-3- 赤い耳飾り

 ――「ほら、やるよ……じゃなくて、お、お受け取り下さい、ルーナさま」


 そう言って、レイドは赤いリボンの巻かれた白くて小さな箱を、どうぞとこちらへ伸ばしてくる。

 言葉を直してもぶっきら棒なその顔に、ごめんなさいと思いながら笑ってしまった。


「変ね、あなたからはさっきお花をもらったはずよ」


「ばぁか! 誕生日に花だけなんて嬉しくないだあーあー! すーみーまーせーん! じゃなくて申し訳」

「いいの、いつも通りにして。今はお母様のお叱りを受ける事も無いでしょう?」


 あの顔を見たらまた笑ってしまうと、レイドが謝る前に首を振る。そうすると、彼は力が抜けたようにがっくりと肩を落としていた。


「それに、お花をもらって嬉しく無いだなんて……」

「いいから、早く受け取れよ。うるさいのが来る前に」


 抜け出させたのはあなたでしょう?

 出かかった言葉は呑み込んで、ずっと伸びていた小箱を受け取る。自分で結んでくれたのか、赤いリボンはくしゃりと斜めになっていた。


 その可愛さにまた笑いそうになったけれど、今度こそぐっと我慢する。


「王女はそんなのいっぱい持ってるかと思ったけど、着けてるの見た事ないから……って、早く開けろよ!」

「え? ええ」


 箱を見られるのが恥ずかしいのか、レイドは顔を真っ赤にして叫ぶ。急いでリボンを解いて蓋を開けると、今度は丸くて青い小箱が、ひょっこりと現れた。


 知ってる。これ、装飾品を入れるものだわ。箱の大きさがこれなら、中身は指輪かしら。

 男の子に装飾品をもらったのは初めてで、とても胸が弾む。やっぱり笑顔が我慢できないまま、ゆっくりと小箱を開いた。


「まあ素敵、耳飾りね!」


 青い箱の中は純白。そして、赤い宝石と一緒に、見た事のない形の飾りが、銀を超えて白く輝いていた。


「あなたが選んでくれたの?」

「え、う、うん」


 付けてみてもいいかしらと、その飾りに手を触れてみる。ちらりとレイドを見ながら取り出すと、彼の周りの景色が突然、引っくり返ったようにぐにゃりと歪んだ。


「……?」


 頭を振って、また装飾品を見る。まるで世界が回っている。その中でも銀細工だけは眩しく光っているように見えて、とても綺麗だった。

 その内に、回る景色もゆっくりと元へ戻っていく。


 レイドったら、何か素敵な魔法でも掛けてくれたの?

 そう声に出したはずなのに、辺りには何も響かない。不思議に思っていると、手の中が急に熱くなってきた。


 手だけじゃない、それは、駆け足みたいな早さで体中をぐるぐると回る。


「あ、つ……」


 叫んだつもりの声は何故か細く、消えてしまいそうだった。

 ……いけない、早く冷やさないと。

 とても熱い、これは、何が燃えているの?


 熱い。燃えているのは、私?

 熱い。……それなのに少しだけ、他人事のように自分を見テいル自我ガ在る。


「ぅぁ、あ、わああぁぁっ!」


 熱に戸惑う私の前で突然、レイドが聞いた事もないような大声を上げていた。


「ど、した、の……レ、ド」


 驚き放った言葉は、けれど今度はきちんと発音出来てはいない。目が合えば、彼はふらつきながら後退り、まるで逃げるように走り出した。

 その瞬間、得体の知れない何かが、胸の内で黒く重くどよめく。

 何かは分からないけれど、息が詰まる。

 熱さはいつの間にか消えていた。


「待っ……」


 走り出す意味が理解出来ず、彼の後を追う。

 お母様にでも見つかったのかしら。それでも、お礼くらいは言わセてちょうダい。


 駆け出すのと同時に、手の中のそれにもう一度視線を落とす。

 あるのは、一滴の雫のような赤い粒が二つ。そこから続いていたはずの、銀に輝くあの美しさが無い。


「バケモノっ……来るなぁ!」


 その間にも、レイドは私から遠ざかっていく。何か叫ばれているようだけれど、意味が頭の中で留まらない。

 気にナラナイ。


「待っ、て」


 胸のどよめきが、一際大きくなる。

 そうよね、ごめんなさい、形なんて無くたっていい。せっかくクれたんだもの、お礼が言いたい。……ねえ、待って。


 どよめくそれが止み、囁きに変わる。

 本当に嬉シかったのよ?……待って。お願い待って、ドコヘ行くノ?


