第6話 月光と病院と見えない言葉

朝日に瞼をくすぐられて目を覚ました。時計を見るとあと十分で八時というあたり。外では近所の子供たちが遊ぶ声が聞こえている。 

 とても静かな朝だった。よく眠れたし、不思議なことにあの夢を見なくなっていた。外では小鳥が朝日に喜びの歌を歌っているように鳴いていて、僕はベッドから起き上がるとすぐにカーテンと窓を開けた。

 梅雨は晴れたのか、もうすぐ日差しが強くなることを予告しているような空気が部屋中に満ちていく。なんだか僕はすぐにでも階下に向かいたくなった。


 サプリメントは置いてきてしまったことに微塵も後悔をしていなかった自分に少し驚いている。

 そして、それ以上になんだか空腹に見舞われて自然とご飯を食べられている自分をみているおばさんが一番驚いている。

 生きようと言ってくれた人がいた。たったそれだけがこれほどにも僕に力を与えてくれている。その力が何なのかはわからないけれど、少なくとも僕は今生きている。そんな実感がある。

 何事も急激な変化はよくない。僕はほんの少しだけのつもりでご飯を食べる。白いご飯に焼き魚。それと湯気の立つ味噌汁。どれも少しだけ。まるで拾われた家で初めてだされるミルクを恐る恐る口にする子犬のように。

 疑心暗鬼のようなものが、少しづつ口の中で溶けて消えていく……。

「どう? 我が家の自慢の味噌汁は?」おじさんが僕の顔を食い入るように見てくる。

「……おいしいです」

「そっか。まだお替りあるから、もしよかったら遠慮なく食べてね」

 奥ではすでに朝食を終えた杏奈が食器を洗っていて「たまにはあんたが食器を洗いなさいよ」と顔をのぞかせて消えていった。



 僕が授業に戻ると家庭科の先生が代わりに指揮を執り、すべてのものが完成に向かっていた。

 杏仁豆腐は既に出来上がったものを氷で冷やして冷蔵庫に保管する段階まで整っていたし、ラーメンに関してはトレーに並べられた具材もそろっていて、麺を茹でるためのお湯も煮立っていた。教室に入るな否や押し寄せる視線。思わず気おされてしまい、入ってすぐに立ち尽くす。背後では僕の教室入りを待っている瀬戸内さんがいるのに……。

「……。みんなを家庭の事情に巻き込んでしまった。ごめん」

 教室に移動するときにでも何を話すべきか少しでも考えておくべきだったと後悔した。多少精神的に余裕がなかったとして、そんなものは一個人の勝手な都合で、授業を受けようとしている皆には何も関係ないのだから……。

「気にすんなよ。それより、腹が減ったからさっさと席についてくれよ。みんなお前らを待ってたんだからな」一番奥の島からの新沼の声。

「調理に間に合わなかったんだから、食器くらいは洗ってくれよな」新沼の声に続いて教室から次々に僕と瀬戸内さんに対する声が上がって、驚きに似た感情を覚える。でもそれは、嫌な気分ではない。居心地がいい驚き。

「杏仁豆腐。案外うまくいったのよ」杏奈が僕にステンレスのボールに入った白い豆腐を見せる。

「ごめ」口をついて出ようとした言葉を後ろの瀬戸内さんが遮るように、強引に僕の腕をつかんで席に座った。

「もうみんな聞き飽きてるよ、早く食べよ」


 僕はこんな生活が来るんて想像もしていなかった。だから現実に起きたのかもしれない。そう思うとなんだか笑えてきて、食器をかたずけようと流しに運ぶと杏奈に変な目で見られてしまった。

