第6話 (2)



 部屋に残されたデュランとその妻は、館の主を見送ったあと、応接間の長椅子にしばらく座ったままでいた。デュランは堪えきれない笑いが自身の体を揺らすのを懸命に抑えていた。

「おまえにこんな才能があったとはな」

 デュランの笑いはしばらく収まりそうにない。

「なにをおっしゃいますの。これもわたくしですわ」

 デュランの妻は夫に向かって、淑やかに、そして艶やかにほほえんでみせた。

「おまえ、自分の顔を鏡で見れないだろう? じつにいい女っぷりだぞ」

 デュランの声はまだ笑いに震えていた。

「あー、面白かった! もう出てきていいぞ」

 夫人ががらりと口調を変え、奥の寝室へと声をかけた。

 デュランの息子が寝室の扉から顔を出した。その顔は複雑な表情だ。この二人の会話に笑いたいのだが、もう一人の心配もしていて、自分ではどんな表情になっているのかわかっていない。

 デット、エル、イグニシアスの三人は、こうしてフォルッツェリオへと潜入したのだった。

「おまえの姉らしき人がこの屋敷にいるとはな。まったく幸運だったな。明日には会えるぞ」

 デットの言葉にエルは嬉しそうにうなずき、二人の向かいに腰を下ろした。

「エルの姉がこの国に連れてこられたのなら、国王または側近の誰かが身を預かっているだろうから、子持ちの夫人の手を欲しがりそうなところがないか鎌をかけてみたが、大当たりだったな」

「当たってなかったら、俺はいったいどこのお屋敷に行かされてたんだ?」

 言葉を返すイグニシアスの姿は、すでに淑やかな婦人のものではない。編み上げていた髪をぐしゃりと片手でときほぐし気分さっぱりと、足はだらしなく椅子の座上に胡座をかき、背もたれにどっしりと寄りかかっていた。

「事情は明日、おまえの姉さんに訊こう。おまえもお世話させてもらえるよう頼んでやるから」

 イグニシアスはエルに笑った。その瞳はすでに閉じられている。

「しかし、力隠す術をかけたってのに。目ぇ開けたまんまだと気づかれるもんなんだな」

 イグニシアスはちょっと悔しそうに溜め息をついた。

「おまえの力は、きっと目が見えないからこそ強いのだろう」

「たぶんね。じじいの知り合いだった師匠が、俺の目が見えないと気づいて精霊をくれた。それからずっと精霊と一緒だった。全部精霊に頼ってるから、目を開けると“見よう”って力が強く出ちゃうみたいだな。これは、たぶん完全には消せない」

「無理だろうな」

「精霊がいてくれるからこそ俺は生きてけるんだ。感謝してるよ」

 イグニシアスの感謝の言葉は、自分の精霊たちに向けられている。彼には五つの種類の精霊がついている。

「今日は疲れたー。俺はこのまま寝る」

 イグニシアスは婦人服の裾を両手で鷲掴み、腰近くまでまくり上げて寝室へと向かって歩き出した。いまのイグニシアスは姿は女子なれど中身は立派な男子だ。その様子にデットはまたも笑いを噛み殺す。背を向けていたイグニシアスはそれを感じたのかくるりとデットを振り返ると、デュラン夫人の笑顔を見せた。

「一緒におやすみになられます? あなた」

「悪乗りせんでいい」

 デットが苦笑すると、イグニシアスは軽い笑い声を上げて寝室へと入っていった。エルはこのやり取りを目を丸くして見ていた。

 デットは笑いを収めると、エルに言った。

「明日からは、俺はおまえのそばにいてやれないかもしれない。イグニシアスのそばを離れないように気をつけろ」

 デットはこの国に戦士として入った。当然、この国の兵士たちと合流することになるだろう。そうなれば、エルを連れて歩くことなどできるものではない。デットはなるべくエルのそばを離れたくないと考えているが、そうは言っていられない状況だ。