 囁きは何度も、言葉を繰り返す。

 お願いよ。ねえってば。待ってよ。置いていかないで。


 ……そうよ、駄目。

 ほら、お母様はどこにも居ないわ。お叱りを受けることもない。

 ……いかせてはイケナイ。

 待って。いい加減にして。どこへ行くの? そっちに行ってはだめ。

 待って。待ちなさい。

 行かせない。

 ……逃ガすな。

 聞いてくれるまで行かせない。

 ……いかしておくな。

 逃がさないわ、レイド。


「ひ! やめろっ!」


 遠ざかっていたはずの彼の腕が、いつの間にか手中にあった。

 そうよ、耳飾りのお礼がしたかったのだわ。


「あり、が、と」

「助けっ……」


 やっと伝えられる、と安堵すら感じた瞬間、私の言葉を遮ったはずの彼の声が、不自然に途切れた。

 次いで草地の上に重そうな音を立て、顔を伏せる。

 身体を置いてけぼりにして、放物線すら描きながら。


「?」


 顔だけが、伏せる。


「レイド……何て事を!」


 そして、彼の向こうで佇む  が、見た事も無いような苦い  を浮かべて   いる。

 怒って るよう 、泣いている  な。

 手には、その細腕が  に相応しくない程の  。

 鈍色のそれを く不透明に彩ったのは、たった今の  だろうか。


「あ……? ね、さま……」


 暫く真っ白になっていた頭を、言いようの無い衝撃が駆け巡る。目の前で起こった事の凄まじさに、悲鳴すら上げられない。


「触れなければ目覚めなかったのよ! それをっ、貴方は……!」

「は、あ、……うぅっ」


 けれど、思考とは全く別に、掴んだままだった彼の腕を強く引き寄せる。無条件に晒されてしまっていたその首に、躊躇いも無く口付けていた。


 鼻や頬に、べっとりと熱が纏わり付く。


「ファルトゥナ……貴女だけは違うと、人でいられると思っていたのにっ……」


 溢れ出るその赤に目を奪われ、彼女が見えない。

 惨劇を引き起こした張本人のはずなのに、怒り向かうべき相手なのに、与えられた喜びに感謝すらしている。


「あり、がと」


 さっきも言ったはずのそれをぽつりと口にすると、黒く重かった胸の何かが、楽しそうに舞い上がっていった気がした。


 喉がどんどん乾いてくる。息が詰まる。また身体が熱くなる。何かに場所を貸していた胸は、それが去った後も埋まらず、虚となって残る。


「報いなさい、レイド。貴方はとても罪深い」


 その首を拾い上げ、私へと差し出す彼女。

 それをどうすれば良いのか、身体は知っている。

 教えられた礼儀作法なんて全て忘れてしまったかのように、スープを啜る時と同じ音を響かせ、強く抱いた。


 ……。

 ……。

 ……  。

 意識が、胸の虚を見つめる。今度は自分が、そこに  うとする。そうすれば、何も見えない。きっとさっきの  のように楽しそうに飛んでいける。


「許して頂戴。あなたの為であるのは勿論、母様の為でもあるのよ」


 いつの間にか全てが無くなった頃、剣を収め、ゆっくりと彼女が背に触れてくる。


 ……背?

 触れられた感覚はあったけど、私はその部分を知らない。


 不意に我に返ったその意識で、視界に入った水鏡を見る。

 自身の姿であるはずのそれは、見慣れぬ金の瞳。

 そして、まるで悪魔のように醜く大きな翼が、別の意思を持つように揺らめいている。……彼女の手は、そこに触れていた。


「ひ!」


 それよりも目を見張るべきは、赤く濡れた全身にあったかも知れない。全てが異様な光景に、訳も分からず目がきょろきょろと動く。


 違うの、ただお礼が言いたかっただけ。こんな事に感謝したかったんじゃない。耳飾 のお礼よ。襲う為に追った じゃない。ほら、だって を振ったのは姉様でしょう?


 ……違うの? 私が追わな れば、レイドはあのまま城に戻って……戻って……、本当に戻れたの?


 抜け殻になった彼を   てしまったのは他でも無い、私ではないの?

 違う、……そうよ、姉様が居なければ私の爪が  た。何が違う? 何も違わない。


 何か違うの? 姉様のせい? レイドのせい? 耳飾りのせい? 誕生日のせい? 私のせい?

