第33話 信託

煙管の火皿から上る細い煙が、柔い風に煽られて虚空に曲線を描く。次第に空間に紛れて消えかけたそれに、吐息から零れた新たな煙が交わって香りを部屋に広げていった。


「煙草、まだ止めてなかったのかい?」


部屋の中から声を掛けられ、行命は窓枠に寄りかかって夜空を見上げていた面を振り返る。


そこには、勝手につまみと酒を持ち込んで一人晩酌をしゃれ込む耀日がいた。彼女は問いかけていながら行命の返事を待たずに盃を煽る。


昔からの付き合いだ、彼は耀日の奔放さを十分承知していた。だから突如として部屋に押しかけても、下手に構うより好きにさせた方が良いと放置していたのだが、今の問いである。


「いや、久しく吸っていなかったが。」

「何か心境の変化でもあったかい?」

「ただの気まぐれだ。」


彼はそう答えて視線を逸らし外を眺めると、再び吸い口を銜えて香りを口腔に転がす。その様子を眺めて耀日は揶揄いを含んで笑みを浮かべた。


「それ、昔あたしがあんたに遣ったやつじゃないか。」

「さてな、覚えておらん。」

「頭は良いくせに何言ってるのさ。」


彼女は素っ気ない返事に肩をすくめる。


「お前こそまだ酒を飲んでいるのか。」


しかし、今度は行命から話しかけた。相変わらず視線を寄越さない彼であったが、その言葉と口調に滲んだ感情を察知した彼女はまた愉快気に微笑む。


「日課だよ、日課。いつもの晩酌のついでに陰険坊主の顔でも肴にしてやろうと思ってね。」


彼女が揶揄するといつもの行命ならば渋面を作るところだが、彼の表情は静謐なままだ。


「もう……体は大事無いのか。」


耀日は微かに瞳を見開くが、次第にそれは呆れたようなしかめっ面になっていった。


「あんた、何十年前の事言ってるんだい?!とっくの昔に全快だよ!」


それは行命も思うところがあるのか、少々極まりが悪そうにしながら言い返す。


「儂のせいで倒れたとなれば気にも病む。」

「それをネチネチ何十年も引きずってんのが馬鹿なんだよ!頭良いって言った矢先にこれかい!これだから陰険根暗坊主のまんまなんだよ!!」


耀日は行命を怒鳴りつけながら指先をびしりと突き付ける。


「いいかい、あのお嬢ちゃんにも似たような事言うんじゃないよ!!そういうのは言われた方が気にするんだからね!!」

「……すまん。」


ここは耀日の方が正論であると思ったのか、彼は気圧されるように謝った。


全くこれだから……と彼女はため息交じりに呟くと、浮いた腰を下して再び杯に酒を注ぐ。


「そういえばあのお嬢ちゃんは?」

「徳本殿のところだ。何やら指導を受けに行っている様でな。お前も知っているのではないか?この近くで診療所を開いておられるので、こちらにいる間は世話になっている。」

「あぁ……『医聖』と呼ばれている方だったね。」


そうだと頷く彼を、耀日は睨み付けるかのような眼差しで見つめた。


「行命。あんた、あのお嬢ちゃんとはどのくらい一緒にいるんだい?」

「……十月以上になる。」


それを聞いて耀日の眼差しは緩んだが、次第に薄っすらと哀愁を帯びる。


「そう、あたしには出来なかった事をあの子がね……。」

「昼間の件もわざとだろう?」

「あら、バレた?」


行命に指摘された事に、耀日は悪げもなく飄々と笑った。


「ちょいと面白く思わなくて力が入っても仕方が無いじゃないか。悪戯みたいなものさ。」

「お前の場合は洒落にならん。全く大人げない。」

「そう言ってあんたも直ぐに助けなかったじゃないか。」


行命はそれに答えず咳払いだけ返すと、煙管盆に灰を落として布を取り出し手入れをし始めた。


「言葉を返しづらくなると細々と作業し始めるのも昔からだね。」

「もう満足しただけだ。邪推するでない。」


彼は煙管を分解しながら不機嫌に返す。その様子を眺めて耀日は懐古を滲ませ呟いた。


「あんたと一緒に旅をしてたのは何年前だっけ。」

「二十五年前だ。」

「もうそんなになるか……。あたしも年を取るわけだわ。」


それを聞いた行命はくっと笑いを堪える素振りをする。


「お前からそんな台詞が出てくるとはな。」

「そりゃ気持ちはいつまでも娘心よ?でも現実はあんたもあたしも、いいおっさんとおばさんよ。あの頃のままじゃいられないのよ。特に女はそうやって色気を磨いていくものだからね。」