「あ、杏奈さぁ。今日、空いてる?」

「これから学校。部活があるの。あ、でも夕方には帰ってくるかな」

 言いながら食器を洗う杏奈に、今僕が食べて汚れてしまった食器を渡す。おう、とさほど驚くようなそぶりも見せずに洗ってくれている。

「……どうかした?」

「いや……。大した用事じゃないんだけど……」

「さては女? あんたにそんなものが出来るとは思えないけれど」クスっと笑う杏奈は、僕にその顔を見せてはくれない。

「付き合ってやってもいいよ。どうせ何買ってもいいのかわからないんでしょ?」

「ホント?!」

 なんて僕は自分が掘った墓穴に見事に足を踏み入れて、そのことに気づきたころには杏奈はしたり顔で僕のほうを見ていた。

「図星だったのか……。青春だねぇ」

「別に、そんなんじゃ……」

「照れるな照れるな。はいはい。従妹だもんね。昔からの付き合いだし、相談に乗ってやろう。あ、でも部活かぁ……」

 僕らが会話をしている間に、窓からコンクリートの土臭いにおいが流れ込んできて、土砂降りの気配をにおわせた。天気予報では降水確率は30パーセントだったのに……。

「あー、雨か……。ちょっと待って」

 仕方がないという感じを前面に押し出して、手をぬぐい、ポケットからスマホを取り出して何やらどこかに連絡をしているらしい。数秒の間をおいて、再び僕をみやる杏奈は何か企んだように上機嫌になっていた。

「顧問に確認したんだけど、やっぱり今日はなしみたい。テストも終わったことだし、しょうがないから買い物付き合ってあげる。ただし、私にも何か買う事」

 そんな事だろうと思った。という言葉は飲み込んだ。つもりだった。

「当然でしょう? 何事もただで望みが叶うわけがないんだから。世の中ギブアンドテイクなんだから」

 財布事情が気になってけど、その表情を読まれるとまた厄介なことが起きそうだったので、僕なりに顔を作って適当に了承の意を示し、二階に避難した。


 例えばこれが少女漫画や、小説の中の話ならきっと一緒に選んだり、選んだものについて談笑でも交えたりしながら仲睦まじく会話でもするんだろうけれど、実際はまぁ……。

 仲睦まじくっていう言葉をどうしてこの状況に選んでしまったのか、僕は品定めしているときに考えてしまって、苦笑いにも似た落胆に打ちひしがれた。

「意外性。女の子を喜ばせたいならあえて自分とは真逆のものを選ぶ。そして、私にはこれを」

 一駅離れた街のショッピングモールで僕と杏奈は買い物をしていた。ここを選んだのは僕ではなく、杏奈だ。ここ数か月でできたらしく、週末もあってか、家族連れが目立つ。外は今にも崩れそうな天気だけど店内に流れる音楽のおかげで少しだけ遠雷は遠のいた気がする。

 やはり僕は人混みは嫌いだ。縦横無尽に闊歩する人混みを、流れに翻弄されることなく目的地に向かう。まして人と人との距離が近すぎる。誰かに触れることで自分が汚されるなんて潔癖ではないけれど、ここまで近くにいられると落ち着かない気分になる。

「ちょっと、時間もないんだから早く。今日中に渡したいんでしょ?」

 二階の店舗に向かう途中、杏奈が階段から顔を出して僕に呼びかける。

 二階の店舗には雑貨屋と服飾品、おもちゃ屋に家電を扱う店、さらに美容室まであるらしい。僕は杏奈には誰に何を買ってあげればいいのかなんて相談はしていない。プレゼントを買うなら何がいいのかという質問はしたけれど、相手がどんな人間で、性別や年齢、好みなんて情報も一切話す気はない。……勘のいい杏奈なら僕が言わなくてももしかしたら察しているのかもしれないけどね。

 ひとまずしらみつぶしに店内を見て歩くことにしたけれど、そんなことを言いながら真っ先に自分の欲しいものを買いに装飾品店に連れていかれた。

 次から次へと矢継ぎ早に教示が飛んでくる。衣類はセンスが伴うし、相手がどういう好みなのかわからないから却下。よく男性情報誌なんかに乗っている下着のプレゼントはきもい。無難にどこかに連れて行くという手段もあるけれど、実際のところそういう仲なのかと問われると何とも言葉に詰まる。そんなことを言いながら気が付けば小腹が空くような時間になっていた。

「ていうかさ、そもそも誰なの? 私の知り合い?」

「そういうのやめようよ。プレゼントも買ってあげたでしょ?」

 ちらりと買い物かごを覗く杏奈は少し物足りなさそうな顔をしながらも、満足はしているようだった。

「まぁ、大体の察しはついているけどね。雪菜は服あるしなぁ。よく食べる子だけど、プレゼントに食べ物ってのもねぇ……」

「だから、名前は出さないでよ。意識すると選びにくくなる」

「普通プレゼントなんて相手のことを想像して買うもんでしょ? もしかして今まで誰にも買わなかったの?」

「……仕方ないでしょ。家庭の事情なんだから」

 一瞬、逡巡する間が僕らの間に降りて、「まぁ、いいや。ほら次。私のものはこれでいいから、とりあえず隣の雑貨屋さん見に行こう」と杏奈はそのまま店の出口に歩いていった。

