ゆめかん 下

 しばらく家に通っているうちに、女は身篭った。気づいた時にはかなり経過していたらしく、堕胎することができなかった。

 妊娠中、女はそれでもギリギリまでホステスを続けたが、唯一の太客が大きくなった腹に気付き、他の女に乗り換えたことでいよいよ客がつかなくなった。何をやらせても不器用な女は雑用係にもならなかったのだろう。出産のための休みを申請すると同時に、店から暇を言い渡された。


 それから女は久しく家に訪れなかった。だが、新しい女が家に居るタイミングで、真っ赤な猿みたいな子供を抱きかかえてやって来た。俺は追い返そうとしたのだが、認知しなくてもいいから捨てないでくれと泣きついて来た。

 無様に髪を振り乱しながら玄関の前に突っ立っているそいつをみて、新しい女はすっかり興醒めしたらしく、それ以来二度と姿を見せる事はなかった。


 それから女とその子供が俺の家に居着くようになってしまった。女は以前にまして質素になり、女であるより母親であることを選んだようだった。俺はあまり気分が良くなかったが、かなりグレーな仕事に手を染めたらしい女が以前よりさらに金を持ってくるようになったため、仕方なく家に置いておくことにした。


 シワクチャの赤ん坊はすぐに大きくなった。うんともすんとも言わなかったのがうーうー唸り声をあげるようになり、髪も少しずつ伸びてきた。

 女子は父親に似ると聞くが、自分に似ているとはあまり思えなかった。あいつにも似ていない。強いて言うなら、俺の母親に少し似ていた。何も言わずに俺のことをじっと見てくるその目が、どこか面影を残していて気持ち悪いと思った。


 夜泣きがうるさい日は女ごと外へ放り出した。世話も何から何まで、ほとんど女が1人でやっていた。子供を抱いて見つめながら、シワとシミが目立つようになったその顔で、微笑んでいた。あの歪めるような、何かに媚びるような笑みではない。俺は女のそんな顔を一度も見たことがなかった。


 子供が数歩歩けるようになった頃、女が仕事に出かけて行った。今までは大抵一緒に連れていくか、子供を置いて行ったとしても数時間以内には帰ってきていたのだが、その日は違っていた。女は中々帰って来なかった。

 女の仕事は詳しくは知らない。知らない方がいざと言う時に身のためになると言う事だけ感じていた。スナックを追い出された時比較的すぐに職にありつけたのは、何かの拍子にこの地域の”つて”をそこで作ってあったからだろう。


 子供が俺の目の前をうろちょろ歩いている。俺はタバコの灰を落としながら競馬の中継を観ていた。ガシャンと大きな音がしたので、イヤホンを取って振り返ると、コップが割れていた。それと同時に、つんざくような子供の泣き声が部屋中にこだました。

「余計なことすんじゃねぇよ」

 俺は舌打ちをしながらコップの破片に手を伸ばした。だが、身を屈めるほど耳障りな泣き声でどうにかなりそうだった。

「静かにしろよもう、あっち行ってろ」

 俺は子供を押しやった。だが、子供は重たい置き石のようにその場に止まり、中々動こうとしなかった。見れば、頬にガラスで切った跡がついていた。

「あっち行けって!」

 イラついて声が大きくなる。するとそれに呼応するように、泣き声はさらに大きくなった。


 カッとなって頬を叩いた。子供は一瞬泣き止んだが、再び先ほどよりもさらに大音量で、叫ぶように声をあげた。俺はこいつのこういうところが嫌いだった。同じ女でもこういうところが、あいつとは違うのだ。

 子供は泣きながら真っ黒な瞳をこちらに向けてくる。その目は、殴られる俺をただじっと見つめている母親にそっくりだった。

 俺は頭を抱えて一歩下がった。その拍子に、素足の裏にチクリとした痛みが走った。

 赤い血が床に擦れる。ガラスの破片が突き刺さったようだ。俺は怒りに任せて足をぶんと振った。それは勢いのままに、柔らかな肉にぶつかった。


 どれほど時間が経っただろうか。目の前には粉々に割れたコップと、ぐったりと横たわる子供があった。目を瞑ったまま動かない。胸のあたりが上下していないように見える。俺はそれを確かめるのが怖くて、ただ茫然と眺め続けているばかりだった。

 ガチャリと玄関の方から音がして、小走りの足音が近づいてくる。その音は俺の背後でピタリと止み、数秒後にこの世のものとは思えない絶叫が遠くの方で聞こえたような気がした。


 気がつくと、血塗れの足を床に放ったまま母親が我が子を抱き抱えて泣くのを見つめていた。俺は夕陽に照らされたその光景を眺めながら、初めて綺麗だと思った。

 あたりが暗くなると、女は泣き腫らした目をこちらに向けてきた。

「あなたのことは絶対に許さない。でも、あなたを犯罪者にはしたくないの」

 その言葉は漠然と、俺の中にこだました。

 女は黙って立ち上がると、動かない子供を抱きかかえたまま玄関へと消えていき、そして二度と戻らなかった。


 そして数ヶ月が過ぎた後、俺の部屋に荷物が届いた。

 正確には届いたのではなく、ドアの前に置かれていた。

 雑に梱包されたダンボールはずしりと重たい。俺は警戒もせずにそれを家の中へ運び入れた。なんとなく、あいつが関わっているような気がしたからだ。

 女の私物はまだ家にあった。いつか取りに来るかもしれないと思ったがそんなこともなく、今ではどこで何をしているのかさえ分からなかった。

 

 ガムテープを端から乱暴に剥がし取り、そっと蓋を開ける。雑な外側とは打って変わって、中には一つ一つ丁寧に緩衝材で包まれた何かが入っていた。それよりもどこかに手紙やメモ書きがないかと探したが、その箱にはそれ以外何も入ってはいなかった。

 ため息をつき、包みの一つを手に取る。緩衝材を取ると、どこかで見たような丸みを帯びた文字が目に入った。


 しばらく見つめて、ようやく思い出す。あの匂いが、味が、食感が蘇ってくる。それと同時に俺は全てを理解し、その場に立ち尽くした。

 

 手から滑り落ちた缶詰が、薄汚れたキッチンの床を転がった。

 


 



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