 目が回る。暗くなる。息が苦しい。心臓がうるさい。背中が痛い。付け根が痒い。長い爪が自分の腕を傷付ける。


 痛い。これは何なの? 私は何? 飛んでいったアレ?

 ……。

 ああそうよ、レイドが言ったわ。……バケモノなのよ。気味の悪い魔物、さっきみたいにおぞ、おぞまし、く人、ひとを、喰ら、あ――






「ファルト?」


 呼ばれ、僅か身が跳ねる。

 気付けば、言葉紡いでいたはずの口は呆けるように開かれ、知らぬ間に話を止めていた。


「十字架の耳飾りがどうなったって?」

「あ……え、と」


 記憶に思い馳せれば、やはり闇に沈んでしまう。

 今でこそ自我が保てているが、かつては渇を覚える程であった。


「大丈夫か? 水でも飲む?」


 そう言い、自身の脇に置いてあった水筒を差し出してくる。暫しそれを見つめた後、徐ろに受け取った。


 続きを話さなければ。記憶だけが単身突き進んだだけで、未だ何にも触れておらぬ。しかし、やはり有りのままを口にするのも容易くは無さそうだ。


「気軽に、言えねばならぬ言葉なのだ。今、これを受け取った瞬間にさえ」

「ん?」

「……たった一言、礼の言葉が吐けぬ」

「んー……、うん?」


 意味が通じなかったのか、ただ首を傾げられる。


「かつて、トトの森で悪態を吐いたであろう。素直に……礼の言葉も言えぬのかと」

「そんな前の事持ち出されてもなぁ。つーか、礼の言葉って何だ、まさか“ありがとう”の事言ってんのか?」


 刹那、板張りの地面が赤に染まる。顔が狂気に歪みかける。……どこかの何かが、胸中の虚を探す。


 そして、妙な力でも入ったのか、水筒から手を滑らせてしまう。取り落とす事は無かったが、明らかな図星と取られたであろう。


 だが、ようやっと話し出す事が出来たのだ。これまで誰にも打ち明けられなかった恐怖を。

 この男だから。……お前だから。


「そう、だ」


 赤の幻影を打ち消し、歯を食い縛る。虚などという、まやかしの逃げ口に沈んではいけない。


「あの日……」


 俯いてしまわぬよう、その紺碧の眼を見つめる。眼差しを頼りに、声を振り絞る事が出来た。


「あの日、耳飾りの礼に……それを伝えると共に、幼馴染の首が斬られた。以来、自身の口から吐こうとすれば、その光景が過ぎるのか、皆まで言えぬ」


 たった一言。呆れるほど短い一言。それを、時には他人から言われ、驚く時もある。否、記憶が薄いからこそ驚くだけで済んでいるのやも知れぬ。


 だが、薄まろうとも忘れる事は無い。故に、色濃く思い馳せた今、視界が酷く歪んだ。

 アレを言おうと彼を追ったから。……そんな風にその言葉を災いと捉えてしまっているのか。理解し難いが、今一度自身の口から言い出す事でも出来れば、変化が望めるはず。


 たった一言。呆れるほど短い一言。けれど、彼らに言えぬまま捨て置いてはならぬ一言。


「……」


 向こうからすれば、睨んでいるように思われたやも知れぬ。それでも、視線を外される事は無い。僅か険しい面持ちのまま、その幼馴染はどうなったのかと尋ねられる。


 ……どう、とは……。

 説明に不足があったとて、死んでしまったという事が伝わらなかったとは思えぬ。


「斬ったのはお前じゃないんだろ。死んだ後、誰かが埋葬した?」


 絡ませていた視線を、途端に逸らしてしまいそうになる。

 駄目だ、見ろ。闇に沈むな、答えろ。

 そう奮い立たせ、何とか紺碧を捉えたまま首を振る。


「血、飲んだのか?」


 声が、遠くで放たれたかのように響く。奮わせる意思は在れども、脳が全器官に退避を下し続けている。それでも唇を引き結び、返答に対して不自然なほど緩慢に頷いた。


 それは恐らく、偽りに非ずとも正しくはない。

 視線はそのままに、彼の首がまた少し傾く。考えあぐねているように見えた。


「そうだな……うん、……あのな、自分が言い出せない事をさ、無理に聞き出したくはないんだよ。危ないから。ただ、小さかったお前はずっと……何かを受け入れられてないんじゃないかと、俺は思う」


