眠らない男 4

 そんなこんなで、俺が部長に目をつけられるようになるのにそう時間はかからなかった。いや、目をつけられるかどうかは、やはりあの日のピザで決まっていたのかもしれない。


「君、これもやっといてね」

 そう言って毎日何度も書類が降ってくる。

「他のみんなよりちょと遅れてるんだから、小さい仕事から進んでやらないと。こういう努力が実を結ぶんだよ」

 あくまで俺のため。部長のスタンスはそうだった。実際本気でそう思っているのだろう。だが、渡される仕事はどれも研修期間の頃の雑用のようなもので、本筋の仕事に直結するとは到底思えないものばかりだ。

 

 対して高円寺には大きな仕事の一端が任されていた。そしてその仕事に集中できるよう、他の雑用が俺に回されているわけだ。

 できる奴がどんどん仕事をする。できない奴はできるやつのサポートに回る。会社は共同体なのだから、それぞれが自分の得意な部分と不得意な部分を補い合って一番効率の良いパフォーマンスを生み出す。

 その考え自体は俺も賛同している。だが、部長がやっているのはそれとも少し違うように感じる。

 毎日深夜までおよぶ雑用によって、自分の能力をアピールするチャンスも、能力を磨く時間すらも与えられていないように思うのは、俺の負け惜しみだろうか。


 今日も高円寺は定時で上がって行った。俺はその時、放られた雑用8割がようやく終わったところだった。

 だいぶ夏が近づいてきたが、俺が外が明るいうちに帰れたのはもう随分と前のことだ。だが、今日はあと一息で方がつきそうだ。パックのアイスティーを一気に飲み干し、残りにとりかかる。


「この書類、明日の会議で使うから整理しておいてくれ」

 そうやってデスクに新たな仕事を置かれたのは、やっと仕事が終わって片付けをしている時だった。

「え、明日?」

「おお、今思い出してな。でも、絶対に君の力になるはずだから」

 部長が笑いながら肩を叩いてきた。悪気がないところが最悪だ。

 目の端に帰り支度をしている後輩の姿がうつった。今日が遅かったくらいで、あいつも大体定時を少し過ぎた頃にはいつも帰宅している。その視線に気付いたのか、部長は俺に言った。

「ちょっと、後輩に投げようとしてる? ダメだよ、それに彼には今別のプロジェクトの研修させてるんだから」

 初耳の情報に俺は部長の顔をまじまじと見てしまった。唇が分厚くてシミのあるその顔は、濁った池に住む鯉のようだと思った。


 書類の整理はバラバラにファイリングされているものを並べ替えるだけだった。ただ量が膨大で、俺のデスクでは狭過ぎて扱いきれない。

 広いスペースが空くのを待ち続け、8時過ぎになってようやくまともに整理を開始できるようになった。だが、単調な作業というのは集中力がものを言うのだということは重々承知していた。

 今日投げられたのはそんな仕事が特に多かった。俺は1日分の気力をすでに使い果たしていた。珍しく早めに帰れそうだったので、いつも以上に頑張ってしまったのが運の尽きだった。

 山積みの書類は、やってもやっても一向に減らない。


 結局あの後大量の紙束の下から、この辺の書類見やすくまとめ直しておいてという部長の手書きの付箋が発見されたこともあり、今日も終電ギリギリになってしまった。こういうことがもう何日も続いていた。

 家に帰ってコンビニで買った弁当をちまちま食べ、シャワーを浴びてすぐに寝る。でも寝ても寝ても疲れが取れず、次の日はまた集中を欠いた状態で仕事に取り掛かる。当然はかどるはずもなく、部長にはさらに目をつけられてどんどん雑用を押しつけられる。そしてまた帰りが遅くなるのだ。

 大学時代によく触っていた置き型ゲーム機はホコリを被り、友人たちとも随分飲みに行っていない。


 電車を降りた俺は、歩くのもやっとの気力だった。バスはもうなくなっている。

 俺はこの悪循環を断ち切りたいと思っていた。せめて一度パッとどこかに遊びに行けば、リフレッシュできてしばらくはもっと楽に仕事を終わらせられるかもしれない。だが有給は取らせてもらえないままこの前消滅したばかりだし、休日は泥のように眠る以外の選択肢がとれなかった。

 そう思えば、家にいる間はほとんど眠っているような気がする。俺はこのまま雑用と睡眠だけで人生のあと40年ほどが終わってしまうのではないかと思い、ぞっとした。

 そんなことを考えていたからか、気がつけばいつも寄っているコンビニに入るのを忘れてだいぶ歩いてきてしまった。この先に何か食べ物を買えるような場所はない。近くにスーパーはあるが、とっくに閉まっている。

 いくらぼーっとしているからって、そんなことあるか。そう自分を情けなく思いながら振り返る。だが、今きた道を引き返そうとしても、足が前に進まなかった。

 もういいや。今日は眠いし、何も食べずに寝てしまおう。俺はため息をついて帰路を急ごうと再び前を向いた。


「うわっ」

 思わず声が出た。振り返ったその目と鼻の先に、人が立っていたからだ。

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