用水路の君と(後編)

 水は思ったよりも冷たい。深さは僕の足首まで浸かるほどだった。

 川底の藻のぬるぬるとした感触がくすぐったい。焦って滑らないようにしなければ。僕はアミをしっかりと握り、一歩一歩慎重に金魚へと近づいた。

 金魚は川上に向かって泳いでいる。僕はその背後からそっとアミを差し入れた。そのままゆっくりと前へ距離を詰める。金魚の尻尾を捉えるまで、あと2センチ。

 金魚は僕に気付いていないようだった。アミの先が金魚を捉える。僕はそのまま金魚の真下へアミを入れ、思いっきりそれを持ち上げた。


 しかし、金魚はするりとアミをかわすと、バカにするかのように僕の足の間をすり抜けて川下の方へと泳いで行ってしまった。どうやら焦って早く引き上げすぎてしまったようだ。

 僕はどうしてもアレを捕まえたいと思い、振り返った。そこには僕の胸ぐらいの高さに用水路の重たそうな蓋があった。それがずっとずっと奥まで続いている。僕の隣の家と、そのさらに隣の家の狭くて薄暗い間に続く蓋の道は、ここから見ると何故だかうまく距離感がつかめなかった。ずっと真っ直ぐなようにも、すぐにカーブしているようにも見えた。

 しかし、その時の僕にとってそれはさして重要ではなかった。一番大事なのは金魚の行方だ。僕は頭を下げて用水路の中をうかがった。

 蓋の下は暗かったが、格子状の蓋の隙間から陽の光が入っているため所々はハッキリと川の様子が分かった。そして、赤い金魚は手前から二番目のひだまりの中にいた。

 僕は中腰になり、蓋の中へと入って行った。

 

 金魚は同じ位置で悠々と泳いでいる。川上である僕の方に顔を向けているが、果たして見えているのだろうか。僕はそっとアミを水中に忍ばせた。今度は確実に、金魚の全体がちゃんとアミの上へ来てから引き上げよう。

 音を立てないよう、慎重に近づく。中腰な分ゆっくりとした動きは先ほどよりもキツかったが、そんなことも気にならないほどこの時の僕はかなり集中していたのを覚えている。

 よし、今だ!

 目一杯アミを振り上げようとした時、僕は思わぬ妨害にあった。

「ねぇ、何してるの?」

 

 驚いて顔をあげた。女の子の声だ。声は上からではなく、用水路のずっと奥の方から聞こえてきた。仄暗い水路の中に、四角く陽に照らされた部分が等間隔に続いている。しかし、女の子の姿は見えない。

 そうだ、それよりも金魚はどうなっただろう。僕は慌てて下を見た。もう少しで手に入るはずだった金魚は姿を消し、川底の伸びだ藻だけがゆらゆら揺れている。僕はひどくがっかりして、そのまま用水路の奥へ向かって叫んだ。

「もう、君のせいで金魚が逃げちゃったじゃないか!」

 すると、か細い声が返ってきた。

「え、金魚?」

「そうだよ、真っ赤なやつがいたのに!」


 しばしの沈黙の後、奥の方からパシャリという小さな音が聞こえてきた。

「ごめん、知らなかったものだから……」

 申し訳なさそうな声だった。僕は、素直に謝られたことで急に悪いことをしたなという気になった。

 まぁ、家の近くだし金魚はまたいつでも探しに来れるだろう。

「いや、ごめん急に大きな声を出して。別にいいんだ。君もここで遊んでたの?」

 暗闇の奥はしんとしている。もしかして、傷つけてしまったのだろうか。

「本当に、もう怒ってないから。ごめんね」

 僕は声のする方向をじっと見た。闇に目が慣れたのか、その子の輪郭をぼんやりとだがとらえることができた。

「ねぇ、そっちに行ってない?」

「え?」

「金魚だよ」

 僕は女の子の方へ向かって2歩進んだ。歩くたびにパシャパシャと水の音がする。

「どう? 見える?」

 女の子の頭らしき部分の輪郭がもぞもぞと左右に動く。

「見えない……どこかに行っちゃったみたい」

「そっか」

「本当に、ごめんね」

 しゅんとした声が水路に響く。僕はつとめて明るい口調で応えた。

「ううん、こっちこそ、大きな声を出してごめん。君もここで遊んでたの?」

 

 女の子からの返事はない。僕は目をこらした。思ったよりも小さい。もしかしたら、僕よりもずっと年下かもしれない。僕は次のひだまりまで足を進めた。

「ここに住んでるのかな」

「えっ」

「金魚だよ、結構大きかったんだ」

「ああ、どうだろう」

「君はこの辺の子?」

「えっと……」

 その子は返答につまった。幼い頃の僕はこういう時にどうすればいいかを心得ていた。公園で見知らぬ子を見かけた時と同じで、自分のことからどんどん話していけばいいのだ。

「僕はすぐそこの家に住んでるんだ。でも、ここに来たのは初めて。いつもは公園のほうにばっかり行ってたから」

 空気が、若干和らいだように感じた。顔は見えないが、彼女が僕の方を見てくれているのが伝わってきた。

「生き物が好きなんだ」

「生き物?」

「そう、虫とかトカゲとか。ほんとは犬が飼いたいんだけど、母ちゃんがなかなか許してくれなくってさ」

「そうなんだ」

「母ちゃん怒ると怖いから、何度もしつこくは言えなくって」

 ふふっと息が漏れる音がした。女の子が笑ってくれたようだ。そしてその子は少しずつだが僕と会話をしてくれるようになった。

 僕はお尻が濡れないよう慎重にしゃがんで、その子といろんな話をした。その間になんとか顔を見ようと少しずつ奥に進んだため、すでに僕とその子の間にはひだまり一個分の距離しか空いていない。これが最後のようで、その奥には真っ暗な闇が続いていた。

