プロローグ

Andante religioso

 私が はじめて集一に出逢ったのは、初夏の風が吹くイタリア北部の中世ゴシック都市・ヴェローナだった。

 私は、そのヴェローナから西へ約二六〇キロ離れた中世バロック都市・トリーノの王立劇場で特別に会された楽団のメンバーに加わりコンサートを開催するために、そこに滞在した。

 もしも、これがイタリアで、という話ではなかったら、私はこの契約に心からの歓びを感じなかったばかりか、むしろ不安や恐れを抑えきれずに、楽団の一員となることを断念したかもしれない。否、その可能性は可成り大きい。何故なら私は、イタリアという国に対して、ごく幼いころから、憧憬と懐古の念を持っているからである。どうにも恋しくて、懐かしさを募らせてしまうのだ。

 それは寧ろ、望郷に近い感情だった。そして、何が、そのような感情を私の心に湧かせるのかと問われてみれば、それは私の職業と、それを定めた家庭環境にあったのかもしれない。

 ——私たちの音楽すべては、イタリアに始まり、イタリアで成長を遂げた——。

 この言葉は、私のよく知る人間が、幼かった私に幾度も教えた、彼の〝音楽観〟に通じる最初の言葉である。そのひとは私に、音楽という分野におけるイタリアという国の恩恵を事細かに語り、なにゆえに音楽の故郷がイタリアであるといわれつづけてきたのか、それをつぶさに説明した。つまり、私は幼いころ、踏んだこともない異国の地の話を常々聞かされてきたのだ。

 母国のものよりずっと強烈にイタリアの文化や価値観を植えつけられ、七歳になる直前に両親を亡くすまでは、それに疑問も違和感も持たないできた私が、母国である日本よりイタリアに対して懐郷の念を持ったとしても無理はない。後年、イタリアに留学した経験も影響しているとはいえ、それはこの感情の初めではなく、さなかにあった。

 なにしろ私は、音楽における第一の教師を失うまで——つまり両親を亡くすまで——日本語の音楽を聴いたことなどなかったほどなのである。これでは日本に親しみを持てるはずがない。しかし、父は敢えて私をそのように育てたのだろう。

 私は口も利けぬ頃よりイタリア語の音に慣らされ、やがては英語を使うようになった。日本語はといえば、その合間に母から教わっただけであるという。それなのに、いまの私は日常会話に日本語を使っている。イタリア語はおろか英語すらも口にしない。それは、両親が亡くなった時期が早かったためでもあるだろう。

 両親が亡くなってすぐ、残された家族は、私に日本語を使うようにと命令したことはない。ただ、彼ら自身が日本語でしか話さなくなっていたので、自然と私も同じようにしていたと思う。言語とは、つまるところ意思の疎通を図るための手段にすぎないのだ。内的な思考はまた別であるのだが、音楽以外にそれを使う理由などなかった。それを思えば、もしかしたら私は、自分で考えているよりも、ずっと、日本人としての自覚や見地を有しているのかもしれない。

 完璧主義であった父が、私に最初に習得させた言語がイタリア語だったのには、先にも少し触れたように、それは音楽のためである。

 音楽という学問には深くイタリアという国が関わってくる。器楽にしろ、声楽にしろ、まして作曲などには、必ずイタリアの文化ことばが関係してくる。一七世紀から一八世紀にかけて確立し、現代まで楽譜に記し伝えられてきた標語、つまり音楽用語である。

adagioアダージョ』、『allegroアッレーグロ』、『prestoプレースト』——これらは速度を意味する単語なのであるが、すべてイタリア語なのである。

 それぞれ、『adagioゆるやかに』、『allegroはやく』、『prestoとてもはやく』と理解される。

 もう、おわかりだろう。音楽を完全に学ぼうと思うなら、イタリア語の習得は必須条件なのだ。

 楽譜に記された単語を読み、その指示の正確さを期すためにも、イタリア語を会得しなくてはならない。少なくとも、父はそう考えたのだろう。それは、単に楽譜を正確に理解するための言葉としての必要性だけではなかった。

 音楽においてイタリア語は、発音上の利点からも最適な言語といわれている。声楽を志す者は誰しもイタリア語の歌曲を最初の課題にもらうという。基本的な口の開け方や声の響かせ方、正しい呼吸法などの基礎を学ぶには、子音の使われ方が近隣諸国の言語と較べて少ないイタリア語が最も相応しいのだ。

