第二章

第39話 辟易する暑さは新たな日常の予感

「あっちぃ」


この言葉を発するのはかれこれ何回目だろうか。それ程までに暑いのだ。


俺は今、cafe deleteへ向かっていた。涼みに行くためではなく、アルバイトとして。


本当は自転車で行く距離なのだが、明穂さんから、


「偶には歩くのも健康でいる秘訣だよ!夏休みバイト以外ゴロゴロしてるんだから」


というありがたいようでめちゃくちゃに迷惑な助言のおかげで、こうしてアルバイト先まで約20分ほど歩くハメになった。


夏休みが始まって早1週間。もうすぐ8月となり、暑さもピークへと近づいていた。セミの泣き声や陽炎を見ると、ますます暑さが増してくるような錯覚に陥る。


日中の最高気温は33度で、夏真っ只中といったところだ。そもそも家を出る気温じゃないだろ。ましてや歩くなんて自殺行為でしかない。


頭の端にからかうような笑みを浮かべる明穂さんの姿がチラつき、明日からは絶対に自転車で行こう、そう決意した。


「あの人何事も突然なんだよなぁ」


俺はつい1週間前の出来事を思い返していた。




◇◇◇




「じゃ、これからよろしくね。颯人」


突然の訪問で、一体何をよろしくされたのはわからないが、いつものように突拍子もないことだとはわかる。


まぁさっきしばらく泊まるって言われたしな。


隣にいる新川が困惑したように俺と明穂さんを見ている。正直困惑したいのはこっちの方なのだが。


「あまりに突然過ぎませんかね」


「私が突然じゃないことなんてあった?」


「自覚あったのかよ……」


はぁ。とため息をつくが、明穂さんは相変わらずニコニコしている。この人の頭の中が読めん。


「あ、あの……」


すると新川が痺れを切らしたのか、声を掛けてきた。そりゃそうだ、いきなりこんなキラキラした人が来たら誰だって気になる。


「あー、この人は明穂さんって言って、俺の親代わりの人」


「あ、そ、そうなんだ」


「ごめんねーいきなり。友達?あ、もしかして颯人の彼女とか!」


「ちげぇから」


「えっと、相田君のクラスメイトの新川唯です」


「はーい、よろしくね。ところで後ろの子と奥の子達は?」


振り返ると、平川と大野が何事かとこちらを凝視していた。そして前にいた橘も同じようにこちらを見ている。


俺達の後ろにいた平川と大野はともかく、橘にまで気付くとは、相変わらず目敏い。


俺は3人を呼ぶと1人1人紹介していった。すると、


「うんうん、颯人も青春してるねぇ」


と、まぁこんな感じで満足そうだった。


「えっと、新川にはさっき紹介したけど、俺の親代わりをしてくれてる明穂さん。海外を中心にジュエリーブランドの経営者、でいいのか?」


「え、社長さん!?」


「うん、そうだよー。『Angel roots』って言うんだけど」


「「「「Angel roots!?」」」」


「うおっ、どうした?」


突然大声を上げた4人は、信じられないものを見たかのように目を丸くしていた。


「海外でセレブ御用達って言われてるあのAngel rootsですか!?」


セレブ御用達?なんだそれ。


「ま、そうだね〜。来月から隣町で新規店舗をオープンすることになったから私が来たってわけ」


「あ、そう言えばあたしの地元に来月からAngel rootsがオープン!って色んなところにチラシとか看板あった!」


