第2話 聴く
声はしばらくの間、何も言わなかった。会社でぼーっとしている日々も、部屋で暇を潰している時間がだんだん多くなってきた。新しい何かが待ち受けていると期待した以上、普通の生活へと帰るのが苦痛になってしまった。声が再び耳元で囁いてくれる時を、じっと待ち受けた。
そして、本棚の漫画にもう一回目を通し終わらせていた頃だった。
「春木」
やった。やっと来た!
「なんですか?」
無人の空間に声を出して問いてみる。一瞬にして俺の人生を宿してきたこの部屋は酷く殺風景になった。
「散歩に行きますか」
「喜んで」
シンプルに単語だった声の発言も、なんらかの発展を遂げていたようだ。いきなり散歩に誘うなんて、まるで彼女みたいじゃないか。このまま陽が沈んだら夜景を見に行き、人気のない場所に行く。ロマンチックだな。視線の先には、星空を映すスカイラインの無数の窓が懸命に星座を真似しようと光輝いている。到底天の川には敵わないけど、それにもお似合いの魅了があるものだ。俺みたいな奴にふさわしいのはどっちなんだ?
「そこを右」
声が目的地まで案内してくれる間、不思議にものすごく落ち着いていた。前にこんな気分だったのはいつだっけ?ゆっくり歩いていると、自然と笑顔が現れる。押し返す事の出来ない笑顔。心を癒すジャズが流れていてもおかしくない、と思ったら実際に脳内で流れていた。
今は不安など微塵もない。
商店街の表通りを抜けて、駅まで足を運んだ。三秒そこに突っ立った。
「やっぱ声に出さないとわからないのか?」
「はい」
横を通りがかっていた女性に変な眼で見られ、愉快な気分が少し乱れてしまった。
「少し寄り道してもいいか?」
声の目的地は六本木だった。それでも途中の秋葉原で俺は降りた。別に誰かを待たせているわけでもないし、っていうか聞く義理もあったのか?
そのままヨドバシアキバに行き、ずっと買うのを躊躇していたエアーポッドを買った。やっぱハンズフリーと見せかけた方がいいよな。携帯ともつなげずにそのまま耳に入れ、外の世界の音とのちょっとしたバリアーを作った。
「行こうか」
「はい」
他人から見れば、俺はただの暇な大学生に見えただろう。音楽を聴きながらモールにでも行き、たいして必要でもない服を買ったりしてからたこ焼きを食べる。そんな一日を過ごすのも悪くはない。だが、俺は大学生でも、暇でもないし、服を買うお金は今耳に詰まってる。
そう思いながらも六本木で降り、ヒルズの店で暇を潰しながら声の応答を待った。
「来たよ」
いきなり来た声に驚いて、試着体験中のロレックスを落とすところだった。不機嫌さを上手に隠す店員に謝りながら、出口へ向かった。
「またのご来店をお待ちしております」
ああ、金が入ったら是非また来てみたいよ。それより。
「何て?」
「来た。道を渡って」
すぐ右にある道路を渡り、適当な方向へと歩いた。声が何も文句を言わないからこれでいいんだろう。
「あのさ、何が来たんだ?」
「大麻の密輸売買。身長171センチ。痩せ型。眼鏡。会ったら、パンダの蝶ネクタイ、と言って」
なんちゅうパスワードだ。
麻薬の売人に会うのは普通もっと怖いだろうけど、相手はムキムキでも複数人でもなかったし、以外と俺の方を怖がってたりする。壁に背中を付けてノンシャランに携帯で遊んでいる、それらしい人を見つけた。普通のサラリーマンじゃないか。でも、人を見た目で判断するのもいけないな。俺が見た目で判断されていたらだめな奴とばかり思われてしまうもんな。
あ、やべ。
確かめもしないで近づいてしまった。声が何も言わないからいいのか?変な眼でこっちを見てきてる。何の眼だ?何かを待っている眼なのか?
