第11話

 大晦日なのに東京の街は人が溢れかえっている。田舎にいた時はどこの家にも正月用の門松だとかしめ縄だとかがどこの家にも用意されていたものだけれど東京ではそう言うのはあまり見ない。森川さんの家はキリヤ堂からすぐ近くにあった。お昼過ぎ、もうあと半日経てば年が明ける時間に僕は森川さんの家のチャイムを鳴らした。家族の人がインターホンに出たらどうしようと僕は考えていた。すると満面の笑みで森川さんが家のドアを開けて僕に手を振った。家族の人が出てこなくてよかったと僕は思いながら森川さんの家にお邪魔した。油断していたところ、森川さんの部屋がある二階に階段で上がる前に森川さんのお父さんらしき人に会った。その人に、こんにちはと言われたので僕も、こんにちはと返した。それから、君は誰だと聞かれたので、森川さんのお友達の小沢と言いますと答えた。階段を途中まで登っていた森川さんが怒りながら、そんな質問攻めはやめてと言った。その人は僕に、君の電話番号を教えなさいと言ったので僕は電話番号を教えた。その人は、ちょっと待ってと言って、マジックを取り出し、部屋に置いてある箱ティッシュの裏側に僕の名前と電話番号を書いた。僕は何かあったら責任を取れと言われるのではないかと思いながら階段を森川さんの後を追うように登って部屋に通された。初めて入る女の人の部屋。部屋の中には二段ベッドがあった。僕は二段ベッドが気になって森川さんに聞いてみた。よく見ると机も二つある。森川さんは、お兄ちゃんと一緒にこの部屋を使っていると言った。僕の中でいろいろな計画とかこの後の展開とかが一瞬で吹っ飛んだ。森川さんのお兄さんは今出かけていて、夕方には帰ってくるのではと言った。ワクワクが半分以上なくなったけれど、僕は初めての女の人の部屋をジロジロと眺めた。お兄さんと同じ部屋だけどジロジロと眺めた。森川さんがお兄さんの椅子を移動させて、ここに座ってと言った。森川さんの部屋、おそらく森川さん専用のスペースと思われる部分には絵がいっぱい貼ってあった。森川さんの夢は絵を描くことだ。画家の人が描いたような素人の僕でも上手いと思う絵がいっぱいあった。よく見るとどの絵にも右下にNORIKOのサインが。森川さんの下の名前は典子だった。僕は、これらの絵は全部森川さんが描いたのかと聞いてみた。森川さんは他にもスケッチブックを取り出して少し照れながらたくさんの森川さんが描いた絵を見せてくれた。僕はこんなにすごく上手い絵を描けるのに森川さんはプロになれないのかと思った。森川さんは、描いた絵をフリーマーケットで売っていると言った。僕は一枚どれぐらいで売れるのか聞いてみた。森川さんは自虐的に笑いながら、五十円とか百円と言った。あとはフリーマーケットで絵を売りながらお客さんにリクエストを貰えば似顔絵も描くと言った。僕は似顔絵の値段はいくらなのか聞いてみた。森川さんは、似顔絵は値段を決めてなくてお客さんが好きな値段でお金を払ってくれる、一万円貰った時もあるし、五円玉一枚だった時もあると言った。それから森川さんが、特別に君の似顔絵を描いてあげようと言ってきた。僕は時間がかかるのではないかと聞いてみたが、すぐに描けるからと森川さんはクレパスのようなものを引き出しから取り出し画家の様にスケッチブックを構えて僕を見た。僕は、ベレー帽とか持ってないんですかと聞いてみた。森川さんは爆笑した。私は手塚先生かとツッコまれた。スケッチブックと僕を交互に見ながら僕の似顔絵を描きながら森川さんが聞いてきた。小沢君は私とか根本さんのことを不細工だと思ってるでしょ、と。僕は、別にそんなことは思ってませんと答えた。すると、村尾氏は絶対に不細工だと言ってるでしょと言われた。僕は答えに困って、えーと、うーんと黙り込んでしまった。森川さんは、だからあいつはいつまでも彼女が出来ないんだよと言った。それから僕のことをいろいろと聞かれた。小沢君は本当に今まで誰とも付き合ったことがないのとか、ラブレターを貰ったりバレンタインデーにチョコレートを貰ったこととかないのかとか、本当に童貞なのかとか、意外と田舎では結構モテてたんじゃないかとか。