「うちの母さんも楽しみにしていたよ」


どうやら聞いている限り、そのAngel rootsというのは世界的に有名なブランドで、明穂さんはその社長だと。


いやいや、初耳なんだが。


ドヤ顔で見てくる明穂さんに心の中で舌打ちしつつ、改めて凄い人なんだと再認識した。性格はアレだけど。


それから10分ほど話してそれぞれ解散することとなった。俺は明穂さんの高級車に乗せられ、アパートへと帰る。


やたらと綺麗な車内は、なんだか居心地が悪い。その居心地の悪さから逃げ出すように俺は口を開いた。


「……わざわざ俺の家に住む必要なんてあったんですか」


そう言うと明穂さんは何故か楽しそうに笑った。


「男の子の一人暮らしって興味あるじゃない?」


「悪趣味め……」


けらけらと笑うその様は、美人故に綺麗に見えた。性格には難ありだが。


「それにしても、遠慮しないでもっといいところに引っ越してもいいんだよ?」


「必要ありませんよ。今の広さで十分ですし、広いところは掃除も大変そうですから」


「ま、そりゃそうだ」


「それに、後からなにを要求されるかわかりませんから」


「ひっどいなぁ。召喚された悪魔じゃないんだから」


中身は悪魔だろ、という言葉は辛うじて飲み込んだ。これこそ後が怖い。この人、人の嫌がることをするのが大好きだからな。


「ね、今から何か食べに行かない?」


「相変わらず急ですね……。まぁ俺は構いませんけど」


「それじゃあ焼肉行こ!」


「焼肉ですか……。いいですね」


「でしょ?それじゃあレッツゴー!」


目的地まで後数百mというところでいきなり方向転換するのは、明穂さんといるとよくあることだ。


しかしまぁ、偶には焼肉も悪くない。そう思い、俺は窓の外に広がる外灯を、ぼうっと眺めた。




◇◇◇




「すみません、今日からお世話になる相田です」


カランコロンと小気味良い音を立てる扉を開け中に入ると、夏休みということもあってか、中高生の客が多いように見受けられる。そしてすぐにスタッフルームへと案内され、オーナーの山科さんへ挨拶した。


「よろしくね。それじゃあ早速なんだけど、これに着替えてくれ。黒のズボンと革靴は持ってきてるかな?」


「はい、ありがとうございます」


渡されたのは、白のカッターシャツに黒のベスト、そしてズボンの上から巻くエプロンだ。これがこのカフェの制服らしい。


更衣室で着替え終わると、早速他のアルバイトと思わしき女性に厨房へと案内された。今日は店長含め5人ほどが働いているが、それ程忙しいわけではないようだ。


「簡単なのはカウンター越しに作るんだけど、でっかいパフェとか工程が面倒だったり大きいものは中で作るの」


「なるほど」


「出来上がったらそこにあるベルを押すから持っていってね。その時横に貼ってある伝票を抜くのを忘れずに」


「わかりました」


スラスラとメモを取りながら説明を聞いていく。ざっと聞いた感じそこまで面倒なことはないので、繰り返すうちに直ぐ慣れるだろう。


それから10分程で一通りの説明をしてもらい、次はメニューを渡され、料理や飲み物の名前を覚えていくこととなった。手書きの伝票なので、メニューを覚える上で伝票に書く時の略称もセットで覚えないといけないのが少し大変だが、メニュー数もそれほど多くないので、ものの20分ほどで覚えることができた。


