舞いし者の覚書

第1話

　丘（おか）と山を越（こ）える人影（ひとかげ）一つ。

　背中（せなか）に背負（せお）う荷物から、薬師（くすし）かはたまた物売りか。

　しかしこの人影（ひとかげ）、そう呼（よ）ぶにはいささか風変（ふうが）わりな出で立ちである。

　夜明け前の闇（やみ）から日の出が輝（かがや）く暁（あかつき）の空を織（お）り込（こ）んだかの生地。艶（あで）やかな花の咲（さ）いた着物を纏（まと）い、奇妙（きみょう）な紅（くれない）の石を数珠（じゅず）つなぎの首飾（くびかざ）りにしている。

　そして、背（せ）には漆（うるし）の黒い箱。

　奇妙（きみょう）奇天烈（きてれつ）が歩いているようにしか見えなかった。

　他の旅人と比（くら）べても、何を目的（もくてき）にした旅なのか、皆目（かいもく）検討（けんとう）がつかない。

　そんな彼（かれ）が向かうは長州南西部、鴨之庄（かものしょう）のとある村。

　南北に続（つづ）く里道（さとみち）に沿（そ）って流れるのは『瀬（せ）』のつく村が七つあることから名のついた七瀬川（ななせがわ）。

　水源（すいげん）豊（ゆた）かに潤（うるお）すものの、周囲（しゅうい）の田畑まで届（とど）くことなく、田畑は緑の海原を見せる季節（きせつ）になっても、茶色く枯（か）れ果（は）てていた。

　原因（げんいん）は、祟（たた）りか呪（のろ）いか毎年のように襲（おそ）う旱魃（かんばつ）。

　灌漑（かんがい）工事を考えなかったわけではあるまいが、なにぶんお金がかかる。

　例年（れいねん）の旱魃（かんばつ）に厳（きび）しい年貢（ねんぐ）の取り立てに、村の資金（しきん）は雀（すずめ）の涙（なみだ）。

　苦労（くろう）の末（すえ）にできた米もほとんど年貢（ねんぐ）にとられ、残（のこ）りはくず米ばかり。村人たちは日々の食事も満足（まんぞく）に摂（と）れない始末（しまつ）。

　しわの寄（よ）った額（ひたい）を突（つ）き合わせては「困（こま）った」「まいった」のため息ばかり。

　そこへ異様（いよう）の旅人が現（あらわ）れたものだから、村人たちの警戒（けいかい）心は一層（いっそう）膨（ふく）れ上がった。

「一つものを訊（たず）ねたい」

　心まで干（ひ）上がった村の男（おとこ）衆（しゅう）は、旅人を猜疑心（さいぎしん）の塊（かたまり）で睨（にら）みつけた。が、一瞬（いっしゅん）で皆（みな）恍惚（こうこつ）となる。

　姿（すがた）は奇妙（きみょう）だが、それを忘（わす）れてしまうほど旅人の顔は整っていた。

「ここに、縄田（なわた）玄信（げんしん）殿（どの）がおられると聞いたのですが？」

　声の低（ひく）さに、男（おとこ）衆（しゅう）は初（はじ）めて旅人が男だと気付（きづ）く。しかし、それでも綺麗（きれい）な顔立ちに我（われ）を忘（わす）れ、頬（ほほ）を染（そ）めた一人が応（こた）えた。