僕は田舎でもモテたことはない。あ、でも一度だけバレンタインデーにチョコレートを貰ったことがあった。森川さんがその話に食いついてきた。詳しく聞かせてと。それでも手を動かしながらスケッチブックと僕の顔を交互に見ている。僕がバレンタインデーにチョコレートを貰ったのは中学三年生の時だった。相手は全然知らない同じ学校の一学年下の女の子だった。顔はかわいらしい女の子だったけどすごく太っている女の子だった。その女の子は勇気を出してこっそりと下校途中の僕を捕まえてチョコレートを渡してくれて僕のことが好きだと言ってくれてすぐに走ってどこかに行ってしまった。僕は一瞬の出来事だったのと生まれた初めて女の子に告白されたことにポカーンとなり、素直にすごく嬉しい気持ちになった。でも何故か翌日から学校でみんなにからかわれるようになった。みんなにあのデブと付き合えばいいとか、あのデブは何でもやらしてくれるとか、デブだから乳があるとか。デブデブとうるさかった。そんなことを言われたから僕はその女の子と付き合ったらみんなの笑いものになるんじゃないだろうかと思った。それからしばらくして同じく同じ学校の一学年下の背が低い男の子が僕のところにやってきた。その男の子は僕にチョコレートをくれて好きだと言ってくれた女の子のことを僕にプッシュしてきた。その男の子が何故僕にそんなことを言ってくるのか分からなかったけれど、僕はその男の子からあの子はずっと僕のことを好きで、ずっと悩んでいて、バレンタインデーにものすごく勇気を振り絞って僕に思いを伝えたということを聞いた。それから何故か僕が下校している時にその男の子が僕の横に来て並んで歩きながら話をする日が続いた。その男の子は僕のことを好きと言ってくれた女の子からずっと相談を受けていたみたいで、何とかその子には幸せになって欲しいと言っていた。僕はいろんなことを考えた。もしかしたらこの先、僕のことを好きになってくれる女の子なんて一人も現れないかもしれない。学校でも女の子と付き合っている男子の方が圧倒的に少ない。彼女が出来るとその子といろんなことが出来る。エロ本では黒く塗られて見ることが出来ない女の人の股の部分とか見られるかもしれない。そういえば噂で僕のことを好きと言ってくれた女の子はデブだけどエロいと聞いた。デブだけどすぐにやらせてくれるとか、デブだけどすごいテクニックを持っているとか。でも、僕がその女の子と付き合うとみんなにバカにされたりするんだろうなあとか、僕はデブと付き合っているとかいろいろ言われるんだろうなあとか考えたりもした。背の低い男の子はずっと僕にあの子は少し太っているけれどすごくいい子だと何度も言ってきた。その女の子のことを僕は全然知らなかったけれど、この背の低い男の子は良いやつだなあと思った。僕はずるいからいろんなことを計算ばかりしていた。とりあえず付き合って、すぐにやりたいことだけやってしまい、すぐに別れてしまえば一番いいんじゃないかとか考えたりもした。それなら僕の欲求も全て解決するし、周りからもバカにされることもないし。でもそれをやってしまうと女の子はどうなるのだろうか。ホワイトデーの日、背の低い男の子がセッティングまでしてくれて僕はその女の子と二人きりになった。その女の子は僕にチョコレートを渡す時に一生懸命、僕の目を見ながら僕のことを好きだと言ってくれたのに、僕はそれに対して、女の子の目を見ることもせず視線を適当にそらしながら他に好きな人がいるし、受験があるとか、なんかよく分からないけれどごめんとか曖昧な言葉でうだうだとだらしなくお断りの意思を適当に伝えた。今思えば最低で本当にダメ男だ。僕がそんなんでその場でポロポロと涙を零しながら泣いている女の子を置き去りにして僕はサッサとその場から立ち去ってしまった。翌日、僕は背の低い男の子からものすごく罵られた。僕はその男に、本当に悪いことをした、断るにしてももっとしっかりと男らしく、相手を傷付けずに断ることは出来ないけれど、一生懸命には一生懸命で応えるべきだったと言い、その女の子にそのことをごめんと言っていたと伝えて欲しいと言った。