第10話 (1)




 サワサワと、緩やかな風は庭園の草花を揺らし、先程まで緊迫していた闘技場の空気とは真逆のように穏やかな空間となっていた。それでも、いまから聞かされる話には、表舞台には決して明かせぬフォルッツェリオ建国の昏き裏事情があるのだと、エルにも察せられた。

 レイグラントがフレンジアと紹介した少女は、容姿はとくに優れているわけではなかった。肩を超えるほどの長さの髪を緩く巻いて上品に整え、女性らしい上質の衣装を着ていれば、貴族か裕福な家柄の者には見えるが、長く栄華を誇ったアスリロザ王家の高貴な空気感は纏ってはいない。

 フレンジアは小さな唇を開いた。

「王女といっても、庶子であった。わたしの母は、一介の女官で、父である王が手をつけた。こういう話は、どんな時代も、どんな王朝でも、よくあることなのだろう。一応は王城内で育てられたが、形ばかりのものだ。教育は最低限、他の血族とも滅多に顔を合わさぬようにされていたし、異母兄姉たちからは邪険に扱われていた」

 フレンジアは感情を表さずに淡々と語っていく。それがかえって彼女の境遇がエルの想像以上に過酷なものであったのだと思わせた。

「わたしの父であったアスリロザ最後の国王は闘技好きでな。王子であったころにあの闘技場を建てさせたのだという。模擬戦程度なら兵士や戦士たちのよい鍛錬にもなろうが、あの場で行われた多くの闘技は実戦さながら、流血ごともしょっちゅうであったのだと聞いた。その父の血を受け継いだのか、異母兄姉たちには過激な性格な者もいた。わたしの足が悪いのを見たであろう? 幼少のころ、人間の悪意によって斬られたゆえのものだ。わたしの境遇を知ったシリューズとレイグラントは、わたしを憐れに思い、狭い世界であったこの王城から救い出してくれた」

「フレンジアに傷を負わせたのは、異母兄である王子だった。身分の低い母親から生まれたフレンジアのことは妹だとは思ってはいなかったのだろう。父の血を受け継いだのか、その者も闘技を好んでいた。フレンジアの足を斬った理由は、“新剣の試し斬り”だった」

 エルは眉をひそめた。そこまでアスリロザ王家は腐敗し、罪もない少女が血を流すことになったのか。フレンジアの痛みを思えば、エルも自分が痛みを負ったように感じた。場面を想像して、背筋が冷えたうえに、憤りで腹が熱く痛む。

「誰が聞いても腑が煮えるようなことだ。知ったシリューズも当然憤った。そういった感情は外見には表さない男だが、シリューズを怒らせればあとが怖い」

 レイグラントは兄の思い出を懐かしく感じたのか、ふと笑った。

「すでにアスリロザは王朝として衰退期に入っていた。庶民たちと貴族との認識の乖離、貧富の格差、王家の驕り、すべてが修復が困難なところまで来ていた。俺とシリューズの意見は一致した。フレンジアのためだけではなく、長く虐げられてきた民のためでもあった。アスリロザを滅する、そう決めた。結果、いま俺はフォルッツェリオ国王として職務をこなしているが、便宜上のことにすぎない。王制から民主制に移行するには時が必要だ。いまだ厄介な輩も多い。貴族制の廃止に持ち込むまでにはまだまだ先が長いが、この地で権力を得るために、俺たちはフォルッツェリオを興した。そしてシリューズにとっては、この建国に関わるもう一つの理由があった」

 レイグラントはエルの瞳を真っ直ぐに見つめる。

「世界の理に否応なしに巻き込まれる者のためだ。五精王を守護者に持つ者、そして、黒き王の守護を受ける者のために」

 風精王を守護者に持つ男はエルに向け軽く笑んだ。

 エルは感じたことを態度に表さぬよう、意思の力を総結集させた。

 兄シリューズがエルにとってかけがえのない人であることは、姉ミーサッハや自分の精霊が話してくれたことで十分に噛み締めていた。以前デットやイグニシアスの前で感情のままに泣いたことで、感情の枷は弾け飛んでいた。いまのエルには感情に任せ泣くことはすんなりとできるものになっていた。

