中で思った。白竜だ、と。白竜の人は、なんだこいつ、という目で僕を見た。すぐに何も見てなかったように自分の席らしき事務机の方に歩いていき椅子がきしむ音がした。僕は北野武さんの出ていた映画で白竜さんを見たことがあった。とても怖いイメージしか持ってなかったので、この会社には怖い白竜さんがいる、あの人も生地を売っているのかと、ちょっと想像できなかった。ただでさえ怖いのに全身オール黒。あの人が営業をしているのか、ナイフとかで脅して売っているのかとか僕はイメージした。もうほとんど諦めている僕は生地を売る白竜さんをいろいろと想像していた。電話を終えた本間さんが僕の前に戻ってきた。ほとんど諦めている僕に本間さんは意外なことを言った。お兄ちゃんは田舎から出てきたんだね、理由は何、と。僕は、東京にただ漠然と憧れていたからですと答えた。田舎での工場で働いていたことも職歴として書いてあった。本間さんは、何故この工場で働き続けなかったのかと聞いてきた。僕は、その工場には上京資金を貯める為に働きに行っていただけでそこに就職するつもりは初めから無かったと答えた。それから本間さんは、お兄ちゃんに営業はまだ無理かもしれないけれど、さっきも見たように会社の電話番もいないし、生地のサンプルを作る人間もいない、だからもしお兄ちゃんがよければ時給千円でアルバイトとして働いてみないか、と。僕はほとんど諦めていたのでびっくりしながら頭の中で計算をしていた。一日八時間働いて八千円。本間テキスタイルは隔週で土曜日がお休み。月に二十三日働くとして十八万四千円。悪くない。正社員ではないけれど、スーツを着て生地の仕事に就くことが出来る。僕は本間さんによろしくお願いしますと頭を深く下げた。あ、白竜の人もいるから怖い、とその時僕は思った。本間さんが、おーい、小林と言った。白竜の人が低い声で返事をしながら僕と本間さんのところに歩いてきた。ブルドックでおかまのような声なのに怖い白竜の人を部下にしている本間さんはすごいのだろう。生地の知識もすごかったし。本間さんは、このお兄ちゃんが小沢君と言って明日からうちで電話番をしながらサンプルも作ってくれるから、こいつが小林ねと僕を白竜の人に紹介してくれた。白竜の人にこいつと言っていることに本間さんはすごいと思った。また、明日からもう働けるのかとも思った。そして僕は白竜の人である小林さんに、明日から本間テキスタイルさんでお世話になります小沢と言います、よろしくお願いしますと椅子から立って頭を深く下げて挨拶をした。小林さんは表情を変えずに、あ、よろしくと低い声で言った。佐々本さんの男バージョンとはちょっと違う。やる気がないと言うよりもどんなことが起きても動じない目をしている。小林さんはさっさと自分の席に戻っていった。それから僕は本間さんからいろいろと説明を受けた。僕の仕事のこととか、勤務時間とか、僕の交通費についてだとか。僕は荻窪駅まで自転車で、そこから千駄ヶ谷駅まで電車で通勤するつもりだった。本間さんは電車とバスの定期代を出すからと言ってくれた。僕は、荻窪駅までは自転車を使っているのでバスの定期代はいらないですと言った。本間さんは、使わなくても会社が負担するから、バスの定期代を生活費に使えばいいと言ってくれた。僕の頭の中で月の給料が十八万円後半になるぞと計算される。これはもう、待遇は正社員と大差はないと思い、本間さんの優しさが嬉しかった。やっぱり出川哲郎さんに会ったことは僕に大きな波が来ていることを知らせてくれるためだったのだと僕は思った。それから本間さんが小林さんに、お父さんを呼んできてと言った。僕は言葉の意味がよく分からなかった。お父さんとはあだ名なのか、会社でお父さんと呼ばれている人ってどんな人なのか、もしかしたら本間さんが社長だけどもっと上の人がいてゴッドファーザー的な人がいるのかと考えた。小林さんが低い声で返事をして事務所から出ていき、すぐに戻ってきた。そしてその後ろから腰の曲がったおじいさんが事務所に入ってきた。本間さんがその人に僕のことを紹介してくれた。本間さんは本当にその人のことを、お父さん、お父さんと呼んでいた。僕は本当の親子なのかと思ったら、その人は本当に本間さんの父親だと紹介された。それにしてもどこから現れたのだろう。本間テキスタイルの社長はブルドッグでお父さんが会社にいて、しかも白竜までいる。本間さんが、若江はいつ帰ってくるんだと言いながら壁にかけてあるホワイトボードを確認して、六時かと言った。すると小林さんが低い声で、若江さんは直帰すると言っていましたよと本間さんに言った。え、そうなの。本当に本間さんの声と顔はギャップがある。あと、僕は直帰をチョッキと思っていたので若江さんと言う人はチョッキの仕事で六時まで会社に帰ってこないのだろうと思った。それから本間さんは、職安に連絡とかの手続きなどはお父さんにやってもらうので書類は預かるね、みんなで今日はお兄ちゃんの歓迎会をしようと思ったけれど一人社員が帰ってこないから明日にでもするからね、仕事のことは小林からいろいろと聞いてね、あと今日の交通費としてお金渡しておくね、明日から毎朝十時には会社に遅れないように来てねと言って僕に千円札を一枚くれた。僕は今日の交通費は千円だとお釣りが出ると思った。