 イグニシアスはそのことをよく理解している。術者とは、魔法士よりも鍛え上げた魔法の使い手だ。最上級の術者といえるイグニシアスは、自身とエルの身を守るだけではなく、いつでも攻撃に転じられる力の持ち主だ。デットは安心してエルを預けることができる。

 エルはデットの言葉に神妙な顔でうなずいた。最近よく表情が出るようになったエルにデットは喜んでいる。まだ年端もいかない子供には、苦しい思いをさせたくはない。

 夜も更けた。デットは早々にエルを寝かしつけ、自身も同じ寝室の並べられた寝台に寝ることとした。


 その夜、遅くに訪れた闇の気配を感じたのは、術者イグニシアスが最初だった。闇の気配といっても、正しくは、闇に乗じる者の気配だ。

 イグニシアスは眠り込んでいた意識を一気に浮上させ、すぐさま隣室に眠るデットのもとへ訪れた。デットの眠りは浅く、その気配だけで身を起こした。

「どうした?」

 声を潜めて訊く。

「強い術者の気配を感じた。あまり歓迎できるものじゃない」

 デットは眉を寄せた。

「目的はなんだ」

「俺たちには向かってない。誰か別の者に意識が向いてるように思う。数人、物騒な連中もいるみたいだ」

 イグニシアスは目を閉じたまま、なにかを探るように意識を集中している。彼はデットには感じられない侵入者の発生源を突き止めようとしていた。

「屋敷の東」

 イグニシアスは目を開いた。デットに強い目線を送る。

「たぶんエルの姉さんのところだ」

 デットは素早く行動した。自分の剣を掴むとそのまま部屋を飛び出す。

 何事が起きたのかと、まだ眠そうな瞳をして身を起こしたエルに、イグニシアスはひとまず状況を語った。

「おまえはここにいろ。なに、おまえ自身に危険はない。心配すんな。俺もあいつもいるからなんの問題もない」

 そうエルに言い聞かすと、イグニシアスもすぐに現場へと向かった。もちろん、婦人の衣装を身に着けて。

 エルは自分も行きたかったが、足手まといになると承知していた。不安に身を置いていたエルの隣に黒き精霊が前触れなく現れ、寝台に腰かけた。黒き精霊はなにも言わず、小さく笑いかけてくれる。

 きっと、大丈夫。

 エルは懸命に自分に言い聞かせていた。


 現場に急行していたデットは、かすかに感じるミーサッハらしき気配を頼りに屋敷の廊下を走っていた。薄暗闇を走る自身の行く手に魔法で灯りを先行させていた。

 何者が相手なのかもわからない。もしかしたら、レイグラントの手の者とも考えられる。あらゆる可能性があるなか、ミーサッハの無事が最優先だった。

 相手がこちらに気づいて向かって来てくれるように願いながら、デットは屋敷の者に聞こえるように声を放った。

「侵入者だ!」

 静まり返っていた屋敷内に響く声は緊張を孕むもので、屋敷の者たちが次々と部屋を飛び出す気配をデットは感じた。

 目的の部屋、扉の前へたどりつく。部屋の中に複数の気配を感じた。

 精霊の言葉を一つつぶやき、デットは破る勢いで部屋の中へと飛び込んだ。

 突然、デットに向かって風の礫が襲いかかった。人を殺傷するほど鋭いものではないが、足止めには十分な威力を持っていた。だが事前に風精使いの気配を感じていたデットが前もって唱えていた精霊の言葉により目前で風の力は四散した。

 デットは勢いのまま寝室へと駆けた。数人の人影がデットに無言で接近する。デットは鞘に収めたままの剣を持ち、腰を落として身構えた。片足の踵に体重を乗せ、踏み下ろすもう片方の足に一気に力を込めた。同時に鋭い声で精霊の言葉を放つ。

 直後、デットに刃を向けていた者たちが目に見えぬものに跳ね飛ばされた。デットの踏み出した足からの地の魔法の衝撃と、続けて発せられた風の魔法によるものだ。デットの足は止まらず寝室へと駆け込んだ。