 それでも、これ以上感情に身を任せていては心の成長ができない、エルはそう思った。いままでにしてきた、感情を封じる抑えつける、といったこととは意味合いが違う。

 いまは、泣くな。

 エルはレイグラントの言葉を聞くことに自分の意識のすべてを向けていた。

「俺たち五精王の守護を受ける者は、この強大な力を持つために、どんなに世間から身を隠していたとしても表舞台に引き摺り出されることになる。それは避けられぬ理。風精王の力を最大限に生かす生き方を選んだ俺と、水精王の力を使わぬことを選んだシリューズだが、傭兵として、生きる道は交わり、同じ目的を持った。生きる場所を与えられなかったフレンジアや、また、生きる道が奪われるかもしれない者のために、シリューズはアスリロザを滅ぼし、フォルッツェリオを興すことに参加した。傭兵組合が、なぜ絶対王政であったアスリロザを拠点としていたか。傭兵たちは、この世界のすべてへと渡り、国家や権力者たちとの架け橋となり、ときには調整役を担ってきた。権力の象徴のような絶対王政のアスリロザは、世界を股に掛ける傭兵たちの資金源ともなり、表向きは相互関係を築いていたが、近年は王家や貴族たちの横暴さが目に余っていたために袂を分かつことになった。人は、狂った強大な権力のもとではなく、望みを与えてくれる世界で、生きていくべきであろう。その舞台のために、俺たちは持ち得る力を投入し、この国を興したのだ。傭兵が後ろ盾となった、弱き者でも生きていける世界のために。フォルッツェリオで弱き民を虐げるような行動を起こす輩がいれば、それを討伐できる大義名分となる。だがシリューズは、この国に留まらぬことを選んだ。一傭兵として生き、そなたのような者を守るためにな」

 兄シリューズは、同じ道を生きたこの人には話していたのだろうか。

 自分の願いや、夢や、愛したミーサッハのこと、弟となったエルのことを。

「黒き王の予言。そのときの“声”のことを、世間ではそう言っているようだが、俺やシリューズには、ただ遠くから届いた“何者かの思念”、そのように感じていた。俺もあいつも天邪鬼な人間でな、あの声にはむしろ反抗心を掻き立てられた。誰かの思念に惑わされ従わされるのはもっとも許しがたいことだ。シリューズは、世の理に組み込まれた者たち、黒き者や、光の人のことも含めて、興したこの国がその者らの役に立てばと考えていた。救いを求める者あらばその者を受け入れ、敵対する者あらばいかようにも退ける、そのためのこの国だ」

 レイグラントは揺れる花々を眺めていた。

 茶が届けられ、女官によってそれぞれの碗に注がれる。だがまだ誰もそれに手を触れようとはしなかった。

 遠くを見やるようなレイグラントの視線の先には、兄がいるのではとエルは思った。

「黒き王の予言の者を弟にしたか。シリューズらしい」

 ゆっくりと語るレイグラントが苦笑する。

「シリューズは、いずれはそなたをこの国に連れてくるつもりでいたのかもしれない。だが、いずれではなく、俺にすぐに話をしてくれていたら……」

 このフォルッツェリオを出て行くことはなく、命を落としはしなかった。

 レイグラントの語らぬ声はそう言っていると思った。

「彼がこの国を出たのは、エルのことだけが理由ではないだろう」

 ずっと黙っていたデットが言葉を差し挟み、レイグラントは苦い笑みを漏らした。

「ビルトランに言わせると、俺のためだそうだ。シリューズがここを出た当時、ゴタゴタと煩雑なことが重なっていてな、危うく国の中枢が分裂しかけた。シリューズの能力を認め政権に参加させたいと願う者たちが、善意でそれを求めた。あいつに政治をさせれば面白い結果を生んだかもしれないが、シリューズは頭を使うことではなく、体を使うことを望む男だった。善意でシリューズに進言する者だけならばあいつも笑って断れば済んだが、その状況を利用しようとする旧アスリロザの貴族たちには手を焼いた。俺とシリューズの信頼関係を壊し、互いに不信感を抱かせることで分裂を図ろうとした。シリューズが裏切るとは考えたこともないが、陰謀を巡らす者らには格好の状況に見えたのだろう。大戦時にも尻込みしていたようなぼんくら貴族どもに、俺たち傭兵が命を預け合うことの重さがわかるわけがない」

 レイグラントの声は抑えられながらも鋭く発せられた。怒気を含んだ声が出たことに気づき、レイグラントは強張っていた表情を緩めた。また遠い目をして穏やかに続ける。

「それでも、アスリロザではなにかと力を振るっていた連中だ。些細ながら煩わしい手を色々と使ってきた。そんなときだ、シリューズが国を出たのは」

 黙り込んだレイグラントに代わって、フレンジアが続けた。

「この国に嫌気が差したのかと思った。あんなふうに巻き込まれてしまっては無理からぬこと。シリューズの精神は、一傭兵でいること。その姿勢を貫こうとしていたと、わたしたちはわかっていた。人を貶めるのではなく、人を救う立場でありたいとするシリューズがレイグラントを脅かす位置に押し上げられるのを願うはずもない」

 フレンジアの言葉も顔も硬くなる。

「シリューズがいたから、いまのこの国がある。だがわたしのことがなければ、この国はできてはいなかった。シリューズもレイグラントも、アスリロザの乗っ取りなど考えもしなかっただろう。このわたしが、戦さを起こし、大勢の人の命を奪い、結果、シリューズの命も奪った」