その男の子は、そう思っているなら自分で伝えればと冷たく言って僕のもとからサッサと立ち去ってしまった。その場に取り残された僕はすごく惨めな気持ちになった。年下の男の子に罵られて。僕のことを好きになってくれた女の子は多分、もっと惨めな気持ちになって泣いていたのだろう。それから卒業するまで何度かその女の子と背の低い男の子と廊下で会ったりしたこともあったけれど二人とも僕とは目を合わせないように普通にすれ違っていった。僕は今でもたまに後悔したりする。あの時、あの女の子と付き合っていれば僕は絶対に童貞じゃなかったのに、と。あれからとても長い時間が経ったにも関わらず、記憶の中であの女の子の気持ちを支配しているつもりでいる自分が少し嫌いだった。あの子はもう今は他の誰かと付き合っているのかなと考えたりもする。森川さんはその話を聞いてから僕に、小沢君はデブの女の子が嫌いなのかと聞いてきた。森川さんは世間一般的に言えば太っている。でもここでデブの女の子は好きではないと言ってしまえば僕の保険である二人、森川さんと森山さん。その一人を失ってしまうと考えた。僕はずるい。僕は森川さんに、別に太っているのは気にはならないと答えた。じゃあ、なんでその女の子を振ったのかと聞かれた。僕は、周りの人に笑われるのが当時は子供だったから嫌だったからだと思うと答えた。森川さんは、それなら今は周りに笑われても付き合う相手の見た目とかは気にならないのかと聞いてきた。僕は心の中では思っていないにも関わらず、付き合う女性の見た目は特に気にはしないと答えた。それから森川さんから根本さんの話を聞かせてもらった。根本さんは太っていないけれど、世間一般的に見て、ブスと言われるくくりに入る。でも実際に話をしてみると顔のことはだんだん気にはならなくなっていた。少なくとも僕は根本さんのことを見た目で見下して話すことはない。根本さんは昔から見た目のことで散々嫌な目にあってきたと森川さんに聞かされた。だから根本さんは今では結婚とか、異性と付き合うつもりも全くないと考えていることも。別にだからと言って女性が好きなわけでもないということ。ただ、男に興味を持つことはないと本人が言っていたということ。だから根本さんが僕と話をしていることはかなり珍しいことだと森川さんは言った。村尾氏も菅谷さんも仕事のことしか根本さんとは会話はしないと。そんなことは考えたこともなかった。根本さんは生地のことを僕にいろいろ教えてくれたし、ムーミンの人である根本さんは普通に会話をしていて、下ネタになるとその場から逃げ出す人。それから俯きながら目だけで僕のことを見つめながらドキッとすることをたまに言う人。それでも僕は一生結婚もしないとか、異性と付き合うつもりもないと自分でルールを作ってしまうのはよくないのではないか、もしかしたらすごくいい出会いを明日とか近い将来にするかもしれない、そんな時に意地を張って自分に素直になれなくなることの方が問題ではないのかと言った。森川さんはサラリと、だからそれ以上の辛い経験を今までしてきたんじゃないかなあ、根本さんにそれじゃあ私と付き合ってと言われたら小沢君は付き合うのかなと言われ、僕は返事をすることが出来なかった。僕はきれいごとばかり言っている。それから森川さんは、私も昔から男の人にはいろいろ言われてきたけれど私は男の人に興味はあるなあ、って言うか私ほどの女を何故、世の男たちは放っておいているのだろう、見る目がないなあと言い、まあ、私はこれぐらいお調子者でスーパー勘違い女だからまだ前向きに生きていけるんだろうと言った。それから、私は絵を描いている時が一番楽しいし、絵を描くことが私の恋人なのかもしれないと言ってまた照れ隠しのように大きな声でアッハッハーと笑った。森川さんの手は動き続け、目は僕の顔とスケッチブックを何度も往復している。小沢君は何故キリヤ堂でアルバイトをしようと思ったのと僕は聞かれた。僕は本屋さんを寝坊してそのままクビになったことを説明して、ふらふらとアルバイト募集の張り紙を探して歩いていたらキリヤ堂の張り紙を見て、店の中を見学してからそのまま働きたいんですけどとお店の人に言ったらそのまま採用されたからと言った。