「ええっと。パンダの蝶ネクタイ?」
相手間違えてたら死ぬほど恥ずかしいなあこれは。
しかし、男は安心したようで足元に置いてあったマックの紙袋を拾い、そのまま俺に渡した。しばらく何も起こらない時間が気まずく過ぎ、世間話でも始めようかと思ったら、男は歩き去った。気付いたら二度とないシュールな体験はもう終わっていた。
「金は良かったのか?」
「前払いだった」
「そう」
いや、普通前払いとかやらなくねー?払った後ばっくられたらどうするんだよ。本物のクライアントはそうなったと思ってるだろうし、今頃はその売人を探しまわっているはずだ。
そのまま場所を動いてなかった俺は、近くのツタヤへ行って、ツタヤには必ずと言っていいほどあるスタバでコーヒーを買うか、声の支持を待つか迷っていた。そんなどうでもいい考え込みをしていると、俺の手にある紙袋を盗み見しながらゆっくりと誰かが歩いてきた。
「パンダの蝶ネクタイ」
あっ。
俺は結局その後ツタヤへ行った。棚に並んである本を眺めながら、指で優しく本の凸凹をなぞる。右手にはカフェラテ。たまにそれを啜り、読む気もない題名を眼で一つずつ辿った。
「あのさ、どうして俺にさっきの事教えたんだ?」
本棚の間で小声で聞いた。
「ストレスの発散に適用かと」
「いや、吸わねーよ」
携帯を取り出して時間を見た後、外へと出ていった。爽やかな風が道路に沿って吹き、気持ちよく体の熱を奪ってくれる。真夏の天使。
なんとなく空を見上げていると赤いフェラーリが隣で減速し、ゆっくりと通ろうとしていた。運転手は三十代半ばで、こっちを見てきている。なんのようかしらんが、少しキモいぞ。拉致の匂いがしてしょうがない。
「そこの君、何を聴いているんだ?」
「...レモン」
「嘘だね。何も聴いていないだろ」
はあ?どうしてわかるんだよ。
「何。何の用」
「声に聞けば解るだろ」
一瞬頭が空っぽになった。さっき言われた言葉と、今考えてる言葉が意味から剥がされ、理解不能になっていた。
「どういうこと?」
「僕の声は君がさっき大麻を売ったと言っているが。春木、僕と一緒に来てくれ。君が必要なんだ」
「春木。大丈夫。行って」
本当かよ。今回ばかりはどうすればいいのか解らねー。せめて君にはなにも言って欲しくなかったよ。
まさに拉致だな。
「判断するのが難しいのは解るけど、今は信頼して欲しいんだ」
「ああ。いいよ。行くよ」
呆れた声で言いながら、助手席へと向かった。まあ、フェラーリにも一度は乗ってみたかったしな。
「飯田ひろし」
「お前、飯田ひろしっていうんだな」
飯田は気楽に笑い始めた。
「そうだ。飯田だ」
安心感は情報の連れだ。そう思うようになってきた。もちろん力や権力も安心感を連れてくるが、そもそも力も情報の連れである。声で繋がる僕らの安心感はどれほど実在するのだろうか。
車を走らせる途中、飯田の話を俺は素直に聞いた。俺の他に飯田を含む三人、声が聞こえる者達がいて、今のところはそれで全員だった。ある一軒家を本部にし、そこを中心に様々な準備をしていた。詳しい事は避けていたが、要は自分達についての情報収集だった。
「僕たちの事を知っている人は実はもう一人いるんだ。声は持ってないけど、それを欲しがっているらしい。柳っていうどっかの金持ちで、僕らを殺したいそうだ」
「えっ、マジっすか」
「そうだ。あのくそ野郎、もう十分恵まれてるくせに嫉妬してんだろうよ」
俺から見れば飯田もかなりの恵まれ者だ。この柳以上にも。何をどうすれば普通に人生で成功する事が出来るんだ?俺には不思議でならない。
「どうした?」
「いや、なんでもないです」