 占めて六千円の買い物。中身はよくわからないけれど、あんなにしては珍しくワンピースが一着入っていた。

 

 突然、中央の広場から子供の泣き声がした。その声にあたりは騒然として何事かと奇異の視線を向ける。視線の先では広場に一本だけある大きな木に風船が引っかかってしまったらしく、その真下で5歳くらいの男の子が天を仰いで泣いていた。

「あーあ、やっちゃったねあの子。でもさ、あれくらいならその辺のベンチとか使えば届くんじゃない?」

 杏奈の言葉を最後まで聞くより先に体がそちらへ向いていた。

「ちょっと、まさかあんた風船取ってあげる気?」

「すぐもどるよ」

 歩きながら考える。

 人は何を欲しがるのか。瀬戸内さんなら何が欲しいのか。

 例えば風船を欲しがるとして、それを取ってあげることはきっと簡単ですぐにでも喜んでもらえるだろう。でも、それではすぐにまた幸せを手放す。誰かがまた取ってくれるから。だから欲しいのは風船じゃないんだ。本当に欲しいのは……。

「はい。届くでしょ?」

 いきなり近づいて男の子を持ち上げてしまった僕は、もしかしたら不審者と勘違いされているかもしれない。最初にしゃがんで僕が今からとる行動について少しでも説明をしたほうがよかったのかもしれない。

 僕の小さな不安はすぐにどうでもよくなった。

 男の子がすっと手を伸ばして枝に引っかかった赤い風船を手に入れる。

「ありがと」

「どういたしまして」

 地面に足を着いた男の子は僕に小さく礼を言って、そのままどこかへ駆けて行った。

 きっと、こういうのを幸せと呼ぶのではないのだろうか。ほかの誰かに対して物を送ることだけがプレゼントではなくて。そのプレゼントの価値が高いとかどうとかじゃなくて。

 渡すプレゼントを通して生じるふれあいみたいなものが、一番価値があるのではないだろうか。

 僕は、瀬戸内雪菜という人間にいろいろ学んだ。

 死に対する恐怖心を感じるためだけに存在する不条理な乗り物があること。

 壊れそうなくらい心が張り詰めた時は、そばに誰かがいてくれるだけで緊張がほぐれる事。

 そして、誰かを思うことは……いや、想うことは実は生きて行く上で大切なことなんじゃないかってこと。

 僕は、吹き抜ける風に包まれ、目の前の巨木に目を向けた。雲の隙間から差し込む光に新緑が萌えている。ごくありふれた景色の中に幸せは含まれている気がした。僕は、特別なものを彼女には与えられない。そういった類の人間でないことは重々承知している。でも、彼女には幸せになってもらいたい。

 だから僕は彼女に当たり前の景色をあげようと思う。だってプレゼントっていうのは相手のことを想像して買うものなんだろう? 何が答えかわからない以上はきっとそれが答えだ。

 僕は迷うことなく巨木の向こう側に見え隠れする花屋に入っていく。


 入店するやいなや、ついてきた杏奈から罵倒されるかと思いきや、彼女の言う【意外性】とやらに見事に的中したらしく偉く驚かれた。

 でもお互いに花のことなど知る由もなく、右往左往しているところに、タイミングよく店員さんがやってきてくれて花言葉や育て方なんかを丁寧に教えてくれた。その中で僕が選んだ花は白くこの世のものとは思えないほど繊細な形をした花だった。

 月下美人。カタカナ表記で売られていたけれど、脳内では勝手な妄想で漢字変換されていた。月に愛された色白美人なんて僕の口から到底言えない言葉だけど、この花の名前は瀬戸内さんに似合う気がした。

 その花を買うことに決めた僕がレジに並ぼうとすると、杏奈からはさすがに恥ずかしいからやめろと言われたけれど、僕の心は既に決まっていた。

 財布を開いて小銭を探す。これからどこかで食事でもして、それからすぐにでも渡しに行こう。枯れてしまってはせっかくの月下美人が台無しになる。もしかしたら要らないといわれてしまうかもしれないけれど、それでもいい。早く会いたい。本当は花なんかどうでもよくてそれだけなのかもしれないけど。