森川さんは僕に、キリヤ堂を見学した時に女の人しか働いていなかったからハーレムみたいだとか思わなかったかと聞いてきた。僕はドキッとした。僕は、前の本屋さんではあまり人に優しくされたことがなかったのでキリヤ堂の人はみんな優しくて、僕によくしてくれるので嬉しいですと言った。答えになっていない。それでも森川さんは会話を続けてくれて、私たちも小沢君のような男の子は初めて見たからね、まだ若いのに田舎から出てきて一人暮らしして、家賃ってお金ごっそり持って行かれるんでしょ、時給八百円で、自分でお金を稼いでちゃんと外食もしないでやりくりして生活してるってすごいと思うから、みんなそういう気持ちで小沢君を見ていて、何かをしてあげたくなるんじゃない、と言った。それから森川さんから、君は彼女が欲しくないのかと聞かれた。僕は、出会いがないと答えた。それを聞いて森川さんが、キリヤ堂に女の人はたくさんいるじゃないか、キリヤ堂の中で誰か気になっている人とかいるのかと言った。僕はうーんと考え込むフリをした。僕の中ではもう、森川さんか森山さんのどちらかと付き合いたいと思っていた。でもそれは言えない。パートの人は別として、経理の下地さんはきれいだけど彼氏がいるらしい。三階の社員の佐藤さんも同じく。岸本さんは同い年だけど森山さんの方が全然いいし、ほとんど話もしたことがない。同じく三階のアルバイトの今川さんはめちゃくちゃ可愛すぎるので僕は戦う前から白旗を上げている。二階では河本さんは阪神の川尻に似ている旦那さんがいるし、根本さんは付き合うとか考えたこともない。内田さんや佐々本さんは相手がいる。一階の社員の千田さんは菅谷さんといろいろあるし。一階のバイトの子は何人かいたけど名前も顔もあんまり知らない。その辺の情報は大体村尾さん情報だった。僕は無難に、今は仕事で覚えないといけないことも多いし、生活のこととか、貯金もあまり出来ていないのでそう言ったことはあまり考えたことがないと答えた。森川さんは、君は貯金をしているのかと驚いた。森川さんは貯金など一円もしていないらしい。キリヤ堂で稼いだお金は決まった金額を家に入れて、残ったお金は趣味である絵の道具に使っていると。それからフリーマーケットでもお金は少し稼げるけれど、それも全部使ってしまっていると。僕はハイライトが吸いたかった。それでも女の子の部屋で煙草は吸えない。我慢した。森川さんが、もう少しで完成すると言った。それからちゃんとした正社員とかになれば生活も今より給料も上がるし、保険とかも会社が負担してくれるし、生活も楽になるのに、君は就職をしようと思わないのかと聞かれた。僕は保険証を持っていなかった。それに森川さんもキリヤ堂では社員さんと同じ制服を着ているけれど、身分はアルバイト、僕と同じフリーターだ。僕は、就職とかいつかしないといけないと思っているし、そうすればお給料も固定で何かと便利になるし、生活も楽になると思っていると答えた。それでも就職して正社員になるということは一生その会社で働かなければいけないことだし、自分の好きなことややりたいことと言うものが今は見つかっていないことや田舎の高卒の人間で車の免許証も持っていない自分にはなかなか正社員になるということは難しいことであるとも答えた。もし、キリヤ堂の偉い人が僕に、君をキリヤ堂の正社員にしてあげるよと言ってくれたら僕は喜んでキリヤ堂に就職していいと思うだろう。それでもバイヤーとかにはなりたくはなかった。二階でずっと生地をみんなと一緒に切っていたかった。その条件でよければキリヤ堂の正社員は最高だ。実際、勤務時間や勤務日数は正社員の人と変わらないか、ちょっとだけ僕の方が多く働いている。村尾さんも週に二回お休みを貰っている。村尾さんからキリヤ堂の正社員の待遇について少しだけ聞いたことがあった。村尾さんは高校を卒業してから新卒採用でキリヤ堂に就職をした。生地の仕事がしたいとかは特に何も考えず、生地のこともキリヤ堂に入社してから覚えたらしい。条件は給料が額面十八万円からのスタートで大卒の人は二十二万円からのスタートだということ。