ワンロールの歴史

 午前二時過ぎ。俺は公園のトイレの中にいた。

 家まではそう遠くないが、突然痛み出した腹に耐えられなくなったのだ。

 つい先ほどまで、居酒屋で馬鹿みたいに飲んでいた。酒量がある一定のラインを超えると、俺はすぐ腹の調子を悪くするタイプだ。それはわかっていたが、今日の俺には飲まざるを得ない理由があった。


 トイレには小便器と個室がそれぞれ三個ずつ、向かい合うようにして並んでいる。俺はその真ん中の扉の中に居た。辛うじて様式ではあるものの、腿の裏に伝わる便座の感触は傷だらけでざらついている。

 お世辞にも綺麗とは言えない。不特定多数が使っているということを感じさせる悪臭が、腹の痛みを加速させるようだった。

 蛍光灯の青白い光が、薄汚れた壁を照らしている。所々、擦ったような跡やくだらない落書きが見受けられた。


 腹の痛みは一向に治らない。俺は気を紛らわそうと、傍らのトイレットペーパーをつかんだ。

 小汚いトイレの割に、ペーパーホルダーは二個付いている。公衆トイレなんて誰が管理しているのだろうと思ったが、そこにはちゃんとトイレットペーパーが補充されていた。

 俺はほぼワンロールある方のペーパーの端をつかんだ。ふと見ると、ホルダーの蓋と接している部分の真ん中あたりに黒く滲んだような跡があるのが分かった。

 そのままペーパーを引き出してみる。滲んでいたのはそこに数字が書かれていたからだった。1センチもないくらいの大きさの文字で、横向きに「1」とある。滲み方からして、黒マジックで書いたものだろう。

 なんだよ、誰かしょうもない悪戯でもしたのか。俺はそのまま右手で紙を引っ張った。

 すると数字はさらに「9」と続いていた。さらに引くと、その後に「9」「2」と続いている。

 「1992」と言う数字を見て、俺はその後に何と書かれているか想像ついた。ゆっくりと紙を引くと、そこには「年」と言う文字が現れた。

 このトイレットペーパーには、何か書かれている。俺は興味をそそられた。と言うより、痛みから気を紛らわせればなんでもいいと思っていた。


 1992年という文字は、まるでこうやって便座に座っているやつに読ませたいかのように、文字を90度左に回転させた状態で書かれていた。いや、読ませたいと言うよりは多分書いたやつが便座に座っていたのだろう。紙をホルダーから出すと左から右へと、所々滲んで読みにくい文字が続いていく。

 俺はさらに紙を引っ張った。そして、そこに書かれていた文字列を見て固まった。


「1992年 栃木県宇都宮市に生まれる」


 年も場所も、まさにこの俺と同じだった。

 背筋に薄気味悪いものが走る。こんな偶然があるだろうか。気味が悪かったが、同時に俺の中に好奇心も芽生えてきていた。そのまま紙をぐっと引っ張り出した。


「1997年 近所の脱走した犬に追いかけられ負傷する」

「1999年 父方の祖父が亡くなる」

「2000年 同級生に初恋をする」


 俺はとっくに腹の痛みなど忘れていた。そこに書かれていたことには全て覚えがあった。だが個人名までが書かれているわけではない。偶然俺と同じ年頃に同じような経験をしたやつがこのトイレに入っていたのか……いや、やはりそんなことは考えられない。

 俺は夢中になって紙を引き出し続けた。


「2003年 両親が離婚する」

「2005年 他校生との喧嘩で負傷」

「2008年 母方の祖母に病気が見つかる」


 それはまさに自分の過去であった。かなり大雑把だが、年号も出来事も確かに一致している。自分の人生で比較的重要と思える出来事ばかりだから、全部しっかりと覚えている。だが、もちろん自分でこんなことを書いた覚えはない。

 誰かがここに俺の過去を書いたのだ。

 

 その後も俺の過去は延々と記されていた。俺は先ほどまで感じていた吐き気や頭痛もとうになくなっていた。自分の心臓の音が大きくなったように聞こえる。一体誰がこんなことをしたと言うのだろう。

 俺は思考を巡らせた。思い当たる人物は何人かいる。俺と同郷で、子供の頃からずっと一緒に馬鹿をやってきた連中だった。あいつらなら俺の人生を大雑把には知っていてもおかしくはない。

 しかし、その紙には自分しか知り得ないようなこともいくつか書いてあった。あいつらにこんなことを話したことがあっただろうか……いやいや、俺の家族に聞くなりなんなりして調べることはできるだろう。

 そう考えるとバカバカしくなってきた。もしかしたら今だって、トイレの外で俺のことを待ち構えていて、笑っているかも知れない。

 きっとそうに違いない。俺はそう言い聞かせた。だが、一方で冷静な自分が問いかけてくる。

 本当に、こんなたまたま初めて来るような場所にあいつらがこんな手の込んだことをするだろうか。それにここが俺の故郷ならまだしも、俺は一人上京しているのだ。あいつらとは離れ離れになって、ここ数年は会っていないじゃないか。

 紙を引く手は止まらない。すでに床にはほぼワンロール分のトイレットペーパーが雑に積もっていた。その全てに小さな文字が、俺の歴史が書かれているのだ。先ほどとは違う気持ちの悪さが胸の辺りを支配していた。


 俺の過去は、上京した後のことも書かれていた。職場のこともこちらでの生活の話も、もちろんあいつらにした覚えはない。年数はだんだん今に近づいてくる。

 そして俺の手が止まった。


「2020年 結婚を考えていた相手が浮気していて突然別れを告げられる」


 これはつい先ほど俺の身に降りかかった出来事だった。このために一人のみ潰れるまで居酒屋にいたのだ。もちろんまだ誰にも話していない。

 それがちょうどワンロールの終わりだったことも気持ちが悪かった。俺は一刻も早くこの場から立ち去りたいと思った。

 この訳のわからない紙を使うのは抵抗がある。俺はもう一つのトイレットペーパーに手を伸ばした。


 水を流して個室から出ると、手を洗うことも忘れて家に戻った。幸にも水に流せるティッシュを持っていたため、服を汚すこともなかった。

 一刻も早く家に帰り、酒を飲まなければ。自分の体調も明日の出勤ももはや知ったことではない。前後不覚になるまで飲んで、全て忘れよう。

 俺は今見た光景を思い出すまいと頭を振り、全力で走った。走れば走るほど、鮮明に蘇る。


 もう一つの紙を掴んだとき、そちらにもどこかで見たような黒い滲みが微かに蓋の下から見えた。俺の過去はワンロール分で現在までたどり着いたはずだ。

 

 そのトイレットペーパーは、後数ミリほどしか残っていなかった。



 

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