「ああ……庄屋（しょうや）さんトコに用か。じゃったら、すぐそこの大きな瓦（かわら）屋根んトコやけぇ」

「じゃけど、あんたみたいなぶち綺麗（きれい）な薬（くすり）屋でもなーんも売れんよ？」

　小柄（こがら）な男がひょっこり出てきて言う。背中（せなか）の漆（うるし）塗（ぬ）りの箱を見て、薬（くすり）が入っているのだと思ったのだろう。

「あ、でもよ、どんな寝坊助（ねぼすけ）な奴（やつ）でも一発で起きちまう薬（くすり）があれば全部売れるやろうね」

「おお、あそこにゃ寝太郎（ねたろう）がおるけんねえ」

「寝太郎（ねたろう）？」

「庄屋（しょうや）さんトコの息子だあ」

「ぶち寝坊助（ねぼすけ）なんよ」

「ぶち……？」

「もう三年も寝（ね）ちょうって話やけぇ、庄屋（しょうや）さんもきっと買（こ）うちゃるって言うと思うよ」

「それはそれは……ご助言ありがとうございます。しかしながら、私（わたし）は薬師（くすし）ではなく、舞（まい）を伝（つた）える者ですので――」

『舞（まい）ぃ？』

「以前（いぜん）、玄信（げんしん）殿（どの）にお世話になったので、挨拶（あいさつ）に来たのですよ」

　一同が素（す）っ頓狂（とんきょう）な声を揃（そろ）える中、旅人は玄信（げんしん）の家へと向かった。

　■　■　■

「もし。縄田（なわた）玄信（げんしん）殿（どの）はご在宅（ざいたく）か？」

　数ある藁葺（わらぶ）き屋根の民家（みんか）の中で、唯一（ゆいいつ）瓦（かわら）屋根の大きな建物（たてもの）。

　旅人が叩（たた）くたび、丈夫（じょうぶ）なつくりのはずの引き戸はギシギシと音を発てる。

「どちらさんで？」

　声は後ろからした。

　振（ふ）り向くと、そこには大柄（おおがら）な男が立っていた。

　男は切れ長の精悍（せいかん）な目つきをしており、カラカラに乾（かわ）いた季節（きせつ）に見合うよう日焼（ひや）けしていた。流れる汗（あせ）を拭（ぬぐ）う腕（うで）は太くたくましく、田畑仕事をしているだけでは到底（とうてい）つくり上げられないほど筋肉（きんにく）が鍛（きた）えられていた。

　旅人は、すっかり百姓姿（ひゃくしょうすがた）が板についた男を見て懐（なつ）かしそうに顔をほころばせる。

「お久（ひさ）しぶりです、玄信（げんしん）殿（どの）」

「おお？　舞人（まいひと）殿（どの）か!?　おお、おお、久（ひさ）しぶりじゃあ！」

「息災（そくさい）のようでなによりです」

　玄信（げんしん）と呼（よ）ばれたこの男。

　　元々は、岩村田（いわむらた）大井（おおい）氏（し）の一族であった。平賀氏（ひらがし）を継（つ）いで、信濃国（しなののくに）の平賀（ひらが）城（じょう）の城主（じょうしゅ）になったれっきとした武士（ぶし）である。

　天文五年。

　玄信（げんしん）は駿河国（するがのくに）の今川義元（いまがわよしもと）と同盟（どうめい）を結（むす）び、佐久（さく）侵攻（しんこう）を本格化（ほんかくか）した。

　大井氏（おおいし）の先鋒（せんぽう）として甲斐国（かいのくに）守護（しゅご）の武田（たけだ）信虎（のぶとら）と争（あらそ）ったが、戦況（せんきょう）は徐々（じょじょ）に武田（たけだ）勢（ぜい）有利（ゆうり）となり、玄信（げんしん）はついに海ノ口城（うみのくちじょう）で包囲（ほうい）され、篭城（ろうじょう）せざるを得（え）ない状況（じょうきょう）に落ちいった。

　甲斐（かい）全軍（ぜんぐん）八千に対し、海ノ口城（うみのくちじょう）の兵力（へいりょく）三千。

　明らかに形勢（けいせい）不利（ふり）とみられたこの戦況（せんきょう）で、玄信（げんしん）は一ヶ月あまり防戦しただけでなく、なんと武田（たけだ）勢（ぜい）を撤退（てったい）にまで追いやったという。