 天才と誉れ高い一八世紀の作曲家、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトも、父親から手解きを受けた上に、イタリア人音楽家との会話の機会に恵まれていた幼少時からイタリア語の造詣を深め、一二歳で初めてイタリア語オペラ『見せかけは初心なご令嬢ラ・フィンタ・センプリーチェ』を書き上げた。

 のちには姉のナンネルや、想い人であったアロイージア・ヴェーバー嬢に宛てて、彼はイタリア語の手紙を送っている。姉に送っていた手紙には、イタリア語以外にもドイツ語やフランス語、ときにはラテン語が見られるというのに、ともにドイツ語が母語でありながら、声楽家という同じ音楽を職業としていたアロイージアには全文イタリア語で書き送っているというのだから、当時、音楽家たちにとってのイタリア語が、どのような価値と意味を持っていたのか、想像に難くない。

 そうはいっても、現代では、単語の意味を覚えることによって、わざわざイタリア語を学ばずとも自在に音楽を操る人々もいる。優秀な音楽の教師も、学校も、イタリアでなくとも数多い。

 楽譜などの情報が伝わるのに何日も何箇月もかかったモーツァルトの時代とは、何もかもが違うのだ。けれど、父は、そんな遣り方を私たちにさせるのを嫌がっていたらしい。父は、指示語をただの装飾的な語句に貶めてしまうぐらいならば日本語で書き記したほうがまだしもだ、と、家族に零したことがあるそうだ。なぜなら、イタリア語としては、ほかに意味を持つ単語もあるのだ——そう、たとえば——、『adagio慎重に』、『allegro明るく陽気な』のように。

 そうして私は——偏りつつも——ある意味では徹底的に音楽を学んだ。イタリア語は、最初の留学のときにはそれほどでもなかったが、二度目のヴェネツィア留学では生活上でも迚も役に立った。勿論、どこにいても、音楽のための勉強は惜しまなかった。そしていま、私はチェンバロ奏者としての人生を手にしている。

 これまでにも数えきれないほど挫折の危機に晒されたし、懊悩や苦患とて山程あった。それでも私は、この道を進む以外に無かったし、この道のほかには思いすら向かなかった。自らを呪い、責めることもありながら、それでも私は弾き続けるしか無かった。

 時折、中世に、歪んだ真珠バロックの時代に逃げ隠れ、息を潜めて音楽から目を背けようとし続けた。音楽の色濃い世界で沈黙を貫くのは苦しいことだったが、そうせずにはおれなかったのだ。芸術の黄金時代なら、音楽に枯渇せずに音楽をやめられる。そう思っていた。

 私が考えていたのは、追いせまる音の洪水がもつ狂気と責め苦から逃れることだった。輝く響きの渦に流され、とらわれる、ひどい苦しみ。その凄烈で厳格な檻の息苦しさから、解き放たれたかった。

 それでは楽器がかわいそうと、売ってしまおうかと考えたこともある。けれど、私が、自己の存在意義を表明する方法など、音楽のほかに無かったし、なにより私は、それでも音楽が好きだった。拷問のようなレツィオーネすら、私の音楽への愛情を消すことが出来なかった。

 そして、チェンバロの優雅な風情と繊細な音色が、私を強く引きとめていた。

 夢中で弾き続けられることだけが、私の情熱が、まだ燃えていることを示している。そして、バロック時代には、音楽のない生活など考えられなかったから——。

 だから逃げなかった。

 逃げられなかった。

 たとえようもなく甘美な、音という、見えない枷から。

 私にとって音楽とは、決して逃れられない、その魅力で人を離さない環。逃げようとする意志すら溶かし、魂をも蕩かせる、温かな泉。誰も逃げたいとは思わない、黄金と宝石で飾られた、煌びやかな宮殿。その美しさには魔力がある。脳を惑わし、肉体を夢に運ぶ、魔力がある。

 それと知りつつも、なんとかして逃げたいと、に思っていた。

 この甘い苦しみから。

 逃げられないと気づきつつ、逃げたいと思う。そして、そんな自分に嫌悪する。

 私は長いあいだ、その相反する思いに悶えるだけだった。そして流されていく。まわりの状況に。私に下される命令に。

 けれど私は集一に出逢って——すべてを受けとめると、心を決めた。

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