-3- エル=フィレスト

 月に、見られているようだ。

 そう思うたが最後、白く映るそれに妙な目鼻を当て嵌めてしまい、眠気すらも遠ざかる。目鼻だけでは無い。果てには様々な情景が浮かんでは消えゆく。


 何処とも分からぬ空間へ話し掛ける青年。

 大男が背中を丸めて目元を覆う姿。

 微睡む中で響く少女の声。


 ……そう言えば、一連の騒動で有耶無耶うやむやになってしまったが、あの男がこの地で思い悩む程の話は結局聞けず仕舞いか。


 丸いそれとの睨み合いに、いい加減煩わしさを感じた頃、ベッドから抜け、僅か明かりの漏れる窓辺へと立つ。音を立てぬよう窓を開き、もう一方のベッドに動きが無い事を確認すると、身を乗り出して辺りを見渡した。


 好機な程に誰も居ない。頭上に足場となりそうな張り出しを認めると、窓枠に足を掛け、三階へと跳ぶ。客が居るのかは定かではないが、見つかる前に再び勢いを付け、更に屋上へ。屋根を予想していたのだが、そこに見知った形の物は無く、ただ白い板石が広がっているだけであった。


「何と殺風景な」


 呟き漏れるものの、思えばそうであって然る可き場。段差すら無い縁に腰を下ろし、闇の降り切らぬ町並みを眺める。木材が希少故か、はたまた地盤との相性が悪いのか、建物の多くは砂岩であろう。……箱のような形ばかりで、屋根のあるものを探す方が難しかった。


 獣への対策なのか、火の数が異様に多い。少し離れた市場付近には相変わらず多くのヒト。更に遠くを見遣れば、月明かり煌めく海原と、陸側は恐らく一面の砂。


 点々と灯りのような物も確認出来るが、誰かが火でも使っているのであろうか。


 ふと頭上を見ると、無数の星が夜空に映えていた。心奪われるような美しさに、知らず息が漏れる。吸い込まれるのではと錯覚する程であった。


 ……星空なら、船上でも見たな。

 周囲に一切の光が届かぬあちらの方が、数多の星を捉えていたはずだが、あの時は美しさに興ずる余裕も無かった。


 そう、……そうだ。先程、彼らの部屋から戻る際に過った。ともすれば、妙なその技を認めた瞬間から思うていた事であろう。


「私には、誰が」


 それを、あの青碧の目へ問う勇気は無かった。常のアレから考えれば、紛れも無くリリスが居る。……では、他には? もはや帰還許されぬダルシュアンには、人伝に聞くより他無い死が存在している。未だ信じられなかった。


 広間で大臣らと国の未来を語り合う凛々しき王。

 冷たい地下で、優しい笑みを浮かべて弦を爪弾く王妃。

 聴こえるはずの無い美しい音色に想い馳せ、木陰で眠る王女。

 その身を案じ、要らぬ世話を焼く心配性の従者。


 本当は……本当は、城には変わらず皆が居て、戻れば何事も無く過ごしているのではという思いが捨て切れずにいる。悲運から逃れようとする心が、少なからず在る。弱さはもはや仕方あるまい。完全に消す事など、恐らくは叶わぬ。


 だが、背けたまま終わらせられぬ現もある。かつて少女の言葉でその生を確信し、今また同じ口でそれを否定された。思えば、信頼に値する存在かどうかも疑わしい。望むもののみを信じ、沿わぬ言葉は聞き入れぬなど都合が良過ぎる。……分かっている。もう、己が目で確認する他無い。


 生きておられるなら、その姿を目にする事もいつかは叶うであろう。けれど、そうでなければ? 死を見るすべがカノンにあると言うのなら、これほど容易い事は無い。


「認めねばならぬのか……」


 三年前に、幾度も繰り返したはずであった。それを、今再び為せというのか。年月が関係するのかは知り得ぬが、傍に居られる確証も無い。そしてもし、キッドと同じくその存在を認めてしまえば。恐らくその時点で、姉上を目的とした旅は終わりを迎える。


 ……。

 話せるなら、何と言葉を掛けられるであろうか。始終笑んでいたらしい祖母のような救いを望む自身が浅ましい。

 しかし、そうでなければ……恐らく私は、今後の旅を続ける事が出来なくなってしまう。


「……っくしゅん!」


 息をつくのと同時に、鼻の奥に痒みが走る。二、三連続した後、覆面すら被らずに出てきた事に気付いた。

 そろそろ戻るかと腰を上げるべく、板石の縁に手を掛ける。すると、下方で何かが動いたように見えた。咄嗟に手の甲で口元を覆い、地から見えぬよう徐々に身を引いていく。


 ……気が緩み過ぎていたか。


 ヒトであったのかも確認せぬまま、完全に視界から外れたであろう位置まで下がる。そのまま、再び腰を下ろして時が過ぎるのを待った。


 寝間着に加え、夜間はさすがに冷える。氷の地の比では無いにしろ、昼間の暑さが異常なだけに、より一層寒気を感じる気がした。






 ――バシャン!


