第3話 出会いと桜と自由な死と

 東家の朝は苦手だ。毎朝きっちりした時間に朝食が出る。その匂いで毎朝起きてしまう。 

 この日も僕は、例外なく出された朝食に手を付けずに、水道水でサプリメントを飲み下した。東家に引き取られてからと言うもの、家族の目を気にしながら自らの栄養素をとる目的としてそうしてきた。そうしないと僕は栄養を取れない。

 実際、朝食どころか夕飯でさえ、僕は断っている。その方が家事に対するストレスも減ることだろうし、経費もわずかだけれど削減される。

 でも困ったことに、僕を試すかのように毎回目の前にはこうして目玉焼きと味噌汁と真っ白いご飯が出てくる。たまにうっかりおなかが鳴ると、箸を付けるのではないかとおばさんに凝視される。

 今日も席に着くなり、僕の体は僕に対して反抗的だった。

「ご飯、食べれる?」

 おばさんは僕に気を使ってくれている。

 僕だって冷酷な人間になりたくはない。

 でも。

「大丈夫です。朝は抜いているので」

 毎度この瞬間は気が重い。

「そう」おばさんは明らかに傷ついた表情でうつむいてしまった。

「あんた、そう言いながらこの家に来て何回食事が出たと思ってんの? いい加減その気色悪い薬止めてご飯食べなよ」

「まま、連君にもそういう時があるんだよきっと。あまり無理しないで、食べたくなったらいつでも食べて良いからね」

 幼なじみの杏奈とおじさんがいつもの流れで似たようなことを言う。仕方のないことだ。

「変な病気にならないだけ良いじゃないか。杏奈、テレビを見てごらん。海外では貧しい国の人たちが日々難病と戦っている」

 世界には僕たちよりも遙かに不幸せな人たちがいる。世界には必ず犠牲がついて回る。彼らは僕たちの変わりに犠牲になってくれているのだから、もっと彼らに感謝をして欲しがらなくてはならない。か。

 おじさんの話は長い。この話が始まると杏奈は早々に撤退する。この日も、杏奈はおじさんが見るようにと話をした朝のテレビ番組を見ることなく、朝食を終えて、学校へと向かった。

 僕たちは同居する長作なじみではあるけれど、

二人そろって登下校することはほとんどない。

 横目で見ていたテレビの音声をBGMに、僕も学校へと向かう準備をした。

 階下から玄関が開閉する音が聞こえた。おそらく杏奈だ。間もなく僕も家を出ないと不味いことになる。


 僕が今日から通う高校の通学路。

 港町とは聞いていたけれど、漁港からずいぶん離れた場所に立つ市立の高校には海猫の鳴き声どころか、春にはどこからともなく黄色い花粉が舞い込んではアスファルトを覆うらしい。だから、きっと海辺で男女で仲良く海辺で遊ぶような青臭い習慣もないのだろう。ま、そんなこと考えても僕には関係ないんだけどね。

 僕には欲望なんて存在しないんだから。

 似たような制服を着た僕と同じ背格好の人たちが、同じ目的を持って同じ方角へと歩いていく。

 牧歌的な風景で、まるで今から遠足にでも行くかのようなはしゃぎぶりに、僕は心底あきれていた。

 別にその光景に見とれていたわけではない。強いて言うなら、少なからずとも初登校に緊張していたのかもしれない。

 いつのまにか、僕の隣に誰かが併走するように歩いていた。

「なーにぼさっと歩いてんだよ。うちのクラスに天使はいないぞぉ」

 その返答に少し間を空けてしまったのは、初対面であるはずの僕に急に話しかけてくる人間がいたことに対する驚きと、彼の顔を見た瞬間、彼も同様に驚きの表情を浮かべていたからだ。

「あ……れ……? 人違い……?」

「みたいですね」

 こう言うときはどういう表情をするのが望ましいのだろうか。そんなことを考えても、きっと僕はまた無表情に笑ってしまっているんだろうけど。

「でも、天使だなんて死に神みたいな存在を信じているんですか」

「天使が、死に神?」

「目には見えない。死んだ人のところに現れる。死に神みたいなものじゃないですか」

「……おもしろい話だな。お前、一年か」

「はい。今日からこの学校にお世話になることになりました」

「そうか、同じクラスだと良いな」

 進行方向前方のそのまた先の人垣で青沼と叫ぶ声がして、「じゃ、またな」と彼は走って行ってしまった。

 

 その様子を友達数人とみていた杏奈と目があったけれど、向こうはその瞬間に目をそれしてしまった。どうやら僕はこの人間関係にも神経をすり減らすことになりそうで、少しだけ面倒な気分になった。