 寝台の近くにいた人影が振り返った。黒い隠密衣装を身に着けており、頭部も布地によって覆い隠され、その者の容姿を確認することはできない。

 デットは寝台に横たわる人に素早く目線を移した。ミーサッハはまだ無事なようだったが、こんな状況であるのに、戦士の彼女が目を覚ました様子がない。なにか術をかけられているのか。

 デットは生半に手を出すのを控えた。自分が攻撃を加えることにより、ミーサッハにどんな影響が及ぶのかを予測できなかったからだ。

 この間、他の侵入者たちが部屋の窓から逃げ出す気配を感じたが、目の前の者から目を離せばミーサッハを危険に晒すことになる。デットは他の者にも手を出せずに、目前の黒づくめの侵入者に視線を固定し続けていた。

 強い闘気を、デットは背後に感じた。

 ビルトランだった。生え抜きの戦士は誰よりも早くこの場へと到着したのだ。目の前の光景に殺気を見せながら、手を出しかねている様子だ。

 やがて黒づくめの侵入者は、三階である部屋の窓から外へと身を乗り出し、その姿を消した。

 デットはすぐさまミーサッハのもとへと急ぎ、様子を確認した。呼吸は健やかなもので、眠っているだけのように見えた。ビルトランもデットの隣に並び、低い声を放った。

「どういうことだ」

 その声は緊張と不信感を含んでいた。

「不審な者の気配を感じ、探り当てたところ、この部屋に向けられたものでした」

 デットは神妙に応じた。いまはまだ正体を明かすわけにはいかない。せめてミーサッハが目を覚ますまでは。

「術をかけられているようです。解きませんと」

 ビルトランはうなずき、そのまま踵を返すと人を呼んだ。数人の兵士にミーサッハの警護を命じ、デットと共に寝室を出ると、隣の居間にデットを誘導し問うた。

「何者か、わかったか?」

「いいえ。心あたりはないのですか?」

 ビルトランは嘆息した。

「兵団長である俺自身を狙う奴なら掃いて捨てるほどいるだろうが、彼女に対してはまったくわからん」

「力のある術者のようでしたが」

「彼女にかけられた術がなんであるのか、いまはそれだけが心配だ」

 ビルトランのこの様子では、彼がこの件に関わっていないことがうかがえた。ビルトランはレイグラントの側近中の側近だ。彼が知らないということは、レイグラントはこの件に関与していないということになる。

 ともかくミーサッハにかけられた術を早急に解かねばならない。じわじわと人命を奪っていく術も存在するからだ。

「近くに信用できる術者はいますか?」

「残念ながら、力ある者はこの近くにはおらん。賊が上級の術者であるなら並の者では術は解けぬ」

 二人はずっと戦士が戦場で話すような早口で会話していた。

「しかし早く術を解かねばなりません」

「わかっている」

 ビルトランは一番早い方法を考えているようだったが、まとまらないのかまだ動かない。身重であるミーサッハの体を思えば一刻を争う。

「お任せくださいませんか」

 デットの言葉に、ビルトランは驚いた様子を見せた。

「できるのか?」

「いえ、私ではなく、妻が」

 ビルトランはさらに目を見開いた。

「術が解けるのであれば誰だろうとかまわん。ぜひともお願いする」

 ビルトランの言葉を聞いたデットは廊下へと出ると、扉の前で兵士たちに遮られていたイグニシアスを呼び込んだ。ビルトランはニースに扮したイグニシアスの姿を見ると、騒がせたことを詫び、ミーサッハにかけられた術を解くことができるか問いかけた。

「お任せください」

 すでに力隠しの術を解き、術者の気を現していたニースは女性らしい微笑を見せ、すぐにミーサッハの寝室へと向かった。寝台の横に膝をつき、横たわる彼女の様子を確認すると、一緒に寝室に入ったビルトランに向かって話す。