お父さんが僕に僕の名前が書かれたタイムカードを手渡してきた。事務所の入り口にタイムカードの機械とタイムカードを入れる場所があった。小沢君募金箱はもう絶対に作られることはないんだろうと思っていたけれど、本間さんがくれた千円は同じ意味合いがあった。僕は本間テキスタイルにアルバイトだけど採用された。僕は事務所を出る時に、今日はありがとうございました、明日から宜しくお願いしますと言って深く頭を下げた。お父さんが振り絞るように、お疲れ様と。本間さんがおかまのような声で、お疲れ、明日からよろしくね、お兄ちゃんと。小林さんが作業している事務机から鋭い視線だけを一瞬僕に向けて、お疲れ様ですと言った。今日は僕の自宅に帰れば森川さんがご飯を作って待ってくれている。自宅に戻った僕は部屋の鍵を持っているにも拘らずチャイムを鳴らした。ドアに付いている除き穴から部屋の中から森川さんが僕の姿を確認しているのが分かった。そして森川さんがドアの鍵を開けてくれる。そういうのがよかったし、僕は好きだった。どうだったと聞いてくる森川さんに僕は、村尾さんから教えてもらった片手だけで一瞬でネクタイを外す方法でネクタイを取りながら、新婚夫婦の旦那さんが会社での愚痴を言うような感じで、いかにも面接は残念な結果だったように振舞った。森川さんは僕のそんな態度を見て、おめでとう、よかったねと言った。森川さんは僕の性格などお見通しなのである。僕は、騙しがいがないと言いながら、生地屋さんでまた明日から仕事出来ることになったぞ、と大きな声を出して喜び、森川さんも同じノリで、やったぞ、と喜んだ。その日はいろんなことを話した。本間テキスタイルの社長のことやお父さんのこと、そして何よりも白竜がいるということ。森川さんは白竜の人である小林さんのことに食いついてきた。白竜ってビルから落ちそうな人の指をナイフで切るような人でしょ、と。でも僕にお疲れ様ですと言ってくれたことや面接時間を待っている間に出川哲郎さんに会って挨拶をしてくれたこと、怖いけれど偏見を持つのはいけないと、生地の仕事をしているのだからいい白竜さんだよ、と。それから僕は思い出したようにメモ帳を取り出し、綾織り、左綾、右綾、モッサー、苔モスと書き込んだ。試しに森川さんにその言葉を知っているか聞いてみた。全く知らないと森川さんが言った。僕はおそらく生地の次のステージに向かおうとしているのだろう。社員じゃなくアルバイトだけど、給料は確実に上がってきた。ファイナンス業の時よりは思い切り下がったけれどそれでもそれは気にはならなかった。本間テキスタイルで生地のことをもっと勉強して、いつか免許を取って、それでいつか生地の仕事で正社員になって。小説なんて趣味で書き続けることで満足だし。締め切りに追われる先生とか呼ばれる作家さんとかもいいけれど、僕は生活の締め切りにいつだって追われていた。働かないと生活できないし、ご飯だって食べられない。病気をしても保険証がないから病院にも行けない。野良猫が与えられた餌に対して好き嫌いなんて言ってられない。もし、僕の物語が誰かの元に届くことになってもお金がないといけないのだ。僕の書く物語に森川さんが絵を描く。それはいつかそうなればいいねであって。学生時代の甘えた考えはもう二十一歳の僕には微塵も残っていなくて。そういうものはいずれみんな、自分には昔はなりたいものがあって、それでも努力した人もそうでない人もなりたいものになれなかった人はそれを懐かしく語る時期が人生の途中とかで来る訳であり、僕ももう心の中では諦めていることを知っているわけで。僕は小説を書くことをあの日から続けてきたけれど、どうしても昔の僕に勝つことが出来なく。高校時代に書いた作品に勝てるようなものは一つも書けなくて。そこだけは言い訳とか甘えに溢れていた若い頃の自分を唯一自分で褒めてあげたい気持ちになったりした。そう言えばムルソーは正社員だったのだろう。それでも今の僕には将来の希望が満ち溢れていて。就職祝いのお祝いのCはまたいいものだった。AもCも僕は飽きない。森川さんと付き合い始めてもう半年が経った。僕はどれぐらいのコンドームを使ったのだろう。僕はエッチなビデオは平気で借りることが出来るくせに未だにコンドームだけは行きつけの自動販売機で買っていた。もう、あの機械の中にどれだけの数の百円玉や五百円玉を入れてきたのだろう。蔵が建つんじゃないか。もちろん穴の開いていたことは一度もなかった。それでも僕は必ず装着する時には膨らませて確認だけはしていた。本当は洗えば二回使えるんじゃないかとか考えていたけれどそこだけは見栄を張りたかった。もう森川さんの僕の自宅にお泊りする頻度はものすごいことになっていた。それでも僕の家の電話に森川さんのお父さんから電話がかかってくることはなかった。明日からまた弁当生活が始まる。東京でフリーターをしていると分かることがある。多くの人が東京に目的を持ち、田舎から上京してくる。もちろん学生の人も多い。そしてそのほとんどの人が必ず田舎に帰るということだ。河本さんの旦那さんの様に東京の人になれるのはそんな中のごくわずかであると言うこと。そして僕には分かっていた。僕はもう東京の人なのだ。

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