村尾さんはそれが納得できないと言っていた。そして一年で基本給が五千円上がるということ。確かに村尾さんが高卒で四年働いて十八万円の給料が二十万円になってもそこからキリヤ堂に入って来る同い年の大卒の人たちはそれよりも二万円多い二十二万円の給料。不満に思っても当然だと思った。大卒の人は出世も早く、また一年で上がる給料の金額も高卒の村尾さんより多いらしい。また、ボーナスも基本給の三か月分を夏と冬に貰えると言っていて、僕はとても羨ましく思って単純に、月の給料の三か月分も貰えるなんて夢のような話じゃないかと村尾さんに言ったことがある。それを聞いた村尾さんは僕にからくりを教えてくれた。村尾さんの月の給料は基本給が八万円ぐらいでそこにいろいろな皆勤手当てという、休んだりしなかったら貰えるお金とか、平社員なのに役職手当だとか、よく分からない手当てが上乗せされてそれが月の給料になるらしく、ボーナスが基本給の三か月分と言っても月の給料の三か月分ではなく、基本給八万円×三か月でそこから税金とかちょこちょこ引かれて貰えるボーナスは二十万円ぐらいだと言っていた。それを聞いて僕はなんか詐欺みたいな話だなあと思ったけれど、それでも月の給料とは別に年に二回も特別にお金を貰えることは羨ましかった。ハゲの村尾さんやスケベそうな小宮山さんはかなりの給料とボーナスを貰っていると聞いた。僕もせこいところがあって、僕の勤務時間は午前十時から午後七時までで間に一時間の休憩。それで一日八時間労働と決まっていたけれど、キリヤ堂のタイムカードは十分刻みで時給八百円を六で割った百三十円ほどを目的にわざと仕事の終わった七時からトイレに行ったり、タイムカードを先に押さずにエプロンをしまったり、帰り支度をゆっくりとして七時十分とか二十分を過ぎてからタイムカードを押したりもしたけれど七時以降のお給料は発生しなかった。森川さんが、出来たと大きな声で言った。僕は森川さんからスケッチブックを受け取った。森川さんが描いてくれた僕の似顔絵を僕は見た。僕だ。僕は自分がもっとかっこいいと思っていたけれど森川さんが描いた僕の似顔絵はリアルでそれを見た瞬間、僕はもっとシュッとしてるんじゃないかとか思ったけれど、それでも僕だった。すごくリアルで上手い、僕は人から見たらこんな顔なのか、でもそっくりだし。僕はすごく絵が上手いですねと言った。プロみたいですとも言った。森川さんはそれに対して照れながら、そう言われると画家になった気になるなあと調子に乗ったように振る舞い大きな声で笑った。そして、その似顔絵は君にあげると言ってきれいにスケッチブックから僕の似顔絵を切り取って額を取り出してそれに入れてくれた。僕は額が出てきた時点でびっくりした。額に入れられた僕の似顔絵、右下にNORIKOのサイン入り。これをそのまま売れば何万円とかで売れるんじゃないかと僕は思った。僕は森川さんから趣味で絵を描いていることは聞いていたけれど実際に森川さんが描いた絵を見たのは今日が初めてだった。部屋に飾っているものや今描いてくれた僕の似顔絵を見る限り普通に高く売れるんじゃないか。僕は森川さんに、画家になればいいじゃないかと言った。森川さんはすごく照れながら早口で、いろいろとやっているけれどなかなか好きだけではお金にならないとか、私ぐらいのレベルの人は山ほどいるとか、いろんなところに送っているけれど賞を取ったりできないと言った。僕は森川さんに、将来は画家になるのかと聞いてみた。森川さんはいつもの明るくひょうきんな表情から一変して僕の顔から視線を外して斜め下を見ながら呟くように、まあ、いつかは、そうなれたら、いいとは思っているけれど、誰もがなれるものでもなく、まあ、なれたらいいかなあとは思っているけれど、と小さな声でぼそぼそと言った。それから森川さんは反論するように、小沢君の夢は何なのかなと僕に言ってきた。夢。何かなりたいものがあるのだから小沢君は東京に出てきたのだろう、と。僕は考え込んだ。僕が田舎を飛び出して東京に来た理由はなんだったっけ。僕は自分の育った町が好きではなかった。