「やっ! なん、……いっ!……た」


 突然の衝撃により、ベッドから転げ落ちる。

 視界に飛び込むは朝焼けに色付く室内。目を白黒させながら見渡すと、そこら中が水浸しになっていた。


「は? 雨?」


 状況が今一つ掴めず、横手のベッドを支えに立ち上がる。そのベッドも、果てには己自身も、いつの間にか不快を感じる程に濡れそぼっていた。


「ウォートスプラッシュ!」

「!」


 突如、脇から響いた声と同時に屈む。反射的にベッドを盾にしたが、放たれた何かは恐らく、今し方立っていた場所より先の窓に命中し……


 ――バシャン!


 真下の私を、再び水濡れにした。


「……セシリアか」


 石造りの床が、水溜りを作っている。木造ならば階下にも被害が及んでいそうな程。姿は確認せぬままだが、声の主は明らかだ。そう言えば、就寝前に術封じの実を食している所を見ていない。

 溜息と同時に、髪からは多量の雫が滴り落ちていた。


「おい、起きろ」


 顔を覗かせそちらを見れば、術の詠唱と共に手元が揺らめいている。慌ててベッドを飛び越え、両の手を掴み、その名を呼ぶ……と。思わず息を呑む程に、不気味な笑みが浮かんでいた。


「うふふふふ、逃げなくていいのかなぁ?」

「……」


 露骨に表情を歪めたままその手を引き、身を起こさせる。しかし目を覚ます様子も無く、だらりとしつつ再び術を唱え出していた。


 鞄から実を探し出し、口に放り込めば良いか。今摂取したとて、効果が如何程続くかは知り得ぬが。思案する目前で、掴んでいる手が術に沿おうと蠢く。耳を掠める音の一部にだけは聞き覚えがあった。これを放たれれば恐らく、此奴の覚醒かキッドの起床を待たねば、身動き取れぬ有様となる。……水浸しの室内でそれは御免だ。


「セシリア! 頼むから起きろ!」


 これ以上無い程に声を張り上げてはみるが、その顔には相変わらず奇妙な笑みが張り付いている。


「なるほどぉ、そういう戦法もアリよねぇ」


 何の戦法かは図れぬが、楽し気な夢を見ている事は容易に想像出来た。氷漬けよりはと思うたが、唱える術が単一で無いのはもはや悪化と言える。


 時間にはまだ早いが、致し方あるまい。


「悪く思うな」


 言うが早いかその首元へと唇を滑り込ませ、とどこおりなく形と成っていた牙にて一思いに噛み付く。

 自身の濡れた髪か衣服かが彼女に触れたようで、べちゃりと不快な音を立てていた。


「ぎゃあ! 何それ反則! いったいいたいつめたいいたい!」


 じわりと滲む熱を吸い上げ、数秒の間を置いて離れる。願うた結果のはずだが、気付けば舌打ちが漏れていた。


「起きたか」

「え、なにっ? なんなの? 何してるの?」


 まるで、先程の私のように狼狽えては身を引いていく。

 周囲を見回し、何これと呆気に取られていた。


「こちらの台詞だ。口を腫らすという実はどうした」

「あ。……え、でも、水? 飛沫しぶきの術? うわ、おねーさまもびっちゃびちゃ」


「止めに入ったが、束縛の術まで唱えておったぞ」


 ベッドから退き、濡れた髪を絞り上げる。次いで、張り付く衣服を脱ぎ、椅子に掛けていた手拭いで――


「これも濡れておるのか」

「ご、ごめん。自分の周り以外、全部やっちゃう勢いは変わらなかったみたいね……」


 仕方無く手拭いも絞り、体を拭いていく。


「あー、おねーさま、これ貸すから下着も脱いじゃって」


 と、自身のベッドへと手招き、掛布を寄越してくる。

 とりあえずは従い、水滴を全て拭き取ってそれを纏った。


「晒すのも恐れ多いもの、二回も見ちゃった」


 そう苦笑し、術を唱え始める。一瞬身構えてしまったが、寝惚けている訳では無いと気付き、こちらも妙な笑みを浮かべる。濡れていない彼女側のベッドへと腰掛け、事の成り行きを見守った。