「ご安心ください。眠りの術をかけられただけのようです」

 安堵した様子のビルトランに、ニースはさらに言った。

「いま術を解いては、この方が目を覚ましてしまわれます。このままでも朝には目覚められましょう。どうか、このまま眠らせてさしあげてください」

 優しく話すニースの女性らしい気遣いに、ビルトランはうなずいてみせた。

「そうしよう。しかし、ニースどのが術を扱われるとは思わなかったが」

 ニースはほほえんだ。

「一通りの術は習得しておりますが、あまりそのことを誇示したくないのです。意に沿わぬ依頼をしてくる者がありまして。それ以来、わたくしは力を隠しておりますの」

「さようでしたか。感謝申し上げる。あなたとご主人のおかげで助かりました」

 ビルトランは自身がこのままミーサッハの部屋で警護にあたると告げると、二人にやすむように願った。さらに今後の安全のため、デュラン一家の部屋の前にも兵を配置すると約束した。ミーサッハのことはビルトランに任せることとし、デットとイグニシアスは自分たちに与えられた部屋へと戻った。

 エルが心配そうな顔で飛びつくように二人を出迎えた。

 デットはエルに経緯を語った。ミーサッハが無事であることを聞いて、エルは全身の力を抜いた。いままでエルは緊張し切っていたのだ。状況がわからず気を揉むばかりで、またなにもできない自分に苛つき、心は消耗していた。

 涙ぐむエルはそれをなんとか抑え、デットとイグニシアスに礼を言った。

「姉さんも心配だったけど、二人とも無事でよかった」

 小さく泣き笑うエルの頭をイグニシアスが無言で撫でる。

 デットは応接間の長椅子に深く腰かけた。向かいにはイグニシアスとエルが並んだ。

「この国で最も侵入しづらい場所の一つ、国家兵団長の屋敷に忍び込んでまで、なにをしようとしていた」

 考えるデットにイグニシアスが言う。

「考える材料がまだ揃ってない。それまでは考えても無駄」

「それにしても、あれは相当の術者だったぞ。おまえに匹敵するくらいじゃないか?」

「俺は自分が一番だとうぬぼれちゃいないが、まあ、同じくらいには感じた。ということは、この国でも上位の能力の持ち主ってことになるな」

「この国の者とも限らないだろう?」

 イグニシアスが思惑ありげに、にやりと笑う。

「じつは、精霊に追跡させてるんだが」

 デットは呆気にとられる。

「それを早く言え」

「相手に気づかれないようにしてるから、どうせ時間がかかる」

「どうするかな。迂闊には動けんな」

 デットは思案する。

「話すか?」

 ビルトランに。

 イグニシアスも同じことを考えていたのか、表情に動きはないが、違う意見を言った。

「まず、エルの姉さんから事情を聞かねえか?」

「ビルトランの出方にもよるんだが。やっぱりそれが最善か。なら、任せてもいいか?」

 デットがミーサッハと二人きりになれる可能性はほとんどない。イグニシアスならばエルと共にミーサッハの世話を口実に話を訊きだすこともできるだろう。

「任せとけ。あーなんか、目が冴えちまったな」

 そう言いながらもイグニシアスは寝室へと向かった。

 これからのことを考えてか、睡魔も遠く過ぎ去った様子のエルをデットは強引に寝かしつける。

「朝はまだ遠い。もう少し寝ろ。なんなら、俺が子守唄でも歌ってやろうか?」

 笑って言うデットにエルは慌てて首を振った。寝台に横たわり、強引に目を閉じた。

 デットはそれを横目に、自身は寝台に腰掛けたまま、今後のことを考えていた。

 いま三人はじつに危うい立場だった。ビルトランに自分たちが身分を詐称したと知られれば、逆に侵入者を手引きしたかもしれない怪しい人物だと受け取られてもおかしくない。

 行き当たりばったりだなと、デットは苦笑する。

 しばらく穏やかな生活を送っていたデットには、久しぶりの刺激ではある。

 自分一人ならどんなことが起きても切り抜けられるが、いまは共が二人。

 さて、どうなるかなと、デットはこの苦難を楽しむ悪趣味な自分を笑った。


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