テレビで見る都会とは違う国じゃないのかというくらい田舎で。人も少ないけれどその分噂とかすごく早く広まったりして。友達の親が悪いことで新聞に載った時にその友達は周りからボロクソに言われていた。大学に進学するわけでもなく、高校を卒業したらみんな、地元で働く。でも僕はあの町を離れたかった。もし、一生この町で暮らしていくと想像した時にすごく怖くなった。こんな狭い町で一生を暮らしていくことは僕には出来ない。だから僕は東京に出ようと思った。東京で何者かになろうとは考えたことはなかった。僕の好きなことは何だろう。昔から僕は本を読むことが好きだった。高校時代には自分で物語を書こうと思い、小説を書き始めた。当時好きな作家はオーヘンリーとかサキだった。短編で有名な外国の作家さんだった。短い文章で、とても面白い物語を書く作家さんだった。これぐらいの短い文章なら僕にも書けるのではないかと思って書き始めた。小説を書くようになって一つ困ったことがあった。それは誰かに読んでもらいたいということだった。僕は評価が欲しかった。でも親に見せることも恥ずかしいし、学校の友達に見せるのも恥ずかしい。学校には文芸部と言う小説を書くのが好きな人が集まる部もあったのだけど、部員は女子ばっかりだったので僕は入部するのが恥ずかしくて文芸部にも入部しなかった。ある日、雑誌を読んでいたら短編小説を募集しているコーナーを見つけた。短編で有名な日本の作家さんが読んでくれて、優秀な作品には賞も貰えると書いていた。僕はそのコーナーに自分の作品を送り続けた。二年以上、何作も書いて送り続けた。女の人に海辺で潮が引いた時間に手錠でその場に拘束されて、潮が満ちて溺れてしまう前に女の人に本当の愛を伝えることが出来れば手錠の鍵を外してもらえる話とか、億万長者と貯金百万円の男が百万円をかけて運の存在を証明する話とか。それでも僕の作品が賞を取ることは一度もなかった。僕は自分の書いた小説はレベルが低いのだろうなあと思い、少しでも面白いものを書いて送ろうと何度もチャレンジし続けた。ある時、その雑誌を読んだら、そのコーナーの短編で有名な作家さんの言葉が載っていた。最近の応募者は礼儀を知らない。作品を送ってくるのはいいがそれ以前の応募者が多すぎる。封筒に御中と書いていない応募者がやたら多い。封筒に御中と書いていない作品は読まずに捨てている。僕は御中と言う言葉を初めて知った。僕はこのコーナーに二年間、封筒に御中と書かずに自分の作品を送り続けていた。僕の作品は全て読まずに捨てられていたのだと知った。僕はすごく腹が立ったけれど、御中と封筒に書かなかった僕が悪いのか、それとも有名な偉い短編の先生の言い分が間違っているのか分からなかった。一つだけ思ったのは、だったら応募要項のところに御中と封筒に書いていない作品は読まずに捨てますと書けばいいのにということだった。僕は馬鹿らしくなってそのコーナーに小説を送るのをやめた。高校三年の時に初めて原稿用紙五十枚の長さの自分の中ではものすごい大作を書くことが出来た。原稿用紙五十枚は短編になるけれど、宿題の読書感想文の原稿用紙四枚で同級生たちが困っていたレベルだから、僕はものすごく長い物語を十八歳の僕が書きあげたことに興奮した。特別な作品だった。僕の学校には文学賞があった。詳しく聞いてみると僕の学校を卒業した有名な小説家がいるらしく、その人の名前をそのまま賞の名前にしていた。年に一回、冬休みの前までに応募者は何人かいる審査員の先生に自分の作品を渡せばよかった。学校の成績もあまりよくなかった僕。現国の成績もよくない。そんな僕がその賞に原稿用紙五十枚の作品を応募した時、受け取った先生はびっくりしていた。結果は卒業前に発表される。僕は余裕をぶっこいていた。原稿用紙五十枚の会心の力作であり大作。僕は全校生徒の前で表彰されることを想像したり、卒業文集に僕の作品が載って僕が小説を書いていることを知らない学校のみんなや成績が悪いと思っている先生たちが僕の小説を読むことを想像して恥ずかしいけれど、僕の好きな女の子とかが僕の小説を読んでくれるのかなと考えたりしたらニヤニヤが止まらなかった。