第5話

 チーコとあたしはまるでともだちのようにウマが合った。だからすぐちかくに住んでくれたことがあたしはほんとうに嬉うれしかった。


 だのに、去年の三月だ、チーコのやつはコロッと嘘みたいに死んでしまった。


 正月あけのあいつの誕生日、五十一の誕生日に、まえからいきたがっていた駅まえの料亭へ連れていってやったら、チーコは躍りあがってよろこんでいた。だがそれから半月もたたないうちにぐあいがわるいと言いだして、町医者にかかったら、


「もっとおおきな病院で検査が必要です」


 などと言われて帰ってきたのだ。


 チーコは「エヘヘ」と舌をだして笑っていたし、孫たちもぜんぜん心配もしていないようだった。まだ五十一だ、だれも心配などするわけもなかった。ただあたしは、なんだかいやな気がしていた。なんとなくわかっていたのかもしれない。

 

 婿のやつなどは出張ばかりしていたからチーコが検査のために入院するというその朝も、病院までつき添いもしないでチーコより先に家をでて大阪へいってしまった。


 孫たちも上の孫はもう働いていたし、下の孫は大学生だが酒ばかりのんでいてまえの晩だって家に帰ってもこなかったようだ。だからチーコはあの朝ひとりぼッちで病院へいったのだ。つき添ってやりたかったがどうにも腰が痛んであたしはいくことができなかった。

 

 その朝チーコはすこしだけ――三十分もいなかったろう――自家に寄ってくれた。玄関先でチーコは、じぶんでまえの晩に用意したらしい、入院仕度をつめこんだ旅行かばんを頼りなさそうに両手でかかえて立っていた。そのかばんはあたしとよくいった温泉旅行にいつも持ってきていたものだが、あんなにさびしそうな顔ではいったいどこへいくのだろうと近所のひとたちは思ったろう。


 あのかばんひとつ携えてチーコは東京のおおきな大学病院へ入院していった。そうして結局自分の家には一度だってかえれないまま、みるみる衰えて、植木が枯れるようにあッけなく死んでしまったのだ。

 

 見舞いにいくのはあたしは気がすすまなかった。病院のベッドで寝かされているがりがりに痩せほそったチーコが、じぶんの娘ではないようにみえてあたしはあんなチーコをみていることも嫌だったのだ。チーコは癌だった。手術もできず、ただモルモットのように薬を与えられるだけだった。


 チーコは逢いにいくたび婆さんのようになっていき、あたしは娘をみているというよりどこかのうす汚れた年寄りをでもみるように、ベッドのうえのチーコをながめているばかりだった。チーコはどんどんわるくなった。ベッドに横になっていてもからだが痛いのか眠れずにもがいては呻いていた。ひとり部屋だからどんなに呻いたっていいだろうに、ある日看護婦たちがぞろぞろやってきてチーコを、気狂いの囚人をでもそうするように、おおきな布製のベルトでベッドにきつく縛りつけた。


「ベッドから落ちないように、ご本人の安全のために、するのです」と看護婦のひとりは言ったが、あいつらが楽をしたいだけだ、なおる可能性もない、死ぬのを待つだけの患者にかける手間はない、あいつの目はそう言っていた。


 チーコはベッドと一体化したようにいつでも寝かされていて寝がえりをうつ自由もとりあげられたようだった。


 入院して二タ月もたった、三月のとくべつ寒い日の午後だった。もう意識ももうろうとしていつでもぼけーっとしているチーコが、めずらしく、鯉のように口をパクパクさせた。


 あたしは枕許にあった吸い飲みに水をいれて口のところへもっていってやった。水がのみたいのかと思ったのだ。が、チーコは水ものまずに、その口をぐぐーっと上へ向けたので、なにか言いたいらしいと気がついた。その口許へ耳を寄せてやると、


「ラクにさせて、ラクに」


 あたしは体がふるえた。どうにか聞こえないふりをしたかった。だが度肝をぬかれてしまいそのままチーコの目をみつめていることしかできなかった。チーコは死にたいと言っているのだ。殺してくれとあたしに頼んでいるのだ。


 医者にも誰にも相談しないで、あたしは、チーコのからだにつながっている薬の入った点滴の針をひきぬこうとした。そのとき看護婦が、あの看護婦だ、ノックもせず部屋に入ってきたのであたしはそうすることができなかった。


 それからあたしはチーコに逢いにいくのがいっそうつらくなった。チーコは死にたいのにじぶんで死ぬ権利もない。病院はただチーコにやみくもに薬をうちつづけ、精神患者のように縛りつけてじわじわと魂を吸いとっているだけなのに。


 チーコはそれから、半月ほどもだろう、苦しみぬいてボロゾーキンのようになって死んだ。


 あたしはあの子の死に目にも立ちあわなかった。今夜がヤマらしいです、と婿から事務連絡のような知らせを受けたがあたしは病院へいかなかった。嘘だと思いたかったのだ。あたしまで駆けつけたりしたらチーコはほんとうに死んでしまうと思った。


 だがチーコはきっともっとはやく死にたかったにちがいない。


 あたしに殺してと頼んだあのときあたしはそうすべきだったのだ。病院なんぞに送りだすまえに、あの朝あたしの家に寄ったとき、殺してやるべきだったのだ。

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