 そして少しでも笑ってくれたなら、僕は……。

 僕の幻想はスマホのバイブレーションによって現実に引き戻された。いつの間にか店内から姿を消した杏奈からの催促の連絡とばかり思っていた。そうであってほしかった。

 おばさんからの電話だった。とってすぐに僕の体から力が抜け落ちた。

「雪菜ちゃんと連絡とれてる? 本人には黙っとくように言われたんだけれど、長期入院らしいのよ……」かろうじてその内容だけは耳に入って、脳内で溶けた。

 僕のことを不思議そうに見つめる店員の手には月下美人が寂し気に揺れていた。


 移動している間はなるべくスマホを弄らないようにした。そのほうが現実を見なくて済むというよりも、余計な情報を頭に入れなくて済む。単調なリズムで繰り返し往復するワイパーを見ていたほうが現実に向き合わなくて済む。

 現実に向き合わなくて済むだなんて、まるでこれから本当に長期入院でもするみたいじゃないか。

 この相反する考えが頭の中で混沌としてしまい、結局病院に着くころに考えがまとまらず、本人にまず何を話すべきかなんて決まらなかった。

 どういう気持ちなんだろうか。もし、本当に長期入院なんて決まったら。僕に、何ができるのだろうか……。

「突っ立ってないで早く歩く! なんでこうもたもたするかな」

 考えを反芻してただけなのに、なぜか体はタクシーから降りてまともに動いてはくれなかったようで杏奈のせかす声でようやく今自分が病院にいることを理解する。

「長期入院って……本当?」

「知らないわよそんなこと?! とにかく、こういう時は急ぐべきでしょ」

「僕に……、彼女に何かできるのかな?」

「……花、渡すんでしょ?」

「こんな時に花なんて……」

「あんたが選んだんでしょ?! こんな時に私だってそんなこと知らないわよ! いい? あの子はもしかしたらこれっきりってこともあるのよ? 本人がどういう気持ちでいるのかなんてわからないのよ? こういう時に誰もそばにいてくれないなんて本当はあり得ないことなのよ?」

 電話口でおばさんは言っていた。瀬戸内さんの主治医は仕事の都合上病院にはいないと。論文の発表だか学会の説明だか、詳しいことは覚えていない。電子音性として流れてきたその音は、脳内の暗闇にすっと溶けてあっという間に消えてしまった。

「もう、いい。私だけでも行くから」

 うなだれている僕に、杏奈はそう言って自動ドアへと消えていった。


 杏奈の姿が遠くなることに気づきながらも僕は姿を追うことはできなかった。

 いずれ来るこの瞬間を僕は心のどこかで恐れていた。

 現実だなんて重苦しいだけの言葉、今は聞きたくない。

 白い花束を持ったまま、病院に入ることもできずに立ったままの僕は、さぞ滑稽ないで立ちだったろう。あと数分で面会時間が終わるんだろう。何人もの人たちが僕を見ては怪訝な表情を浮かべて、無慈悲な態度で去っていく。

 月下美人が揺れていた。瀬戸内さんに喜んでもらいたくて買った花。僕は、瀬戸内さんに日常の中にある幸せを感じてほしくて、押しつけがましいかもしれないけれどそれが幸せなんじゃないかって。

「面会時間、あと十分で終わりますけど?」

 正面を向いた僕に、はっとした表情の看護婦さんの姿が飛び込んできた。

 面会時間が……、終わる……?

 今日行かなかったら、明日会えるのだろうか……? 

 今渡さなかったら、いつか渡せる日が来るのだろうか?

 

 右足が勝手に一歩を踏み出していた。


「ちょっ……面会希望の方ですか?」

 

 僕の左足は惰性にも似た、けだる足取りで二歩目を踏み出した。


 腑抜けな足取りは、矢継ぎ早に動いてくれた。動くにつれて、力は増していき、そのままの勢いで病室へと駆けていく。

 何度か院内を走らないように注意を受け、何度か転びかけ、何度か角を曲がり切れずに躓いた。

 心臓は破裂するほどに脈打ち、全身を伝う血は熱く、息は絶え絶えでも、僕は走ることはやめなかった。

 今歩いてしまったら、二度と立てなくなる気がして……。

 今止まってしまったら、二度と誰かを……。

「……今日、満月らしいよ」

 見えるはずもない曇り空を彼女は病室の窓を開けて放ち、仰いでいた。

 先に来たはずの杏奈の姿はなく、群青色に染められた薄暗い個室は蛍光灯もついてはいない。

「杏奈ね、私が長期入院するって話をしたら血相変えてどこかへ行っちゃった。……仕方ないよ。いずれはこうなる運命だったんだし、まぁ、死ぬわけじゃないんだからさ。もっと冷静になってほしいよね」