 こんなに空は青いのに、どうして僕の生活は面倒事が多いんだろう。

 そんなことに耽っていると、いつの間にか校門をくぐっていた。

 

 あたりの音は不思議と聞こえはしなかった。

 視界は、僕の隣の無防備な彼女に注がれた。

 この瞬間、僕の世界はふっと息を潜めた。

 舞い落ちる桜の花びらを背景に、隣の席の瀬戸内雪菜は幸せそうな寝顔で机に突っ伏ししていた。

 窓から吹く花の匂いを含んだ風さえ、彼女の眠りの妨げにならない。

 ぱらぱらと彼女の大学ノートだけがめくれていた。

「……天使だ……」つい、小さくつぶやいてしまう。

 意識の外では黒板にチョークが走る音と、それを補足する現文の先生の声がしていた気がする。

「先生、また……。また雪菜がぁぁぁ……!」

 そのうなだれるように泣き崩れる声に、僕は現実に押し戻された。

 その声で緊張の波が波紋のように広がり、5分も立たないうちに瀬戸内雪菜は病院へ搬送された。

 僕は深く安堵した。僕がひた隠しにしている僕の心に潜む薄汚い感情を露見しなかったことに。僕はまだ、無欲で潔癖な人間でいれている。


 真皮性白濁症。この名前を僕は二度聞くことになった。一度目は朝。おじさんに促されて横目で流してしまったテレビで。二度目は今、瀬戸内雪菜が市内の病院に緊急搬送されてから。

 先天性の病で、具体的な治療方法はまだ確立されていない。初期症状としてあげられるのが眠気と体に生じる白い斑点。これが年齢を重ねると重傷化していく。

 そして最期には二度と起きることのない深い眠りへと落ちてしまう。

 通称白雪姫症候群。初めてこの病気を発見した医師が、いずれ深い眠りにつく自らの子供を不憫に思いこの名前を付けたらしく、その界隈ではこの名前で通るようだ。

 テレビでしか聞かないような難病の存在を肌で感じてしまった教室は、張りつめた空気と不穏に刈られ、口々に何かを喚いている。ざわめきが連鎖的に広がって、やがて小さな騒音の合唱になった瞬間で、担任が二度手を叩いた。

「はいはい、騒がない。騒いだところでなにも変わらない。ひとまず、瀬戸内さんは病院に行ったから」

「これから雪菜はどうなるんですか?」

 僕の真後ろから杏奈が言う。その声は先ほどの泣き崩れた声はすっかり落ちついて、冷静を装っている。

「さっき病院から連絡が入って、しばらくは検査のために入院みたい。落ちついたらまた戻ってくるから大丈夫。ただ、その間の授業に遅れがあるといけないから、誰かにプリントを渡してきて欲しいの」

 誰か。と良いながら視線は自然と僕に注がれる。知らない間にクラス委員とやらになっていた。

 これは単に、クラスの連中が面倒事は極力そのタイミングでいない奴に押しつけてしまおうという邪念による現象だってことは冷たい空気を察すれば分かる。僕は母さんの四十九日で休んでいる間に、人身御供にされた。

「杏奈さんなら病院分かるはずだから、ホームルームが終わったらよろしくね」

 好奇の視線が背後から、いや、クラスの男子から注がれる。

 なにをどうしたらそんなにうらやましく思うのか、僕にはさっぱり分からないし、めんどくさいだけなのに。

 僕はその日何度目かのため息をついた。


「ちょっと待ってって」

 市立病院を目前に、別に杏奈を待つ必要はない。

「もしかして怒ってる? 勝手にクラス委員にしたこと」

「別に」

「じゃあどうしてそんなに怒ってるの?」

 僕はその質問には答えなかった。

「……もしかして、まだおばさんのこと気にしているの……?」

 病院までの坂道は軽く息が切れるほど急だけど、アーチが組まれているかのごとく誇張して咲く歩道に植えられた桜は、入院している患者たちに対してのせめてもの慰めに見えなくもない。