「エル・ヴィート」


 聞き覚えは……あっただろうか。考えていると、突如発火のような音と共に頭一つ分程の火炎球が現れる。熱源と成り得たそれはすぐに霧散し、赤を纏う小人だけが残る。


「フィレストちゃん、待ってね」


 見るからに炎の化身であるかのような少女に、緩い命令が下る。以前に見た水の精と同じくして、こちらも獅子の脚のような動物的特徴が見受けられる。たてがみを思わせるその髪は、燃え上がるほむらのようでもあった。


「ギルヴァイス、おい、レイの名前入れんなよ。アイツが言ったか知らねぇけど、通じてるからってソレで何度も呼ばれちゃ吸い上げるモンがな……んっだこれは」


 中々にぞんざいな口をきいたそれは、心底呆れた顔付きで腕を組む。言われた当人は乾いた笑みを返し、再び術を唱え始めていた。


「ああ、お前」


 と、私の姿を認め、緩やかに赤い唇が歪む。


「食い殺されたんじゃなかったのか」


 水の精とやらにも以前文句を言われたように思えるが、彼女らは何か言うておかねば気が済まぬのであろうか。


「何だと?」


 だが今の発言は、キッドへの悪言とは訳が違う。


「面白ぇ。その身、生かされた先に何がある」

「ラグ・ヴィート!」


 考え巡らせていた所で、セシリアが声を張り上げる。

 燃えるような髪も消え失せてしまうのではと思う程の風が巻き起こり、堪らず目を細める。収まる頃にはいつの間に形を成したのか、翡翠色の小人が火精の背後に現れていた。


「リレストちゃん、ごめんね、また二人で乾かして欲しいの」


 此奴は……氷の地で見た事がある。キッドが鬼の身に仕掛け、失敗に終わった術だ。

 よく見れば、彼女も完全なヒト型では無い。衣服の膨らみと思うていた下半身は、どうやら鳥のもの。翼でも生えているのかと背を眺めるも見当たらず、腕がそうなっている訳でも無い。肩に落ちる髪が羽毛のようになっており、それらは耳から生えているように思えた。


「ギルヴァイス、レイのお気に入りだからと言って、これは無いんじゃないかしら」

「うん、自分でもびっくり」


 深く息を吐き、先の精と同じく腕を組む。手っ取り早く済ませましょうと火精を促し、自身も両の手を掲げていた。


「これっきりにしてくれよな」


 火精が弧を描いて巨大な炎を出現させると、それに沿わせる形で風精が旋風を巻き起こす。どういう原理なのかは知り得ぬが、物が吹き飛ぶ惨事には至らぬようであった。


 暫しの間を置いて、辺りはむせ返る程の熱気に包まれる。もやが見えるかという所で私とセシリアの周囲に風が巻き起こり、熱気が外側へと吸い込まれる。じゅうという音と共に、部屋中の水が蒸発し始めていた。