「今日は私の後ろについてくるだけでいいから、とにかくどういう接客をするか見ててね」


そう言われ、何度か彼女の後ろに付いて行き接客を学んだ。普段使わないような、承知しました。や、かしこまりました。等の言葉遣いも早く慣れないといけないだろう。


それから約3時間ほど接客の様子を見たり、パフェの作り方やコーヒーの入れ方を学んだ。一つ一つ手順があり、きちんと覚えるにはまだ時間はかかるだろう。


「相田君、今日はもう上がっていいよ」


「え、もうですか?」


「うん、お客さんも少なくなってきたし、初日で全部覚えるのは大変だからね。これからシフトについて伝えるから着替え終わったらスタッフルームにきてほしい」


「わかりました」


そう言って俺はタイムカードを押し、更衣室へと入る。働いた、と言えるのかはわからないが、約3時間ほど立っていたせいか、気づかないうちに疲れているようだ。


着替え終わり、スタッフルームへ入ると、丁度仕事を教えてくれた先輩女性が休憩しているようだった。


「あ、お疲れ〜」


「お疲れ様です。今日はありがとうございました」


「いえいえ〜、また教えてあげるね!」


随分と元気な人だな。だが実は未だに名前を知らない。かと言って、お名前なんですか?とは聞きにくいし。


どうしたものかと悶々としていると、入り口の扉が開き、山科さんが入ってきた。


「お疲れ様、相田君に柚木ちゃん」


なるほど、柚木さんというのか。しかしこれは呼び方的に下の名前だろう。苗字がわからないからと言って、ほぼ初対面の人をいきなり下の名前で呼ぶのはまずい気がする。


「お疲れ様です」


「お疲れ様です店長〜」


「早速シフトについてなんだけどね」


そこから簡単な説明を受け、今週分のシフトを出すことになった。大体週3ぐらいで考えてはいるのだが、従業員も然程多くはないのでもしかすると日によって変わるかもしれないな。


夏休みということもあり客も増える。しかしアルバイトの学生も夏休みということで入る時間が増えるため、あまり問題はないようだ。


「と、まぁこんな感じかな。何かわからないことはある?」


「いや、大丈夫です」


「そっか。ならこれで今日は帰ってもらって大丈夫だよ。僕はこれからお店に戻るよ」


そう言って山科さんは立ち上がってスタッフルームを後にした。さて俺も帰るか、と荷物を持ち椅子から立ち上がる。


「あっ、相田君!連絡先交換しよ!」


「え!?あ、はい」


やべ、変な声出た。まさかいきなり連絡先交換とは。この人まさかイケイケの部類のウェイウェイ系か?


自分で言ってて混乱してきたところで、連絡先の交換が終わった。しかしこれは苗字を知るチャンスだ。そう思い確認すると、


『ゆず』


最早柚木ですらないのかよ。当の本人は満足そうに携帯をしまった。彼女も休憩が終わり、これから戻るらしい。


2人でスタッフルームを後にすると、カウンターに立っていた山科さんがこちらへ出てきてくれた。幸い客数を減っており、少し話していたところで問題にはならないだろう。


「それじゃあ明日からまたよろしく」


「また明日ね相田君!」


「あ、はい。よろしくお願いします」


コミュ障よろしくの挨拶をするが、2人はニコニコとしたまま見送ってくれる。ウェイ系の人って性格もいいのかしら。


「あっ、私のことは柚木って呼んでくれたらいいからね」


前言撤回だちくしょう。どう見てもコミュニケーションに問題がある俺に対して名前呼びだと?


しかしこれから先のことを考えるとその要求、もとい命令には逆らえないわけで。


「え、えっと。わかりました。ゆ、柚木、さん……」


「……ぷっ、あははっ。なんでそんな緊張してるのっ」


「な、慣れてないので」


「そっかー。じゃあ最初は苗字で大丈夫だよ?」


それが一番困る。知らないからな。しかしここで「やっぱり下の名前でー」とか言い出すとあらぬ疑いをかけられそうだ。どうする。


「え、えっとー」


「……もしかして柚木ちゃん。フルネーム名乗ってないんじゃない?」


「え?あっ、ほんとだ。ごめんごめん!私、姫宮柚木姫宮柚木ひめみやゆずきって言うの。よろしくね!」


山科さんと絶妙な指摘により難を逃れた。いや、普通に聞けば良かったんだけどな。なんか人に名前聞くのってナンパみたいじゃん。あれ?意識しすぎ?気持ち悪いって?うるせぇよ。


「よろしくお願いします。姫宮さん」


「いつか柚木って呼んでね!」


付き合いたてのカップルかよ。なんてツッコミができるわけもなく、「善処します」と不祥事を起こした政治家の如く追及を交わしながら店を後にした。


初日から色んな意味で疲れたが、他の従業員の人に挨拶をした時も愛想良く返してくれたし、悪い人達はいないだろう。


明日からも頑張るか。なんて柄にもないことを思いながら、暑さの残る中帰路に着いた。




いつかっていつなんだろうか。そんなことに悶々と頭を悩ませながら。

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