首都高に乗り、俺は首の力を抜いて窓の外をぼんやりと眺めた。東京が変色した海みたいに、小さな家を点々と浮かばせている。それを通り過ごし、高速の出口の少し後に洋風の家が並び始めた。なるほど、金を持ってないとこういう所へ来る事はないな。
玄関には靴がもう並んであった。客という肩書から離れかけている人が残すような、多少だらしない並び方だった。こんな状況下でも知らない人に会うのは緊張してしまう、いや、こういう状況下だからこそかな。
世間から見ればいわゆるテロ集団のアジトに入っていたのかもしれない。
「今日見つけた新入りだ。仲良くしな」
飯田は二人が座っているダイニングテーブルに自分を加入した。
「今のところはこれで全員か」
気まずい数秒が俺の発言を待った。
「あの、新谷春木です。よろしくお願いします」
「ああ、よろしく」
「よろしく」
先に喋ったのが男の方だった。新宿を歩いたらジャニーズにスカウトされそうな面だった。もう一人は女で、まあ、すごいタイプだったと言えばわかるだろ。なんだこれ、俺だけ超普通って感じ?
声は以外とアシストをくれなかった。久しぶりに自分の頭を使って考えるみたいで、どれだけ流れにただ自分を任せていたのかが解った。それにしても、これは高校の部活よりも整理がついてない集団らしい。
「名前はなんていうんですか?」
「えっ?まだ聴いてないの?」
「はい、まだです。」
「おい、飯田、本当にこいつで合ってんのか?」
「あってるさ。俺が間違えたとでもいってんのか?」
「まあいい、俺は鎌城健二。健二でいいよ。そこにいるお姉さんは斎藤春奈」
「春奈です。よろしくね、春木君」
「はい」
挨拶がすみ、話題に入るのかと思うとそうでもなかった。健二はただ携帯をいじくってるし、春奈はぼーっとしている。飯田はノートを広げていたが、何も書いてないページに何も書きたさなかった。そして、それをただ見ている俺。
「柳はどうするんですか?」
健二と春奈は下に視線を向け、飯田が空っぽな言い訳を始めた。そうか、作戦などないんだな。
「どうするんですか?柳に殺されるんですよね!それとも俺を騙しているんですか?どうなんですか?」
「まあ、落ち着け。柳にも今すぐ行動する理由がない。俺達が中途半端な暇人に見えるのは分かってる。だがそれは準備が上等すぎるから暇なだけだ。もうちょっと待ってくれ」
なんだか恥ずかしくなってきた。さっきまでの自分は当たり前の反応をしていたのに、その瞬間が過ぎてから後悔してしまう。それを防ぐための声なんじゃなかったのかよ?
結局夜になるまでその家を出なかった。まあ、どうせ暇、って言えるほど暇でもないんだよな。どうしよう。また部長に怒られる。
それでも帰る気にはなれなかった。この一軒家が俺のアパートより何倍も魅力的だったことや、春奈がいた事もあったけど、それ以上に今の人生の運命が変えられる気がしたからだった。
「春木、ちょっといいか?」
飯田に呼ばれたのが家を出たきっかけだった。もし呼ばれていなかったら、ずっとあの家に閉じこもっていたかもしれない事に気付いた。そんな自分に震えがする。
「おい、これ聞いて焦らないでくれよ。実は柳の他にも俺らの存在を知っている人はいる。柳は確かに強敵だけど、その先に片づけないといけない奴もいるんだよ。政治家の二宮源四郎がいるどろ。今はあいつだ」
「どうして分かるんですか?いや、その源四郎とかが」
「さあな。半端野郎なんだろう。俺やお前みたいになる途中まではいったが、完成されずに、何をのがしたかに気付くだけで終わった」
「柳もそうか?」
「たぶん。いいか、春木。お前は特別なんだ。選ばれたんだ。それだけは忘れんなよ」
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