回送列車 弐

 家を出る時、上着を羽織ってこなかったことを後悔した。昼間は汗が吹き出るほど暑いのに、陽が沈むと一気に肌寒くなる。夏が終わりを迎えようとしていると実感した。

 午後10時半、駅のホームに人はまばらだった。

 つい先ほどまで腐れ縁とも呼べる仲間たちと盛り上がっていた。でも、田舎へ向かう終電はかなり早い。2軒目の店では常に時計を確認しながら酒を飲み、楽しい雰囲気に水をささないようタイミングを見計らわなければならない。騒がしい声を背後に店を出る瞬間は、いつも寂しさを感じさせるものだったが、今日は少し違っていた。


 ホームの椅子に腰掛け、携帯を取り出す。母親から通知が2件届いていた。

 高校の頃の友人たちは昔と何ら変わらない。毎年会うたびにそう思っていた。しかし、実際には彼らも少しずつ変化していた。酒が入って出てくる話は、狙っている異性の話から、だんだんと将来設計や仕事の話に変わってきていた。

 僕は県外の大学へ出た。そのため地元に残った彼らとは年に数回、帰省した時にしか会わなくなった。友人の中には既に働き出したやつもいた。

 高校の頃からもともと僕だけが電車で30分の田舎町に住んでいて、その時ですら少し距離を感じていたというのに、今ではその隔たりがどうやっても埋められない溝になってしまったように感じられた。


 列車がやってきた。だが、これは行き先が違うものだ。ホームに立っている人たちが、次々中へ吸い込まれていく。僕の列車はまだやってこない。 


 SNSにも飽き、写真フォルダを適当にスクロールしていると、操作を誤って一番上まで遡ってしまった。そこには高校の頃の写真があった。先頭の写真を拡大する。先ほどまで一緒に飲んでいた仲間たちが写っていた。記憶の中の彼らは今とそう変わりなかったが、やはり写真で見るとあどけない。

 一枚一枚、写真をめくっていった。


 ホームにアナウンスが鳴り響く。僕は携帯をしまい、立ち上がろうと組んでいた足を解いた。しかし、次に来るのは回送列車のようだった。

 なんだ、と再び背もたれに倒れ込む。無意識に二の腕をさすっていた。露出した肌は冷たくなっていた。

 列車がホームに入ってくる。この駅で一旦停止するようだ。

 回送列車にはかつて奇妙な思い出があった。でも、今ではきっとあれは何かの見間違いだったのだと思う。あの頃の僕は主に進路のことで大いに悩み、苛立っていた。母親とも度々対立し、おそらくかなり心配をかけたことだろう。

 あの日も特に気温の高い日に、風も吹かないような場所で何十分も座っていたのだ。きっと湯だった頭が僕に妙な白昼夢を見せたのだ。後から、記録的な猛暑だったと知った。


 回送と書かれた列車が停まっている。ちらりと見ると、もちろん中は真っ暗だった。ホームに座る僕の姿が窓に反射している。

 僕はどうだろう。あの頃と何か変わっただろうか。自分ではすっかり見慣れてしまったこの顔は、他人から見たら何か変化しているのだろうか。

 鏡を見るように窓を見つめていると、ぞわっと総毛立つような感覚に襲われた。見られている、と思った瞬間、窓から目が離せなくなった。

 そこに映る自分の輪郭が、水に滲むように薄れていく。そのまま顔も服装も、ぼやけて何も見えなくなった。

 やがて、真っ黒になったそのガラスの向こうに、白い何かが近づいてきた。それは小さな掌だった。ペタペタと2つ、並んで窓に張り付いた。その真ん中の辺り、真っ暗な闇の中から刺さるような視線を感じた。

 顔見えない何かとの睨み合いが、何時間も続いたように感じられた。


 出発のベルが鳴り響く。白い手はすっと暗がりの中へ消えて行った。

 回送列車が動き出す。それはもう元のなんてことない列車だった。

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