ふふんと得意気に鼻を鳴らして高説を述べる耀日に行命はうんざりと顔を顰めた。


「お前は色気より節度を磨け。」

「なにさ、人が折角良いこと言ってるのに素っ気ないね。」


耀日は面白くなさそうに舌打ちすると杯を口元に運ぶ。


「だが……昔のままではいられないというのはそうだな。」


しかし、行命はそれに同意する言葉を返した。彼は作業する手をぴたりと止めて、かつての記憶を思い返すようにあらぬ方向を見据える。


「若さとは恐ろしいものだ。半年……お前と共にした時があって“よもや”と思ってしまった。神々に愛されたお前ならばよもや、と……。」

「……。」


その言葉を聞いた耀日の動きも止まった。目を見開いて固まる彼女と、ややうつむき口を閉ざした彼によってその空間に静寂が下りる。


「結局は違った訳だが。」


しかし、直ぐに自嘲気味に呟いた彼の言葉で止まった時は動き出した。耀日も固まった手を下して杯を置くと、雰囲気を変えるようにニヤリと笑った。


「そういえば、一部界隈でそのことについて噂された事もあったねぇ。」


途端、行命は忌々しそうに顔を顰める。


「よせ、思い出したくもない。恥でしかないだろう。」

「思い出させたのはどっちだい。」


再び揶揄うような笑みを浮かべながら彼女はでも……と続けた。


「あたしは悪くない、と思ってたよ。」


今度は行命の動きが止まる。仕返しだとばかりに笑みを深める彼女を、硬直から立ち戻った彼が睨み付けた。


「それこそやめろ、今更だ。」

「そうだね、今更だから言えるんだよ。」

「……全くお前は……。」


それ以上紡ぐ言葉を失ったのか、彼はそう言って疲れたようなため息を付くと手入れしていた煙管を組み立て直す。その最中で行命が軽い咳を漏らした。


「おいおい、人の体調気にしてる場合じゃないんじゃない。煙管なんか吸うからだよ。奥拉で自分の身体を強化しても限度があるんだからね。」

「そんな事お前に言われなくとも儂の方が承知している。煙も口に含んだ程度だ。」


彼は鬱陶しそうに眉間に皺を寄せると組み立てたそれを煙管入れに仕舞い、そのまま耀日に差し出した。


「そこまで言うならこれはお前が持っておれ。」

「贈り物を返す事が失礼になるって知ってるかい?」


耀日はここに来て初めて嫌そうに顔を顰めた。


「受け取らんのなら捨てるが。」

「あぁっもう!!本人の前で言うなんてとんだ屑男だね!あんたはっ!!」


しかし行命が平然と言い放った発言に、彼女は慌てて煙管を奪い取る。だが行命は悪びれた様子もなく微笑んだ。


「こうでも言わなければお前は受け取らんだろう。」

「……。」


押し黙る耀日に行命は語り掛けるように続けた。


「この機会を逃せばもう渡せんからな。」

「……そうかい。」


彼女は落ち着いた口調でそう呟くと佇まいを正して座り直す。


「後の事は頼んだぞ。」

「……それはお嬢ちゃんの事も含めてかい?」

「そうだ。」

「全くあんたは本当に最低な男だね。」

「すまん。」


今度は素直に謝って苦笑する彼を見つめて、彼女は悲し気に眉を寄せたが直ぐに鋭い眼光を宿して睨み付けた。


「あたしに指図するんじゃないよ。面倒見るかはあたしが決める事だ。お嬢ちゃんとは今日が初対面。あたしが世話を焼く義理は無いね。」

「分かっている。伊織は誰かが甲斐甲斐しく面倒を見なければならない子供ではない。自分で考え、自分で行動出来る意志を持つ。ただ、あの子がもしこれからの苦難に躓いてしまった時は手を差し伸べてやって欲しい。儂が望むのはそれだけだ。」

「……それでも私が気に入らなきゃ手を貸してやるつもりは無いよ。」


拗ねたように告げる耀日の言葉に、行命は笑みを深めた。


「伊織の事も、耀日、お前の事も儂はよく知っておる。お前達は大丈夫だ。」


行命の信頼しきった表情に、耀日は言葉を詰まらせるが、やがて悔し気に指先を彼の顔面に突き付けて言い放つ。


「嘘だったら次会った時は顔面引っ叩くからね。」

「お前の一撃だと大変な目に合いそうだな。」


行命は初めて声を上げて笑った。

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