眠らない男 2

 それでも、2年目まではまだ幸せだったのだと今になって痛感している。

 研修期間や教育係という肩書きが無くなって、俺はいよいよ業績争いに参入することになった。それだけならば、何ら問題は無かった。会社に入るからには、それなりに競争する部分もあるだろうという覚悟はあった。

 問題なのは、このタイミングで部長が変わってしまったことだ。


 新しく本部からやってきた部長はこのご時世にまだ昭和の匂いを漂わせている人物で、とにかく業績第一だった。壁には今時小学校の学級目標にもならないような精神論が印刷された紙と、社員ごとの業績を描いた棒グラフが貼り出された。

 おかげでコーヒーサーバーにおかわりを取りに行くという俺の唯一の癒しの時間が、自分のグラフが他より圧倒的に短いことを嫌でも認識させる時間へと変化した。今では大好きだったコーヒーの香りを嗅いだだけでそのことを思い出せるまでに成長している。


 根っからのコーヒー党である俺にトラウマを植え付けた恨みもあっって、俺は部長とそりが合わなかった。そもそも、その根性で全てがどうにかなるという考え方も到底受け入れられないものだった。

 さらに、”トイレ掃除をすれば金運がついてくる”という謎の信仰によって、社員には毎朝10分間の清掃タイムが課せられた。そのせいで全員今までより早めの出社を余儀なくされたのだ。

 俺は電車の関係で、今までより10分早く職場に着くために家を出るのを30分も早めなければならなかった。


 俺は普段あまり飲み会には行かないが、新しい顔ぶれが入ったり、誰かの送別会だったりするときには一応顔を出す。もちろん部長の時もそうだった。

 だが、俺は参加してわずか10分で来なければよかったと後悔した。乾杯の挨拶を任された部長が、グラスを持ったまま延々と語り始めたからだ。俺のビールの泡はみるみるうちに無くなっていったし、目の前の女性社員の烏龍茶からは結露した水が滴っていた。

 話の内容も聞くに耐えないものだった。時々全く笑えない下ネタを挟みながら、少し外れた営業論から前の職場の愚痴まで、話があちこちに飛んでいた。その場にいる誰もが、とんでもない奴が入ってきたと感じていた様子だった。


「いやいや部長、とりあえず乾杯しちゃいましょうよ!」 

 耐えきれず、俺が一年教育をしたアイツが口を挟んだ。部長は話をピタリと止め、そいつの顔を見た。空気が氷り、全員が肝を冷やした。だが、部長は笑いながらすまんすまんと乾杯の音頭をとってくれたので、俺はよくやったと初めてアイツを褒めたい気分だった。

 しかし、そこから楽しい飲み会になるかと言えばそんなはずもなく、俺は早く時間が過ぎることだけを祈りながら端の席で焼きトマトをつついていた。

 肝が座っているのか空気が読めないのか分からないアイツは、得意のコミュニケーション力でいつの間にか部長と意気投合し、テーブルの反対側の方は妙に盛り上がっていた。もちろん本気で笑っているのは部長だけだろう。


 会はなかなかお開きにならない。席の時間というものが無かったらしく、二次会に改めて移行する気配もないまま11時を回った。ちらほらと帰り出す社員もいたので、俺もここが潮時だと思った。

「俺もそろそろお先に失礼します」

 そう言ってそっと席を外そうとした。しかし、運悪く部長に認識されてしまった。


「ちょっと君、今ねピザ注文したからそれ食べてから帰ってよ」

 顔が赤くなった部長が訳のわからないことを言い出した。

「すみません、自分もうすぐ終電なんです」

 俺は軽く頭を下げながら答えた。

 飲み会にあまり行かないため初めのうちはレアキャラだと色々話しかけられたが、そこから何か話が広がるわけでもない。1時間もすれば俺がたいくつな人間であることが周知の事実となり、話の中心はだんだん遠ざかっていった。そうなればあとは飲んだり食べたりしながら適当に相槌を打つだけだ。

 今日は特になかなか帰るタイミングがなくだらだら続いていたので、腹はすでにぱんぱんだった。

 それは他の社員も同じようで、ピザという言葉に皆一様に嫌そうな顔を忍ばせていた。学生が主に利用するような騒がしい店のメニューに載っている写真は先ほどちらりと見たが、とても食欲を掻き立てるようには見えなかったのを覚えている。


「そんなこと言わずにさ、もうすぐ来るはずだから」

「は、はぁ……」

 目上の人間にそう言われて、キッパリ断れるような性格ではない。俺はしぶしぶ再び席についた。

 しかし、そこから何分たってもピザは運ばれてこなかった。もはや、何も飲まず何も食べず、ただただピザを待つだけの時間が過ぎていった。

 俺は時計を見た。終電まではあと10分。ここから駅までは歩いて5分かかる。ピザがきたらすぐに帰れるよう、すでに幹事に自分の分のお金は渡してある。俺はカバンを抱えてじっとそれを待った。


 だが、ピザとやらは本当に一向に現れる気配がなかった。20歳くらいの派手な頭の色をした店員がたまに通りかかる度についに来たかと思ったが、そのまま通り過ぎるばかりであった。

 俺は時計を見る。終電まで残り5分だった。

「あの、すみません。本当にもう終電なんで」

 俺は意を決して立ち上がった。これは金曜ではなくなんと月曜日の話だった。つまり、明日も明後日も仕事はある。しかも、俺は今までより30分早く起きなければならないのだ。

 タクシーを使うとバカ高い出費になるので、ここで終電を逃すわけにはいかなかった。

「なんだよ、ノリが悪いな」

 部長が顔をしかめて言った。だが、もうこれ以上は本当に無理だ。

「すみません、お先です」

 俺は頭を下げて振り返った。数歩歩いたところでチーズがたっぷりかかったピザを持った店員とすれ違った。後ろから何か聞こえた気がするが、もうそんなことはどうでもいい。あんな胃のもたれそうなものを食べずにすんでよかったという思いの方が大きかった。

 店を出ると、俺は駅に向かって走った。

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