「……。花……買ってきた……」

 ようやく振り絞ってでた言葉なのに、彼女には届かないのか、ずっと窓に腰かけた姿勢で曇天の空を眺めている。どこまでも続く黒龍の吐き出す煙のような空に、瀬戸内さんの探す光はない。

 永遠にも感じる無音をかき消したくて、僕は言葉を探す間に、月下美人の花がわずかに散った。

 時間なんて、無情なんだ。誰にでも同じ時間は流れているけれど、意味合いなんてそれぞれ違う。今こうして僕が悩んでいる間にも、瀬戸内さんの時間は消えていく。

「怖くないの?」

「……そんなもので私が満足するとでも思った?」

 僕の言葉を最後まで聞こうとはせずに、瀬戸内さんは口火を切った。

「プレゼントのつもり? 冗談でしょ?! これから長期入院になるかもしれないもんね? 少しでも慰みになればいいなんて安い同情で買ってきたんでしょ? またこんな檻見たいな場所で味気もない病院食食べて、興味もない他人の病状を聞かされて、色味もない服着て、単調な生活を送れっていうの?」

 いつになく言葉をぶつけてくる彼女に、僕は何も返すことが出来ずにたたずむしかなかった。

「ようやくだよ? 何年も何年も同じような天井見て、何か月も耐えてきて、ようやく学校にだって通えるようになったんだよ? 私だって……私だって……」

「……怖いの……? だから、ずっと練習してきたの?」

 何も答えてはくれない瀬戸内さんの頬に、光る雫が一筋流れるのに気づき、その光の源が月の光だということにはっとした。

 以前瀬戸内さんは言っていた。ちゃんと練習さえすればすべてはうまくいく。心配いらないと。

「……私を今すぐ健康な体にしなさい」

「無理だよ……」

「……、花。見せてよ」

 月明かりの月下美人は淡く光を放つように、幻想的な姿を僕と瀬戸内さんに見せてくれた。太陽の光では到底表現できない、青白い優しい光。

「月下美人っていうんだって」

「……私みたいって?」

「ばれた?」

「こんなタイミングで花だなんて、どうかしてる……」

 何とか隣に立っては見たけれど、僕には瀬戸内さんを直視することがいまだにできないでいる。ぶっきらぼうに花をそちらに突き出して、僕も月を眺めていた。

「普通、誰かに何かを渡す時って、相手のことを見ると思うよ」

 その言葉に瀬戸内さんを見やると、目をはらして泣いていた。

「……そんな花なんていらない。……私、葉月君と生きたい、もっと、もっと……。死にたくない。葉月君との明日が欲しいよぉ」

 あっけにとられて抱き付かれたのに気が付いたのは、僕の肩に冷たいものが流れてくる時だった。

 ちぎれるほどに、心が痛む。今までに体感したことのない感情の塊が、体全体で大きく渦を巻いていた。

「……幸せについて考えてきた。君はもしかしたらまた本の話かって思うかもしれないけれど」

 花の匂いに導かれてやってきたアゲハ蝶が、ふわりと月下美人に舞い降りた。

「青い鳥を今まで二人で探してきたんだ。人間、生きて行く上でどうしても幸せになりたいんだ。それが当然だと思う。でも、残念だけど幸せっていうのは不幸の中にしかないんだ。それも反比例するみたいに大きな不幸の中に少しだけの幸せしかない。だから、きっと瀬戸内さんの未来は明るい。だってこんなにも今苦しいんだから。……だから受け取ってほしい。今はこれくらいの幸せしかあげられないけれど」

 瀬戸内さんに月下美人の花言葉を教えてあげることはしなかった。

 それは僕にとっての、とてもリスクのあるセリフで、とても本人には言えないから。

 

 あの日の僕よ、君は知っているかい?

 誰かを思う気持ちがこんなにも暖かく、こんなにも痛むことを……。

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