第7話 ティンダロス その四
「青蘭。一人で歩くのは危険だ。私たちから離れないほうがいい」
ささやく神父を見つめていると、妙にソワソワする。これまでそんなふうに思ったことはなかったが、銀色の髪のせいか、夢のなかのあの天使に似てなくもない。
青蘭は惑乱をけどられないよう、むりに神父の手をふりはらった。
龍郎の手をにぎっていると、そこはかとなく安堵する。その感覚を神父にも覚えそうになるのは、いけないことのような気がした。
そう言えば以前、神父は言っていた。
たとえ組織に刃向かうことになっても、君のことは守ると。
信じてもいいのだろうか?
(ダメ。信じない。僕を信用させて、快楽の玉を奪うつもりかもしれないから)
自分に言い聞かせるように胸の内でつぶやくが、どこか落ちつかなかった。
とにかく、早く龍郎を探そうと、走りだそうとした。
そのときだ。
「待ちな! 逃がさないよ!」
天井の穴から、マイノグーラがとびだしてきた。棒のように変形して、細い穴をむりやり通りぬけてくる。黒髪がよじれて触手に変化していた。その姿は、まるでゴーゴンだ。
ガブリエルが告げる。
「マズイやつが来たな。逃げるぞ」
たしかに、ここは逃げるのが良策だ。
なるべく、アンドロマリウスを出したくない。
青蘭たち三人は歩いてきたほうへ逆戻りして走った。
背後からやけにガツン、ガツンと変な音が響く。ふりかえると、マイノグーラの蛇のような髪が、一本ずつ太いトゲになっている。手足も槍のように尖り、壁や床を破壊しながら進んでくる。顔は三角形に変形し、白目をむきながら哄笑していた。
「本性を現してきたな。あれが、ヤツのこの世界での姿か。青蘭、こっちへ」
神父が青蘭の手をつかみ、手近な穴にとびこんだ。ガブリエルも追ってくるようだ。すべり台のようにツルツルの床の上を降下していく。
「待てェー! あたしの可愛いエモノちゃん。子作りぐらいしろっての! もったいぶってんじゃねぇぞ。コラ。どうせ売女だろうがッ」
あいかわらず、マイノグーラは下品な罵声をなげてくる。その声は耳を刺すような金属的な高音に変じていた。鼓膜がやぶれそうだ。耳から血が出そうな苦痛を感じる。
滑降していた床が消え、穴から廊下になげだされた。
上から鋼のように固くとがったものが襲いかかる。マイノグーラの手足だ。伸縮自在らしい。ものすごい速さで立て続けに乱打してくる。
床をころがって、かろうじてよけた。
だが、攻撃はやまない。
穴から姿を現し、連続して槍のような手足で突いてきた。
もうダメだ。やられる。
逃げるだけじゃ、いつかは殺される。
(助けて。龍郎さん!)
青蘭の心の叫びに呼応するように——
「青蘭ーッ!」
その人の声が響いた。
信じられない。
まるでヒーローだ。
「龍郎さん!」
「青蘭!」
青蘭の目の前に、龍郎がとびおりてくる。そして、その勢いのまま、退魔の剣をふりおろした。マイノグーラの右手首を切断する。
青い炎がマイノグーラの腕をかけあがり、またたくまに肩まで達する。
そのまま放置されれば、マイノグーラは完全に燃えつきた。だが、それを察したのか、マイノグーラは自ら燃える腕を肩口から切り落とし、苦痛の叫びをあげながら走り去っていった。
「龍郎さん!」
「青蘭。無事か?」
龍郎がかけよってくる。
ひろげられた腕のなかに、青蘭はとびこんだ。
青蘭の安息の地。
抱きあえば、そこが楽園。
「無事だった?」
「僕は平気。龍郎さんこそケガしてる」
「こんなの、たいしたことない」
それはウソだ。二つの玉の共鳴を通して、かなりの痛みを感じた。
が、それもたがいのぬくもりを感じているうちに薄らいでくる。快楽の玉には持ちぬしの苦痛をとりのぞき、ケガを治癒する力がある。龍郎の痛みは青蘭の痛みだ。だから、自分の体と同様に治すのだ。
「もういいよ。戻ろう。おれたちの世界へ」
「うん」
手に手をとりあって、走りだす。
背後から無数の遠吠えが近づいてきたが、二人でいれば、もう何も怖いことはない。
「ティンダロスの猟犬だ。さっきからずいぶん倒したんだけど、ここにいるうちは際限なく集まってくるんだな」
「ティンダロスの猟犬……あのカマキリみたいなやつのこと?」
「ああ。それ。しつこいヤツらだから、急ごう」
龍郎との会話に、急に別の人物が割りこんでくる。
「さよう。急いだほうがいい。ミゼーアに気づかれるとやっかいだ。もっともヤツはヨグ=ソトースとの戦いに忙殺されているだろうが」
いつのまにか、穂村が青蘭のすぐうしろを走っていた。
「いつからいたの? フォラス」
「ずっと本柳くんといっしょにいたとも。君が
「龍郎さんだけ来てくれればよかったのに……」
ハハハと龍郎が苦笑する。
とにかく、腐臭のただよう不気味な廊下を走りとおした。胸くその悪くなる匂いだ。
「ふうむ」と、穂村が思案する。
「前に本柳くんには話したが、とがった時とは輪廻しない世界だ。時間が直線的にすぎていくだけ。つまり、この世界の住人はすべて不死であり、突発的事故と言った外的要因以外では死なない。だが肉体的な寿命には限界があり、やがて腐り始める。それでも死ねずに腐った体をひきずりながら生き続ける……死を超えた死体。猟犬にひっついている粘膜のような生物も、もとは形ある生物だったのだ。腐乱しつくした究極の姿が、あれというわけだ。そして、それこそが、とがった時の内包する不浄。ゆえに、この世界の住人どもは我々まがった時の生き物をあまねく憎悪するのだろう。羨ましいからだ」
「なるほど。さすがは穂村先生。さあ、急ぎましょう」
龍郎がおだてると、穂村は気持ちよさそうに走る速度をあげた。
やがて五角形の広いホールに出た。その部屋の中心に三角形が形を変えながらクルクルしている。それが龍郎たちの言うゲートのようだ。
「龍郎さん」
イヤな匂いがしたので、すぐに気づいた。青蘭はゲートの前に点々と続くそれを示す。
血痕だ。赤というより青黒い。
マイノグーラの血のようだ。あの女の臭気がする。
龍郎がうなずいた。
「ゲートに続いてる。アイツもまがった世界に帰ったんだな。ここをくぐれば、アイツと戦闘になるかもしれない。油断しないようにしよう」
そう言って、龍郎が青蘭を見つめる。
青蘭も龍郎を大好きな気持ちをこめて見返した。
了
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