 僕はその日も何度目かのため息をついた。

「別に……」

 桜の花びらの絨毯を蹴散らして、病院までの道のりを闊歩した。


 さくっと挨拶をすませてプリントを渡したら、そのまま帰る。そう言えば、市立図書館から借りていた数冊の小説の返却期間が迫っていたから返さないと。

 なんて牧歌的で、楽観的な考えを持っていた。

 僕が欲しいと願う物なんて、手には入りっこないのは分かり切っているはずなのに、僕は期待をしてしまった。

 平穏に、早急にお見舞いなんて終わるだろうと。

 その僕の理想的な幻想を打ち砕いてくれたのは、瀬戸内雪菜の名前を聞くなり、とても嫌そうな顔をした看護婦だった。

 前に一度来たことがあるなんて杏奈は言ってたけれど、その病室には瀬戸内雪菜なんて名前はなくて、仕方なく素直にナースステーションに訪れていた。

「あぁ、瀬戸内さん? 部屋が変わって、三階になります。エレベーター上ってすぐだから」

 夜勤が続いているのか、嫌そうというより、疲労と倦怠感がにじみ出ている顔だった。

 僕と杏奈は礼を言い、その場から離れようと踵を返した。

「君たち、瀬戸内さんのクラスメイトか何か?」

 声の主はさっきの疲れ切った看護婦で、僕たちはその声に釘を打たれたように止まり、振り返る。

「伝えておいて欲しいんだけど、これ以上私たちをからかうのは止めてくださいって。私たちもあなたの悪い冗談につきあうほど暇じゃないって」看護婦はそう言うと手のひらをひらひらとさせて、僕と杏奈を追い出すような仕草をした。

 一瞬だけ間があいたと思う。

 次の瞬間、僕の体は真後ろに力強く引かれて、そのまま散歩の終了を嫌う犬のように引きずられる形で、向かいのエレベーターまで向かった。

 どう言うことか、事態は逼迫しているらしい。

「雪菜、マズいかも」

 意味が分からずきょとんとしている僕に、目の前の杏奈は髪をかきむしって深いため息をついた。

「まぁ、分からないか……。学校だって今日からだもんね」

「いったい何の話?」

 間もなくエレベーターは二階に着くようだ。

「雪菜はねぇ……」

 ドアが開いて、年輩の女性が乗ってきた。多分誰かのお見舞いだろう。手には大きな鞄がある。

 その年輩の女性を気遣ってか、杏奈は視線を逸らして一言。

「ひとまず全力で雪菜を探すの。いい?」

 承諾以外の選択肢がないパターンの脅迫めいた質問に、僕は少しながら嫌悪感を感じた。何だって僕がそんなことをしないといけないのか。よく分からないけれど、早いところ切り上げて家に帰って小説でも読みたかった。

 三階へ着くや否や、年配の女性をすり抜けて、廊下を早歩きで移動する。ここは新しくできた病院なんだろう。窓からは健康的な日光の光がどこまでも続いいていた。

 本当にエレベーターを降りてすぐだった。目の前の部屋がそれらしく、入室者を表示するタグに瀬戸内雪菜と書かれていた。

 躊躇なく扉を開ける杏奈を僕は背後から見ていた。杏奈をというより、その先の光景を。僕はこの年頃の女の子に弱い。正直どう扱えばいいのか、分からない。

 部屋の中は、五月の風が流れていて、かすかに花の匂いがした。

 開け放たれた窓からカーテンが揺れている以外は、動く物体はなく、もぬけの殻という言葉に相応しいくらい人気がなかった。

 僕らはそれでも部屋の中に入っていって、ベッドに丁寧に畳まれた部屋着に互いに目をむいた。

「私は、一階から探してくるからあんたは三階よろしく」はじけるように出ていくあんなを僕は目で追った。

「ぼさっとしない! さっさと動く!」

 怒鳴られて僕はようやくことの重大さに気づく。行動に移したのはそのさらに数秒遅れてからなのだけど。

 よくある話かどうか。こういう行動をする病人というのは何かと面倒ごとを起こす傾向がある。これは僕の経験上の話ではない。唯一僕が自らの業を許している小説に書かれていたことだ。僕はその世界に住んでいて、それ以外の話に興味はない。

 一応、病室は出ていく。探すふりくらいはしないと怒鳴られかねないからね。そっと、ゆっくり引き戸の扉を閉める。別に怪しいものではないれど、なんだかそうしないと僕が他人に心配しているみたいで内臓を持ち上げられるみたいに居心地が悪かった。

 正面には先ほど杏奈が乗って降りて行ったであろうエレベーターが。その右手にはオレンジ色の光が差し込む窓があって、向こうではこの病院の患者と思われるおじさんが数人たむろしている。