「フレンジア」

 咎めるレイグラントの声に構わず、フレンジアは表面上は平静な声で続けた。

「それが真実だ。異母兄姉たちには疎まれ、父である王にも関心を持たれなかったわたしだが、それが平気だったわけではない。狭い世界で生きていたわたしにも小さな望みがあった。わたしは、ただあの場所にいたくなかった。どこか遠くへ行きたかった。二人は、わたしの望みを叶えてくれただけではない。わたしに居場所を作ってくれた。傭兵たちと一緒に過ごすうちに、人と生活を共にする楽しさ、仲間というものがどれだけかけがえのないものであるのかを教えてくれた。この言葉遣いも移ってしまったがな」

 フレンジアは涙を滲ませながら笑う。

「皆はわたしの足の仇も討ってくれた……知っているか? レイ。わたしがどんなことをあのとき感じたのか。王も、妃も、王子も、王女も、皆が死んだと聞いたとき、わたしは、なにも感じなかった」

 フレンジアの笑みは掻き消え、苦痛を知るゆえの無表情となる。

「親であり、兄姉である者が死んだと聞いて、なにも、思わなかったのだ。わたしは彼らの死を望んでいたわけではないが、彼らの死になにも感じないのでは同じことだ。アスリロザ王族も、戦さで死んだ者たちも、シリューズも。わたしがいなければ、死ぬことはなかった。レイ、心配しなくても、これは自分を責めているのではないぞ」

 なんとか笑いながらフレンジアは溢れる涙を拭うこともせずにエルを見つめた。

「そなたがシリューズの弟なのだな。シリューズから話を聞いたことがある。引き取った弟が可愛くて仕方がないと。いつか会わせてくれると言ってくれた。たったそれだけの内容だったが、わたしは楽しみにしていたのだ……すまなかった。わたしに出会わなければ、シリューズは死なずにすんだかもしれない」

 涙がこぼれるフレンジアの翠色の瞳は美しかった。エルは、いろいろな感情、思いが渦巻く己の思考の中で、それでも思い浮かぶ言葉を選び、声に出した。

「いいえ。兄は言ってくれました。人との出会いは、素晴らしいものなんだと。兄は運命というものを信じない人でしたが、否定をしていたわけではありません。それがどんな形でも、人との出会いほど嬉しい幸運はないと、言っていました。兄の命を奪ったのは、直接手を下した者たちと、いるのであれば命令を下した者です。おれは、兄の仇を討つつもりでこの国へ来ました。いま、手がかりを友人が追ってくれています」

 兄が誰かのためにと傭兵の仕事をしていたことを、エルは誇りに思った。

 シリューズがこの世界のどこにもいないことは辛く、心に穴が空いたように寂しく、会いたくて、会いたくてたまらない。

 いつか、必ず兄の仇を討つ。

 その怒りはいまは内に秘め、エルの瞳は真っ直ぐにフレンジアを見つめた。そんなエルの背中をデットが軽く叩いてきた。

 フレンジアはエルのしっかりとした言葉にうなずき、こぼすに任せていた涙を侍女が差し出してきた手巾で拭い、一息ついてから思い出したようにレイグラントに問いかけた。

「そういえば、一石二鳥とはなんだ?」

 レイグラントは微笑する。

「昨夜ビルトランの屋敷に侵入し、ミーサッハになんらかの行為をしようとしていた賊がいてな。ビルトランが追っているのだが、どうやらその賊には腕のいい術者がいるそうだ。いま捜索にあたっているビルトランたちから、一時的にでも賊の意識を逸らすことができれば捕縛の成功率が上がると思ってな。俺が闘気を発すれば、魔法の心得がある者なら気づくだろう?」

 レイグラントの言葉にフレンジアは呆れたような声を出した。

「それは誰でも気がつくし、わたしでさえ気がついたわ」

 フレンジアは溜め息をついた。

「すでに国中大騒ぎだろうな。何事かと思うだろう、いまや国王のお前が闘気を発するなど、あってはならないことだ……側近たちには言っていたのか?」

「いや」

 国王陛下の素っ気ない返答に、フレンジアはふたたび息をついた。

「頭を抱えている連中の姿が目に浮かぶようだ。で、もう一つの理由とは?」

 レイグラントがデットのほうを見る。

「久しぶりに、強そうな者と会えたのでな。ここ最近は執務ばかりであったし、体が鈍らないようにと、俺の鍛錬に付き合ってもらった」

 あの殺気と闘気を放った半ば以上本気の剣の交わりを簡単に鍛錬と言うとは、戦士の頂点を極める者の思考がエルにはわからない。

「それだけかな」

 感情を込めないデットの声に、レイグラントは眼を光らせ、深く笑んだ。

「それだけだ」

 二人の言葉の真意は、エルには理解できなかった。見やるとフレンジアも同様らしく、不思議そうな顔をしていた。

 視線でデットに問いかけても笑顔が返ってきただけで、なにも答えてはくれなかった。



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