 物腰柔らかく言い放ち、唐突に手が差し出される。何事かと思う前に、水筒返してと付け加えられた。


「あとさ、そんな無理矢理克服しようと思わなくていい。するなって言ってるワケじゃなくて、何て言うか……自分が逃げないように、わざと俺の目見続けてるだろ」


 言われ、手元に映した視線を今度は上へ戻す事が出来ない。思えば口も付けていない水筒を手渡すと、それごと指が包まれた。


「それでも伝えようとしてくれてる気持ちは嬉しいよ。でも、ゆっくりでいいんだ。壊れるといけない」


 しっかりと握られ初めて気付く。自身の手が、酷く震えているという事に。寒さなど微塵も感じてはいない。けれど、暑さすらも感じ得ぬ。


「焦らない気持ちの中で、ちゃんとその時の事を受け入れればいい。少しずつ溶かしていく感じで……出来るのなら、吐き出しながらだって構わないから」


 まるで見透かすように、優しく緩やかにその低音は語り掛ける。包み込む指の一つ一つを擦り、緊張を解していく。時には強く握られ、あやすように軽く撫でられた。


 長く触れ合うそれに気恥ずかしさを覚えたのも束の間、そっと目を伏せ、記憶を辿る。温かな感触は、その目に頼らずとも気力を与えてくれた。


「……私は、未だアレを受け入れていない?」

「例えば、幼馴染が死んだ事から目を背けてるとか、そんな事は起こってないってどっかで思ってるとか」


 胸が、静かに締め付けられる。落ち着きを求め、大きく息を吸い込む。

 大丈夫だ。沈もうとする意識を、この手は繋ぎ止めていてくれる。


「……レイドの死から逃げているなんて、そんな事……」


 だが、そうだ、靄を掛けている部分がある。逃げているならばそこ。思い馳せる度に夢現を感じていた。


 ……。

 ……。

 違う。私は最初から逃げている。

 認めなくてはいけない。

 あの時、ファルトゥナは壊れた。ヒトだと信じていた身が、崩れた。


 ――歯を立て、垂れた皮ごと引き千切る。……可笑しかった。昨晩食べた肉料理よりも柔らかくて、とても美味しい。


 この身は取り込んだのだ。ヒトを、その肉を。化物と呼ばれた醜い姿で。


 ――足りない。もっと探しに行こう。求められる翼がある。私には大きな力がある。


 もはや知り得ているであろう。……アレは真の鬼の姿。おぞましき行いは、生まれ持った本能に基づくもの。


 ――ありがとう、目覚めを。ありがとう、翼を……この身体を。


 けれど無意識に、首が左右へ振られる。そんなことへの感謝など、したくはなかったと。

 そうしてずっと虚へ逃げ、受け入れられぬまま過ごして来た幼き己があった。


「首が……なのに、私は平気で、喜びすら湛えて彼を……血だけでは無く、その身も……」


 手の感触を確認し、強く握り返す。暑さは忘れていたはずだが、やはり掌は酷く汗ばんでいた。


「抑えられなかった。仕方無かった。この身体は、化物で……」


 覆面の下で吐き出される呼気が、更なる熱を呼ぶ。全てが現実であったと、滲む汗と共にじわりじわりと思い起こされる。


 そうだ、私はずっと、言うべき礼の意味を履き違えていた。


「ごめんなさいレイド、ごめんなさい、ごめんなさい」


 祝いの席を抜け出し、そのまま戻らなかった私と彼。

 どうやってその場を収められたのか、今尚把握してはいない。更なる獲物を求めて飛び立とうする意思がどこかにあったけれど、一人食べ尽くした事によってあの翼は消えた。私が皆に襲い掛かったという事はないはず。


 でもそれ以来、あの中の誰かに会った覚えは無い。……結局は同じ事だ。私か、誰かの糧になる。


 病弱と知らされていた母上が吸血鬼と分かったのは後日。アレは受け継がれないと信じた上で、母は私を宿したのだと聞いた。けれどその数ヵ月後、姉上が七つになり間も無く、やはり十字の光に触れ、目覚めてしまったのだと聞いた。


 鬼の血は子へ巡る。心優しき彼女が躊躇いも無くヒトを殺められる理由を知った。


 一族は呪われているのだと、思い知らされた。


「起きたものを無かった事にするのは無理だ。“忘れるな、留めておけ”って縛りつけるワケじゃなく、こういう事があったんだと認識して、引き起こる感情に向き合うんだ。悲しいやら悔しいやら、色々あるだろ」