 熱気が収まる頃にはベッドに置いていたはずの衣服が風に舞い上げられ、膝元へと降ってくる。乾き具合を確認してみると、湿り気すら帯びていない。


「ごめんね。髪も乾かせれば良かったんだけど、人には使えないから」


 ようやっとベッドから離れ、自身の荷物袋を漁り始めるセシリア。身仕度の最中、思い出したように術を唱え、噛み痕残る自身の首元へと放っていた。


「火精よ。お前はあの場に居たのだな」


 役目を終えて一息ついている彼女に向かい、先程からの気掛かりを問う。


「そうさ。前線に立つのはいつも炎と決まってる。国だろうが村だろうが関係ねぇ」


 主語など一切を出さずとも、それは得意気に腕を組んだ。


「ならば、このまま何も言わずに消え失せろ」

「……ふーん」


 にやりと笑み、黙すどころか更に口を開く。揺らめく髪が強い色味を帯び、業火を思わせるようであった。


「相変わらず災難だなぁ、吸血族。白い精霊術師に褐色の魔道士。エルの力を全力で人へ向ける野郎は大抵ぶっ壊れてやがる」


「……」


「精々抗えよ。お前ら魔は呪いが根深い。そのクセ周りを大いに巻き込む。一度燃え出せば多くを焼き払う山火事みてぇにな。……あーあ、果てには誰が生き残」

「エル・リトゥン!」


 唐突に響いた声により、火精は再び火炎球に包まれる。そのまま収縮するように消え去ってしまった。


 見れば、苦い顔でセシリアが唇を噛み締めている。胸の前で櫛を握りしめ、俯いていた。


「本当に……ごめんなさい」


「エルったら、の人の事は悪く言わないで欲しいわね。町の者にとっては偶然居合わせた英雄よ」


 赤いのが黙れば、今度は緑が喋る。掻き上げられた深緑の髪の根元からは、肌触りの良さそうな羽毛が見えた。


「それに、逆じゃないかしら。エルが魅するから粗暴になるのよ。特に、彼れの火遊びは昔から」

「リレストちゃんも帰って」


「あら失礼。でも誤解しないで頂戴ね。それなりに長い時を過ごしてきたんですもの、皆あの一家の事は気に入ってたのよ」


 ……唐突に何の話であろうか。言う程の親しみは微塵も感じられぬ様で、翡翠色のそれは肩を竦める。


「彼れの性格の半分は身内、後は精霊のようなものじゃなくて? 口喧嘩の相手が顕著なようだけど」


 業を煮やし、低い声音で術を紡ぎ出すセシリア。それを制し、目を細めて風精を見守ってやる。


「エルは不器用なだけ。エルを愛するレイは、彼女が消されかけたから彼れが気に食わないだけ。総意としないで欲しいわね。……哀れみこそ有れど、誰も恨んでいない。思春期とやらの代償は大きかったけれど、幼少から培い、瞑想に重きを置く彼れの魔力はとても良い糧になる。技では無く、使いとして呼び出して欲しいものよ」


 こちらの返答など望んでおらぬのか、一方的に喋っては息を吐く。確かに、口数の多さはキッドに勝るとも劣らない。だが、長く共に居たという割には確執が過ぎる。


「彼れだの其れだのだるい。貴様ら精霊に情の概念があると言うのなら、何故祖母の行方を教えてやらなかった」


 見据えるこちらの視線は、しかし合わせられる事は無い。間が悪そうに沈黙したかと思えば、僅か首を振る。


「私達の誰もが、それを最善としなかっただけ」

「戯け。家族を救うより優先されるべき事などあってなるものか」


 ……。


「……例えそうだとして、それを決めるのはお前達では無い」


「そうね。私達は介入し過ぎたのかも知れない。そうでなければ、一家はただ人知れず消えていた。生存者あれども、心を壊していたでしょうね」


 その言葉に、緩慢な動きで再びベッドへと腰掛け、セシリアが小さく呟く。


「何よそれ」


「孤独を皆無とする今なら受け入れられるかしら。私の言葉をそのまま伝えても察するはずよ。……けれど、やはり過ぎた事は捨て置くべきだと思うの」


 静かに、風が巻き起こる。吐くだけ吐いて消えゆくつもりか。


「彼を想えばこそ、ね」


 薄く、空間に溶け込むようにしてそれは去る。後に残るは沈黙……と、程無くしてセシリアの深い溜息が静かに響いていた。


「何だかなぁ……」


 その手にはずっと、櫛と髪留め、手拭いが握られている。


「委ねられてるの? 釘刺されてるの? はっきりして欲しいなぁ」


 そう言い、僅かこちらへと視線を寄越す。


「んっと……精霊ちゃんってね、名前とか、関係性を表す名称を発する為には色々制約があるの。特徴言えるからそこまで分からなくは無いと思うけど……面倒だよね。ごめんね」


「お前が謝る事では無かろう」


「そうじゃなくても、色々。……うん、支度しよっか」


 両の手で膝を軽く叩き、立ち上がる。楽観的に切り替える声音であったが、寸前に見えた表情にそれは浮かんでいなかった。


「触れないほうがいいのかな……」


 洗面台に佇む後ろ姿が小さく溢す。言い終えてすぐに桶の水を掬い、顔へと打ち付けていた。


 その背を暫し眺め、肩を竦める。聞く程にあの男への対応が難しくなるな。心を壊すなど柄でも無い……と、以前なら思えたのだが。どうやら、図体に見合うだけの苦悩は抱え込んでいるらしい。


「さて、と」


 いい加減、服を着るか。気掛かりはこの濡れ髪だが、先程の風で多少の水気は切れた。後は日中の熱風に晒せばすぐにでも乾くであろう。残る支度はセシリアが洗面台から離れるのを待とうと、下着に足を通す。手元の寝巻きは荷物袋へ……気付けば眉間に皺を寄せながら、乱雑に突っ込んでいた。


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