舞いし者の覚書

第10話

　舞人（まいひと）が二ヶ月前に施（ほどこ）した呪（まじな）いは、無残（むざん）にも破（やぶ）られていた。

　札（ふだ）はズタズタに切り裂（さ）かれ、祠（ほこら）は風化して砂混（すなま）じりの瓦礫（がれき）と化している。

「荒（あら）ぶる嵐神（あらしがみ）さえも鎮（しず）める札（ふだ）をこんなに……なぜここまで強くなったのか？　こればかりは直接（ちょくせつ）訊（き）かなければわかりませんね」

　舞人（まいひと）は、背（せ）の漆箱（うるしばこ）から小さな瓢箪（ひょうたん）を取り出した。

　掌（てのひら）に収（おさ）まるどころか、水（みず）一滴（いってき）入るのか定かではないほどの小ささだ。

　舞人（まいひと）はそれを持ち、空いた片方（かたほう）の手で小さな金の粒（つぶ）を一つ取り出す。

「五行思想なるは、金生水（ごんしょうすい）。

　凝（こ）り固（かた）まって水を生む。

　佐渡（さど）よりもたらされた黄金（こがね）よ、天地（てんち）万物（ばんぶつ）変化（へんげ）循環（じゅんかん）の思想を以（も）って枯（か）れ行くこの大地に恵（めぐ）みを与（あた）えたまえ」

　言って、瓢箪（ひょうたん）の水を一滴（いってき）、絞（しぼ）り出した。

　するとどうだろう。

　ひょうたんから水がどんどんあふれてきたではないか。

「大地よ雲を求（もと）めたもう。

　草木よ雨を求（もと）めたもう。

　陽（ひ）のもと分かつ力ぞ、願（ねが）うは是（これ）人に非（あら）ず」

　ダンッ、と強く地面を一度（いちど）踏（ふ）みならす。

　霊妙（れいみょう）、かつ緩（ゆる）やかな舞（まい）だった。

　水が川となって流れるが如（ごと）く、手の動き足の運びは止まることなく舞（ま）う。

　撒（ま）かれた水は金によって溢（あふ）れだし、大地に染（し）みわたった。

　染（し）みた水はやがて水脈（すいみゃく）へ繋（つな）がり、そこからまた地表へと少しずつ滲（にじ）み、溢（あふ）れ、やがて大地を潤（うるお）しはじめた。

　舞人（まいひと）の足取りを辿（たど）るように、霊華（れいか）が咲（さ）き乱（みだ）れ花びらが舞（ま）い踊（おど）る。

　舞人（まいひと）は小さく祝詞（のりと）を唱（とな）えながら舞（ま）う。

　すると、舞人（まいひと）の顔をなでるように風が吹（ふ）きはじめ、かと思うとあっという間に暴風（ぼうふう）になり、一帯（いったい）は荒（あ）れた。

「……我（われ）の在（あ）る場所に水をもたらすは誰（だれ）ぞ……？」

　か細い霞（かすみ）の如（ごと）き声とともに空気が乾（かわ）き、土は砂（すな）となって風に舞（ま）い、渦巻（うずま）くその中から声の主は現（あらわ）れた。

　舞人（まいひと）の頭上に浮（う）かぶは、両手を広げたほどの大きさなる黒い雲。

　風が渦巻（うずま）き、雲は小さな台風になっていた。

「魃（ヒデリガミ）よ。永きにわたる雨を狩（か）り、人を襲（おそ）う洪水（こうずい）を消し去る恵（めぐ）みの神よ」

　舞人（まいひと）は、その台風に膝（ひざ）をついて叩頭（こうとう）した。

「空を渡（わた）りし御身（おんみ）は何故（なにゆえ）人在（ひとあ）りき村に留（とど）まりたもうか。村はまだ生きる意志在（いしあ）り。我（われ）、御身（おんみ）を在（あ）るべき場所へお連（つ）れ申し候（そうろう）。どうか鎮（しず）まりたもう……」

　すると、雲は渦巻（うずま）きその中から人の姿（すがた）が現（あらわ）れた。

　女童（めのわらわ）であった。

　透（す）けるが如（ごと）く白い肌（はだ）。

　風になびく軽い布（ぬの）を重ねた白装束（しろしょうぞく）。

　結（ゆ）った髪（かみ）は黒く、しかし艶（つや）やかである。

　開いた灼熱（しゃくねつ）の瞳（ひとみ）が舞人（まいひと）を寂（さび）しげに見つめる。

「そなた……覚（おぼ）えておる。

　……我（わ）が領域（りょういき）で……舞（ま）っていた……時を間違（まちが）えた人間」

「間違（まちが）えたのは忘（わす）れていただけますか」

「優雅（ゆうが）な舞（まい）……村を清（きよ）めた。

　だが、それも無意味（むいみ）……。

　村に……水は要（い）らぬ」

「御神（おんかみ）が尊（とうと）きがゆえ清（きよ）めればこそ。村の意志（いし）も微弱（びじゃく）ながら感じられましょう」

「黙（だま）れ」

　静（しず）かだった声が、地響（じひび）きに似（に）たものになり、舞人（まいひと）の身が大きく振動（しんどう）する。

「村の要（かなめ）……許（ゆる）すまじ……！

　滅（ほろ）ぼす……！」

　その言葉を聞いて、舞人（まいひと）は首を傾（かし）げた。

　村を離（はな）れている間、旱魃（かんばつ）の被害（ひがい）が拡大（かくだい）しないよう、彼（かれ）は要所（ようしょ）要所（ようしょ）に清（きよ）めの儀式（ぎしき）を行い、呪（まじな）いを施（ほどこ）した。