 そう言う彼は恐らく、それらしい言葉を吐いて私を促しているに過ぎない。

 お前に何が分かる。

 違う、お前だから言った。

 ああ駄目、気をしっかり持って、ファルトゥナ……ファルト。


 そう、色々あった。その全てに蓋をした。分かった振りをして、何も見ていなかった。自身を化物とおとしめてきたはずなのに、嫌な部分だけを否定していた。


 肉までもを糧と出来る身なんてもう、半分と言えど人間とは呼べない。認めたくなかった。要らなかった。


 今まで生きていてごめんなさい。命を尊ばなくてごめんなさい。


 そうよ、吸血鬼は根絶するべきだった。ダルシュアンはずっと判断を誤っていた。

 例えそれが愛すべき存在だったとしても、生きる為に同族の命を摘まなければならないなんて、終わりのない悲しみがあるだけ。生きる者も生かす者も、不毛な連鎖を続けているだけ。


 ごめんなさい。

 ごめんなさい。


「ファルト」


 ……。

 それでも、キッドは言ってくれた。連鎖の果てに全てを壊し、あの森へ流れ着いた私に、会えて良かったと言ってくれた。……嬉しかった。


「あ、りが……と」


 誤った判断は、私をここまで生かしてくれた。この身は化物であったけれど、人間の形をしていた。それを見ていてくれる人達が居た。惜しみなく愛してくれた。


 私はずっと、その感謝をしなければならなかった。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ありがとう。……ありがとう」


 畏怖していた言葉が、自然と零れ落ちる。

 それは、あの日から胸の内に在った隙間を埋めるように浸透していく。静かな鼓動の音と共に、一粒ずつ。


「……なんか、言えてるみたいだぞ」


 溜息混じりの声が響く。目を開くと、握られたままの手が激しく上下に振られた。


「……言えた?」

「おう、何の変哲も無い言葉だよ。言ったって誰も死にゃしない。何も起こらない」


 自身の首に私の手を誘導し、繋がってるだろ、と確認させる。言えば首が飛ぶ魔の言葉だと思い込んでいるとでも認識されていたのであろうか。……いや、実際そうであったような、無かったような。


「で、水飲む?」


 いつの間にか、地に置かれていたそれを再度差し出し、彼は笑む。受け取ると、何故か心がとても満たされるようであった。


「……りがと。……キッド、ありがとう!」


 知らず、泣き顔のような笑みが零れる。長きに渡り言えずにいた気持ち、伝えられた事への喜び、色々と詰め込んで言葉にする。……無論、水筒に対する礼も。

 溢れ出る想いそのままに手を伸ばして、勢い良く彼の腰へと巻き付いた。


「うぉおいっ」


 再び、ありがとうとごめんなさいが交互に紡がれる。

 言葉が言えたとて、拭えぬ事実がある。声を上げて泣きそうになる代わりに胸へ顔を埋め、何度も言い続けた。


 ……だが不意に、以前よりも服の厚みが薄くて我に返る。巻き付けていた腕はどこへ入り込んだのか、素肌に触れていた。

 果てには余計な熱までもを呼び起こし、顔が上気する。汗とも涙とも分からぬ目元を拭い、僅か周りを見回しつつ、緩りと離れた。


「……暑苦しいな」

「えぇっ、そんな終わり方かよ!」


 肩を落とすそれを横目に、ようやっと水筒に口付ける。覆面を下ろさねばならぬ事に躊躇いを覚えたが、今のところ人目は無い。客は多いと聞いたが、皆船内であろうか。


「真裏にも同じような場所があるから、大体はそこじゃね? こっちは後ろ側だから、景色見てても面白くねぇし」


 飲む合間に問い掛けると、つまらぬ様子で彼はまた溶けるように身を倒していった。


「ならば、セシリアもそちら側か」

「……まあ、前行っても陸は見えねぇけどな」


 水筒を彼の元へと置き、一人立ち上がる。心無しか身が軽くなったように思え、不謹慎さを感じながらも笑み零してしまう。


「キッド、ありがとう」

「……おー」


 素直な感謝が伝えられる喜び。信じられぬ程、円滑に口が動く。


「やはり、お前に会えて良かった」


 そう言い、反応すら窺わぬままその場を後にする。

 言い足りてはいない。けれど、少しずつで良い。


「ありがとう……レイド」


 フードの上から、そっと耳に触れる。望まずとも私の糧となってしまった彼に、今一度言葉を贈る。

 肌身離さず付けているこの耳飾り、これからも大切にするからと。

 あの日言えなかった礼を何度も……うるさいと言われそうな程、沢山口にしていた。


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