結果が発表された。僕の作品はその賞を受賞しなかった。僕とは違う男の生徒が書いた作品がその賞を受賞した。卒業文集を手に取りその作品を読んでみた。僕はびっくりした。その作品はあまり有名ではない僕が好きな日本の作家さんの短編作品を一字一句そのまま丸パクリした作品だった。僕はいろんなものにがっかりした。ものすごくがっかりした。それから僕は小説を書かなくなった。もしあの賞を僕が受賞していたら。受賞した男の生徒が盗作作品を応募しなかったら。審査員である立派な先生たちの一人でもそれに気付いてくれていたら。僕は小説を書くことを続けていたと思う。僕は森川さんに、なりたいものは特にないと答えた。それから少し森川さんと話をしていたら森川さんのお兄さんが部屋に入ってきた。僕は急いで椅子から立ち上がろうとした。この椅子はお兄さんの椅子だ。それでも、座っていていいと言いながら、森川さんに僕のことをお兄さんに紹介された。同じ職場で働いている小沢君、前に話をしていた、と。森川さんのお兄さんは森川さんのお父さんとは違って僕に笑顔で接してくれた。森川さんのお兄さんは森川さんと違ってすごく爽やかでスリムで外見は兄妹なのに全然似ていなかった。でも人当たりの良さはすごく似ている。小沢君は年末年始も実家に帰らず、一人で暮らすのはすごいと言われた。僕はその後、森川さんとお兄さんといろいろと話をした。一つだけ思ったことが兄妹としてものすごく仲がいいということで、僕にも兄や姉もいるけれど僕が高校生になる頃には兄弟で話をすることなんて全くなかった。もう、学生でもないのに実家に住んで仲のいい兄妹。東京の人たちはこれが普通なのかと思った。森川さんが僕に、今日は年越しそばをうちで食べていけばいいと言ってくれた。お兄さんも、それがいいと歓迎してくれた。でも今日は大晦日で家族が集まって年を越す特別な日だ。そんな一家団欒の時間に僕が加わっても悪い気がした。森川さんのお父さんの声が階段の下から聞こえた。蕎麦の用意が出来たから降りてこい。僕は帰ろうと思って、この空間から逃げようと思って、帰りますと言ったけれど、森川さんのお父さんの無表情の食べていきなさいという声に逆らえず、僕は大晦日の年越しそばを森川さんの家族と一緒に食べることになってしまった。海老や野菜の天ぷらが僕の分も用意されている。暖かい蕎麦。点けっぱなしのテレビ。森川さんのお父さんとお兄さんと森川さん。僕。割り箸ではなく、森川さんの家で使われている箸。お父さんのぶっきらぼうないただきますの声。僕はあれっと思った。森川さんのお母さんは?でも僕は絶対にそれを言えない。四人で天ぷらそばを食べる。森川さんが七味を使えばいいと僕に渡してくれた。僕が昨日食べた蕎麦よりつゆが美味しい。僕の作った蕎麦は水と醤油とみりんで味付けした。カップ麺の蕎麦も、もう随分と食べていない。カップ麺は高いし、お腹がすぐに空く。それに天ぷらを食べるのも随分久しぶりだ。お惣菜用の簡易な入れ物に入っているから分かった。森川さんのお父さんが僕の天ぷらも僕の為に買ってきたのだ。僕は一人だけ海老のしっぽまで食べていた。つゆまで全部飲んだのも僕だけだった。空っぽの器に海老のしっぽが残っていないことに気が付いた僕はものすごく恥ずかしい気持ちになった。森川さんの残していた海老のしっぽをみんなが見ていないうちに僕の器の中に持ってきたいと思った。帰る時に森川さんがたくさんのお土産を僕に持たしてくれた。たくさんの食べ物。タッパーに入ったお裾分けのお節料理。残った天ぷらとか。そして額に入れられたNORIKOのサインが入った僕の似顔絵。自転車に詰め込んで僕は森川さんとお父さんとお兄さんに家の前で見送られた。僕は頭を下げてお礼を言ってから急いで自転車を漕いでその場から立ち去った。角を曲がって僕の姿が見えなくなったであろう場所で自転車を止めて、ハイライトに火を点けた。煙草が吸いたかった。吐き出す煙が外の寒さの為、息が白くなっているのか、煙の白なのか僕には分らなかった。

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