 やけにきれいな夕日だった。まるで油絵で塗りたくった名画みたいに僕には見えた。

 思うより先に、そこに通じるドアを探し、ほどなくして僕はそれを発見する。

 ドアを開けると一気に季節の空気に包まれた。花の匂い、湿った風。僕の通う高校よりは幾分か町にあるにも関わらず、喧騒から離れたその雰囲気が息を吸う度に身に染みる。

 僕がもう少し大人ならたばこの一本くらいは吸っているかもしれない。

 日本という国がもう少し医療が発達する前、結核患者は皆、人里離れた高台に作られた施設に搬送されたそうだ。自然の空気が肺にはいいと、単純な考えからだろうけれど、目の前に広がる光景は何か医学を超えた療法を感じずにはいられなかった。

 病院という重苦しいはずの場所にこんなところがあるなんて。

 さっきはおじさんたちしか見受けられなかったけれど、そのほかにもちらほらともうけられたベンチに座って談笑をしている患者さん。治療を受けに来ているとは思えないほどにのびのびしている。

 勤務している看護師に対する与太話に花を咲かせるおじさんたちを横目に、僕は吸い込まれるようにその先のフェンスに向かう。僕が生きるこの世界と、母さんがいる向こうの世界。断崖とどこまでも続く平地を隔てるフェンスはその世界の境目にも思えて、触れずにはいられなかった。

 軽い金属音が耳に触った。どうやら僕が思っていた以上にこの境目は脆くて、少し力を加えただけでも壊れてしまうらしい。

 なんて、少し感傷に浸っていた瞬間、僕から見て右手のシーツの群れが風にめくれて、下からわずかに足のようなものが見えた。

 本来の任務を思い出してしまった僕は、少し面倒な気持ちになりながらもシーツを捲ってその足の持ち主の近くまで行くことにした。

 数枚のシーツの旗をくぐってようやく、彼女を目の前にとらえて僕は目を丸くした。

「何、やってるの?」

 普段僕は声のトーンを落としている。そのせいか僕の声はフェンスの向こう側に立つ彼女には届かなかったらしい。

 華奢で線の細い体の彼女は、風に黒髪をなびかせていた。

「何やってるの?」

「誰?」

 ようやくとどいた僕の声に彼女は振り向かなかった。

「君、瀬戸内さんでしょ? 隣の席の……」

「あぁ、転校生君か。何の用?」

「そう。宿題がでたんだ」

 西日は彼女の向こう側で輝いていて、彼女の輪郭は淡く光を帯びていた。涙に見える顔の滴も、風に流れる柔らかな髪も。余命いくばくもないという事実がそうさせているのかもしれないけれど、僕には彼女が少し鮮麗に見えてしまった。

「どうせ」

 風が一段と強く吹いて、僕の耳をふさいだせいで、彼女がそう言った気がした。

「誰かに頼まれたんでしょ?」

「僕の意思で来た。頼まれたわけじゃないよ」

 死にぞこないの彼女に、僕はせめてものやさしさで嘘をついた。まぁ、話を円滑に進めるための口上ってやつで仕方なく。

「とりあえず、そんなところにいたら看護婦さんに怒られるからこっちに来なよ」

 一歩踏みよって、フェンスを掴んだ。例の音が脳内に響いた。

「看護婦なんてみんな仕事でやってる。別に誰にも私は必要とされてない。」

 僕は、言葉に詰まった。

 今までの人生も、僕が知る限り代用ばかりだった。もちろん僕だって誰かの何かの代用品かもしれない。誰しも必ず誰かの人生において必要な人間とは限らない。その考えが頭に住み着いて離れなかった。

「ほら、やっぱりそう」

「いいから、早くしないと僕まで怒られるから」

「こういう時に自分のことを考えるなんて、最低だね。ほんと、私の最期をみとるのが君みたいなろくでもない人間とはね」

 話ながら死へのふちを歩く彼女は、自由だった。まるで今から死ぬというのにそれを恐れていないかのように。

 見とれていた。なんて認めたくはないけれど、僕の体はそこからなぜか動けなかった。


「何やってんの!!」


 罵声とも怒声とも取れない声と同時に僕の両脇から襲うように数人の看護婦がフェンスに突撃していった。

「さよなら」

 僕の視界から彼女が倒れこむように消えていく……。


 かくして僕は自殺を止めることはできなかったはずだった。

 いくら弁明してもこの事実には疑いようがない。

 予想外だったのは、とうの彼女に死ぬ気はなく、フェンスに体を紐で固定していたこと。

 だからこうして日没してもなお、杏奈にこっぴどく怒られてしまっている。

「なんていうか、意思が弱いっていうか……。なんで私が看護婦に怒られなきゃならないのよ」

「そんなことは本人に言ってよ」

「ていうか、なんでこんな時にも笑っているの?!」

「仕方ないでしょ……癖なんだから」

 当の本人は、自らが計画して実行した趣味の悪い悪戯が成功したことに喜んでいるのか、僕が怒られている姿がそんなに面白いのか、一人でベッドで笑い転げいていた。

 これがさっきまで自殺をしようとしていた人間か……?

