第2話 (3)



 エルの兄になってくれたシリューズの妻ミーサッハは、シリューズと同じく“傭兵”の職にあった。シリューズと二人でフォルッツェリオを出国し、エルと合流したミーサッハは、懐妊が判明してから過度の動きはせず一般の者と同じように過ごしているが、弓使いのカドルとして凄い腕を持っている。ただ、彼女は自分で指導者には向いていないと言っているし、エルは弓よりも剣を扱いたかった。

 シリューズは、エルの体ができるころに修行を始めようかと約束してくれていた。だがそれはもう叶うことはない。

 シリューズがいなくなることを、エルは少しも想像していなかった。傭兵というものが常に命を落とす危険性のある職業だと理解はしていたが、兄が戦いの場で死ぬことはないと勝手に思っていた。

 いまとなっては、剣の技術を他の誰かに教わらなければならない。“炎獄”が師となってくれることが一番の理想だが、その願いが叶う可能性は低いだろうということは、さすがに承知している。探し出せたとしても、弟子にしてもらえないということもある。その場合は他の名のあるカドルでもいい。

 そんなふうに考えていたエルにとって、“炎獄”が見つかるかもしれないという話は気持ちを逸らせた。

 しかし、“炎獄”を見つけ出すためには、姉ミーサッハを置いていかなければならないのだ。兄の代わりに見守らなければならない、兄の大事な人を。

 エルの心は揺れ、いまだ定まってはくれない。


 シリューズに拾われたとき、エルがいた国は激しい戦さを終えたばかりだった。

 幼いエルはすでに一人だった。

 幼い身で働いていた屋敷は焼け、他に行くところも、他へ行く目的もなく、かろうじて焼け残ったところを住処にして、エルはただ生きていた。

 戦さに参加していた若い傭兵は、独りで生きていた子供を哀れに思い、共に生きていくことを約束してくれたのだ。

 エルの母は屋敷で下働きをしていた娘で、どこの男の手がついたのかエルを身篭り、家族もなく一人で産んだのだと、母の同僚で乳母となってくれた女性が教えてくれた。産後の肥立ちが悪く、母は儚く世を去り、乳母となってくれた人は自分の子供を育てながらエルも気にかけてくれた。

 エルは生まれながらにして、屋敷で主人のために働くことを求められた。この世に生まれることを認められ、乳を与えられ、生かされたのだ。自分で考えることができるようになれば、小さな手であろうとそれは働き手のひとつだった。

 ちょっとした雑用、掃除、洗濯、しっかりと働けばご褒美に食事の量を増やしてもらえた。使用人にはある程度は寛大な主人で、その屋敷で働く者たちは他のところよりよい主人だと感じ、エルもそれがありがたいことなのだと教えられた。

 資産家であったその主人は、隣国からの侵略の情報を得ると、私財を集めて自国を見捨てた。使用人たちには賃金に上乗せをしたくらいの金を配る気前のよさを見せたが、身近な者を連れて主人は国を出て行った。残された者たちが新たな主人を探せるような情勢ではなくなり、金のない者は出国もできない状況になっていた。

 エルの乳母であった人は、自分の家族を優先した。彼女はエルを心配してくれたが、余計な食い扶持を抱えられるわけもなく、彼女もエルを置いて去った。

 エルは誰もいなくなった屋敷に留まっていた。

 自給自足はできた。畑にまだ食べられるものが残されていたし、家畜もわずかに持ち出し損ねたものたちがいて、それらの世話をし、屋敷の中で使えるものをかき集めて生活をできるようにした。

 当分は生きていくだけのものはあった。それでも、もしこれでも死んでしまうのなら、仕方がないとエルは思った。

 やがて戦さは本格化し、侵略者たちは短期間で国を吸収してしまった。彼らは盗賊のように大きな屋敷を狙い略奪を行い、火を放った。エルのいた屋敷も襲われたが、初めから金目のものは主人によって持ち出されていたためあまり略奪はされず、小さな子供が眠るくらいのところは焼け残った。

 シリューズがエルのいた屋敷を訪れたわけは知らない。侵略した側の人だとしても、シリューズは独りで生きてきた子供をその小さな世界から外の大きな世界へと連れ出してくれた。

「今日から俺が、おまえの兄だ」

 そう言って、薄汚れた自分の手を強く握ってくれたときのことを、エルはいまでも覚えている。エルの目線に合わせるためにしゃがんで、なんの希望も持っていなかった子供に、シリューズは温かな眼差しの笑顔を贈ってくれた。

 各国を渡る傭兵であるはずのシリューズは、戦さのない国に家を買い、その地でしばらくエルと共に過ごした。エルを学校に通わせ、まだ大勢の子供たちと一緒に過ごすことに慣れないエルがつたなく話すことをシリューズは必ず聞いてくれた。エルにとっても、他の子供たちと遊ぶよりも、シリューズと一緒に宿題などをすることのほうが楽しかった。

 エルが他の者たちと打ち解けられるようになったころ、シリューズは仕事を再開させた。仕事を受けるのは近隣に絞ったが、シリューズが数ヶ月留守にしてもエルは寂しくはなかった。留守を自分が預かるのだと思うと嬉しかった。シリューズが必ず帰ってきてくれると知っていたからだ。

 エルにとってシリューズは、外への扉を開いてくれた恩人であり、頼もしい兄であり、厳しい父であり、優しい母のようでもあった。いまから生まれてくるシリューズの子は、兄が自分にしてくれたように見守りたいと思っている。

 しかし、兄の復讐を果たすこと、兄の子の成長を見守ること、この二つを同時にはできない。

 いまエルは、身を引き裂かれるほどの重大な選択を迫られていた。



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