　この時、武田（たけだ）勢（ぜい）には武田（たけだ）信虎（のぶとら）が嫡子（ちゃくし）、齢（よわい）十六となる晴信（はるのぶ）が初陣（ういじん）にたっていた。

　後に、かの信玄（しんげん）と名を改（あらた）めた武田（たけだ）の武士（ぶし）である。

　その戦乱の際に舞人（まいひと）と玄信（げんしん）は知り合ったのだ。

　玄信（げんしん）は舞人（まいひと）の肩（かた）を豪快（ごうかい）に叩（たた）いて再会（さいかい）を喜（よろこ）んだ。

「舞人（まいひと）殿（どの）も相変（あいか）わらずのご様子で――おお、わしとしたことが！ どうぞ上がって茶でも飲んでってください」

　玄信（げんしん）が戸を開ける。

　促（うなが）されて入った舞人（まいひと）の視界（しかい）に飛（と）び込（こ）んできたのは、うつ伏（ぶ）せに倒（たお）れた男の姿（すがた）だった。

「……人が倒（たお）れておりますが……」

「おおっ!?」

　玄信（げんしん）も玄関（げんかん）を覗（のぞ）き込（こ）み、慌（あわ）てて男を担（かつ）ぎあげる。

「お前は……さっき布団（ふとん）に戻（もど）したばっかなんに！　またこんなとこで！ どんだけ寝相（ねぞう）わるいんじゃああ！」

　担（かつ）いだ男を軽々と投げ飛（と）ばす玄信（げんしん）。

　障子（しょうじ）を破壊（はかい）して部屋の奥（おく）へと吹（ふ）っ飛（と）んだ男は、ぎゃっと潰（つぶ）れるような声をあげて、すぐに静（しず）かになった。

　舞人（まいひと）へ振（ふ）り返った玄信（げんしん）は、照（て）れくさそうに頭を掻（か）く。

「どーもお見苦しいモンをすいません。ウチのせがれでして」

「確（たし）か、清恒（きよつね）殿（どの）……でしたか。大きくなられましたね」

　舞人（まいひと）は、清恒（きよつね）が吹（ふ）っ飛（と）んだのを見なかった事にした。

「いやいや、仕事もロクに手伝（てつだ）いやせんで。やいとをすえんといけんですわ」

「やいと……ですか？」

「さあさ、どうぞお上がりください。すぐにお茶を出しますんで」

　舞人（まいひと）は促（うなが）されるまま囲炉裏（いろり）の席（せき）へと着いた。

　外見とは裏腹（うらはら）に、あちこちにひびの入った壁（かべ）。

　床（ゆか）はギシギシ音をたて、座（すわ）っただけで抜（ぬ）けてしまいそう。

　かなり年期の入った住まいのようだ。

　奥（おく）の部屋は物置（ものおき）だろうか。扉（とびら）も窓もなく、棚（たな）がいくつもしつらえてある。そこには雑多（ざった）に物が積まれていた。

　その中に埋もれるように、しかし綺麗（きれい）に陳列されている物があった。

「おや、これは……」

　玄信（げんしん）が気が付（つ）いた時には、舞人（まいひと）は既（すで）に物置（ものおき）に入っていた。その彼（かれ）が声を漏（も）らす。

「玄信（げんしん）殿（どの）、これは『めがね』ではありませんか？　その隣（となり）は確（たし）か『時計』でしょう？」

　玄信（げんしん）は、舞人（まいひと）が指し示（しめ）す品を一瞥（いちべつ）する。

　丁寧（ていねい）な造（つく）りの物に、玄信（げんしん）はさして興味（きょうみ）なさそうに答える。

「まあ、それは本来わしなんかとは一生（いっしょう）縁（えん）のない物ばかりじゃけん。気に入ったのがおありなら、好（す）きに持ってってくだせぇ」

「玄信（げんしん）殿（どの）ともあろう方が、村の財源（ざいげん）となるものをそのように軽く扱（あつか）われてよいのですか？」

　玄信（げんしん）の手がとまる。

「舞人（まいひと）殿（どの）――」

「隠（かく）しても私（わたし）にはわかります。ご心配なく、他言無用（たごんむよう）にしますから。ただ、いずれもこの国にはない珍（めずら）しい品々ですので少し勿体（もったい）ないとは思いまして」

　棚（たな）にならんだ品を眺（なが）める。

「フランシスコ・ザビエルが天皇陛下（てんのうへいか）に献上（けんじょう）するはずの品々。不運（ふうん）にも謁見（えっけん）叶（かな）わず大内（おおうち）義隆（よしたか）様が譲（ゆず）り受けたのですよね」

「そう聞いちょります」

「確（たし）か、一五五一年の四月でしたっけ」

「もう何年も前の事ですわ……」

「何年も前……ですか〜」

　舞人（まいひと）が遠い目になる。

　囲炉裏（いろり）で湯を沸（わ）かす玄信（げんしん）の傍（かたわ）らで、「何年もですかー、そうですかー」と天井（てんじょう）を仰（あお）いで呟（つぶや）く舞人（まいひと）。

　玄信（げんしん）の家は天井（てんじょう）がなく、大きな梁（はり）が横たわっている。暗いその梁（はり）を、鼠（ねずみ）がニ（に）、三匹（さんびき）走り去る。

「……また時を間違（まちが）えた……」