　神社に寺に、畦道（あぜみち）に佇（たたず）む小さな地蔵（じぞう）にいたるまで。

　舞人（まいひと）が思考に口を閉（と）ざしていると、魃（ヒデリガミ）は風を呼（よ）んだ。

　渦巻（うずま）く風の中、暗い森に囲（かこ）まれた祠（ほこら）が姿（すがた）を見せる。

　どうやらこの村が旱魃（かんばつ）に襲（おそ）われる前の、緑（みどり）豊（ゆた）かな頃（ころ）のようだ。

「これは？」

「我（わ）が祠（ほこら）……」

　そこに見えるは村付近（ふきん）の森のようだが、舞人（まいひと）の知らぬ場所だった。

「ここが穢（けが）されたというのですか？」

　魃（ヒデリガミ）は答えない。

　代わりに、祠（ほこら）の陰（かげ）から誰（だれ）かが現（あらわ）れた。

　夜の暗い森だが、雲に隠（かく）れていた月がその姿（すがた）をあらわにする。

　赤ら顔に日焼（ひや）けした肌（はだ）。鍛（きた）えられた筋肉（きんにく）を持ちながら、千鳥足で歩いてきたのは百姓（ひゃくしょう）姿（すがた）の庄屋（しょうや）、縄田（なわた）玄信（げんしん）であった。

　どうやら酒に酔（よ）っているらしい。彼（かれ）は、祠（ほこら）の前まで来ると、手に持っていた飲みかけの酒を捧（ささ）げた。

「お酒……飲んでますね」

　舞人（まいひと）は呆（あき）れた顔をした。

　魃（ヒデリガミ）もいやそうな顔でその様子を見ていた。

　しかも、彼（かれ）はお参（まい）りどころか落ちぶれてしまっただの愚痴（ぐち）をぶちまけてしまっている。

　さらに、よろけた足取りのまま家に帰ることなく畑で寝（ね）てしまっていた。

「これは……」

　玄信（げんしん）が一方的（いっぽうてき）に礼儀（れいぎ）を欠いているのがいけないと舞人（まいひと）は得心（とくしん）した。

「これは、我々（われわれ）人間が無礼（ぶれい）を働（はたら）いてしまったことが原因（げんいん）ですね。大変（たいへん）お恥（は）ずかしい――」

　しかし、魃（ヒデリガミ）は首を振（ふ）った。

　まだ渦巻（うずま）いている風を、魃（ヒデリガミ）が指さす。

「おお、ここじゃ」

　玄信（げんしん）が、祠（ほこら）を探（さが）していたようだ。

「昨晩（さくばん）は大変（たいへん）ご無礼（ぶれい）を働（はたら）いてしもうた」

　翌日（よくじつ）の事だろう。祠（ほこら）を綺麗（きれい）にしている様子が映（うつ）し出されている。

「中まで酒臭（くさ）い。申し訳（わけ）ない」

　手を合わせて、祠（ほこら）の扉（とびら）を開くと、中にはご神体と思しき赤い石が祀（まつ）られていた。

「！」

　舞人（まいひと）は、首にかけた赤い飾（かざ）りの数珠（じゅず）に我（われ）知らず触（ふ）れる。

　玄信（げんしん）は、丁寧（ていねい）に拭（ふ）き、再（ふたた）び手を合わせて祠（ほこら）を閉（と）じた。

　少し歩くと、風が玄信（げんしん）の顔を撫（な）でていく。すると急に虚（うつ）ろな目になった。

「……ありゃ？ わし、なんでこんなとこに……」

　その様子を最後（さいご）に、風は吹（ふ）き止んだ。

「玄信（げんしん）殿（どの）は、確（たし）かに無礼（ぶれい）を働（はたら）きましたが、ちゃんと詫（わ）びをいれております。何故（なにゆえ）お怒（いか）りで？」

　魃（ヒデリガミ）は、祠（ほこら）の中にある石を愛（いと）おしそうに抱（だ）く。

　しかしその形相は、怒（いか）りに満（み）ちていた。

「これは我（われ）が守るべきもの……人間ごときが触（ふ）れおった……！」

　なるほど、と舞人（まいひと）は瞳（ひとみ）を閉（と）じる。

「それは、ご神体ではありませんが、守るべき大切な石……ということですね」

　再（ふたた）び、ゆっくりと瞳（ひとみ）を開けた。

　魃（ヒデリガミ）は日照（ひで）りの神だ。その神が一瞬（いっしゅん）でもゾッとした。そんな視線（しせん）だった。

「その赤き石、探（さが）しておりました」

　先ほどまでの穏（おだ）やかな雰囲気（ふんいき）と打って変（か）わって、まさに刺（さ）さんばかりの舞人（まいひと）の気配に、魃（ヒデリガミ）が警戒（けいかい）する。

「その石は、あるべき場所に戻（もど）す物。おそれながら私（わたし）がもらい受けます」

「人間になど渡（わた）さぬ……！」

「なれば仕方ありません」

　舞人（まいひと）は背（せ）の漆箱（うるしばこ）に手を触（ふ）れる。

「力ずくでもらいます」　

「我（われ）に楯（たて）突（つ）くか……！」

　魃（ヒデリガミ）は、激（はげ）しい風をまとった。