「雪菜も! みんな心配してるんだからね! 金輪際こんなことしないで」

「大丈夫大丈夫、ただの練習だから。死ぬ気はないって」

「本当に死んじゃったらどうするの?!」

 さんざん怒鳴り散らした杏奈は、なんだか途方に暮れた浮遊者みたいに頭を抱えて「とりあえず無事で何より……、あんたら何か飲み物飲む?」と提案してきた。四月にしては気温が高いように感じた。僕も咽喉は乾いていたんだけどつい、「別に」と断ってしまった。

「はいはい、ミネラルウォーターね。雪菜は? 午後ティーだっけ?」と杏奈は瀬戸内さんに承諾を得ないまま財布を確認すると、そそくさと病室を出て行ってしまった。

「なんてことしてくれたんだ」

 迷惑だなんてとんでもない。とは思いつつ、つい悪態が出てしまった。だってそうだろ? 僕は別に見殺しにはしてないのに、見殺しにしたみたいな空気になってしまった。

「何の話? 君が私を殺した話?」

 どうやら彼女は僕にとっては面倒な人間らしい。そして、僕をどうにかしようと企んでいるらしい。いたずらに微笑む表情からありありと読み取れる。

「別に殺してなんかいないだろう。そうやって現に生きている」

「そう見える? こう見えて入院歴が長くてさ、またそれが続くと思うとつくづく生きた心地はしないよ。だからさ、手伝ってよ」

「何を?」

「死ぬ練習」

 以前緩い表情を崩さない彼女を見て、ばかげた話をと僕は取り合うつもりはなかった。そろそろ杏奈が近くの売店から何かを買ってくるころだろうけれど、プリントを渡した今、僕にはこの病院にようはない。

 鞄を掴んで病室を出ようと鞄を探した。

「しかしさぁ、この鞄何年使ってるの? 穴まで開いてるよ?」

「返してもらえるかな? その鞄はまだ使えるし、大切なものなんだ」

 通学に使うための鞄は学校指定がなくて、今まで使っていたものを流用していた。目立たない色をしていて、少々穴が開いても穴の先の暗闇と、鞄の色が同化してわかりにくい。

「誰かにもらったとか何か思い出でも?」

「別に、ただまだ使えるから使うだけだよ」

「だったら買いなおそうよ。欲しくないの? あ、センスないとか? 私が選んであげようか?」

 欲しい? 冗談じゃない。

「要らない」

 そんなつもりはない。でも、無意識に語気が強く出てしまったらしく、不穏な表情に顔を曇らせる彼女に僕はひとこと詫びた。

 一呼吸ほど、沈黙が下りた。その間に僕の頭は静かに流れるように、ある事柄について逡巡していた。

 僕のことについて話すべきか、否か。

 話したところで、何か僕にとって利点があるのか。いや、そもそも話さなかったところで、何かまずいことでもあるのか。

 その考えがちょうど脳内を三周巡った時点で、僕は彼女についさっき謝ってしまったことを思い出して「僕には」と口火を切ることにした。

「欲がない。欲しがったところで、手に入ることは少ないからね。望んだ現実が結末になることは僕にはないよ」

「あきらめてるんだ。自分を」

「悟りの境地って言ってもらっていい?」

 瞬時に三つのことが同時に起きた。

 まず、ドアが開いて杏奈が入室してきた。そう思うのと同時に「ごめーん雪菜、午後ティーなかっ」という声がして僕は豪快にミネラルウォーターを頭からかぶることになった。

 言った通りだろう? 僕の望んだ結末にはならないんだよ。この世界は。


「あっはっはっは、何それ。本当に不運な人。面白い、面白すぎぃぃ……」


 笑いながら息が萎んでいったようで、ベッドに座っていた瀬戸内雪菜は、おなかを抱えたまま身をよじって笑っている。そしてそのままベッドに顔を沈めた。

 あっけにとられる僕と、バツの悪そうに僕を見る杏奈。そしてひとしきり笑い終えた瀬戸内雪菜は結構なわがままを僕に言ってきた。

「来週に退院するから、その次の週に駅に集合ね。私を殺そうとしたんだからそれぐらいの責任はとってね、それと、服装どうにかしてきて。いや、私が選んであげるよ。時間は十時」

タイミングを計ったように、通りかかった看護婦が面会時間の終了を告げてきた。どこかめんどくさそうな物言いに、半ば強制的に病室を後にすることになってしまった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る