 ゴーっと音がして、蓋が揺れる。真上を車が通ったのだ。そうしてやっと僕はここが道路の下であることを思い出した。少し怖いような、わくわくするような、不思議な気持ちになった。格子状の蓋から入り込む夕日は朱色に染まっていた。


 僕は金魚のことなどすっかり忘れてその子との話に夢中になっていた。

「そうだ、君の家は何かペットを飼ってない?」

「私は……猫、飼ってた」

「飼ってたってことは、もしかしてもう死んじゃったの……?」

 しばらく沈黙が続いた。僕は悲しいことを思い出させたのではないかと思って焦った。遠くで誰かの声が聞こえた気がする。僕は何か他の話題はないかと思考を巡らせた。そしてふと気付いた。

「そうだ名前、名前はなんていうの?」

「しらすが好きだから、しらすって」

 はじめは何のことかわからなかったが、気付いて僕は大声で笑った。

「違う違う、君の名前だよ!」

「えっ」

 目の前の影が、恥ずかしそうにうつむくのが分かった。僕はおかしくて、その子をつついてからかおうと手を伸ばした。その時だ。


「あんたそんなとこで何やってんの!」

 真上から、今まで聞いたことのないような母の怒号が降ってきた。僕は格子の隙間から母を見た。目を大きく見開いて、ぎゅっと寄った眉が限界まで上につり上がっている。

「げ、母ちゃん」

「すぐに出てきなさい!」

 あまりの怒りように僕はびっくりして、急いで蓋の開いている川上へと駆け戻った。そうだ、あの子に挨拶をしなければ。

 蓋の淵に手をかけて、振り返って大声で叫ぶ。

「またね! 名前、次会ったときに教えてよ!」

 かなり薄暗くなったひだまりの中に、暗闇から小さな手がすっと伸びてきた。そして、その子は僕に向かって優しくバイバイと手を振ってくれた。


 今思い返せば用水路の中に入るなんてとんでもない行動だ。あの後母には僕が泣くまでこっぴどく叱られて、二度と用水路には近づかないことを約束させられた。

 いつもの時間になっても返ってこない自分を母は探しに行っていたらしい。しかし公園にも田んぼにも、思いつくところにはどこにもおらず、よく行く友達の家も何軒か尋ねたそうだ。協力してくれた近所の人と家の近くから探している最中、用水路の端で僕が脱いだ靴を見つけた。声が聞こえてゆっくり自分の足元を見下ろすと、薄暗いその真下に息子がいたのだから、さぞ血の気の引く思いをしたことだろう。母には本当に申し訳ないことをしたと思う。

 あの用水路での出来事は今でも鮮明に覚えている。僕は女の子とそこで確かに会話をしていた。しかし、あまりにもリアリティのない状況に、今では自分の夢か何かだったのではないかとも思う。

 あの後僕はあの子を探していろんな人に聞いて回ったが、見つけることはできなかった。当時僕より年下の女の子は数えるほどしかいなかったため、僕の捜索はすぐに幕を閉じたのだった。用水路に行けばまた会えるような気もしたが、僕は母にまたすごい剣幕で怒られるのがとても怖かった。しかし、僕の悶々とした気持ちは日に日に薄れていき、念願の子犬を買ってもらったころには綺麗さっぱり忘れてしまっていた。


 どうして今になってこのことを思い出したのかと言うと、飼っていた犬の”さつま”が亡くなったからだ。

 家を出た僕は、愛犬を看取るために久しぶりに故郷へ帰ってきた。さつまは安らかに天へ昇っていった。

 葬儀を終えた後、さつまという名前の由来は小犬だった頃の好物からきているという話題になった時に、僕はふとあの子のことを思い出したのだ。

 僕は母にあの子のことは伏せて当時のことについて聞いてみた。僕の悪事を思い出した母はいかに肝を冷やしたかということを切々と語ってきたので、僕は半分面倒なことを聞いたなと思いながらも謝罪した。

 そして、その頃あそこで溺れた子はいなかったかと聞いてみた。しかし、母には特に覚えがなかったようだ。そのまま当時のことを思い出した母の怒りにさらに火がつきそうだったため、僕は質問を変えることにした。”しらす”という猫を飼っている家がなかったかどうかである。

 これにも母は全く思い当たるものがないようだったが、意外な人物から返事が返ってきた。妹が、小学生の時にその名前の三毛猫を飼っているお婆さんと話をしたことがあるというのだ。聞けばそれは、僕らの家からはかなり離れた場所だった。妹の友達の家の近所の人で、いつもさみしそうに猫を撫でていたそうだ。言われた辺りを地図で確認すると、その近くを流れる川があの用水路に続いていた。


 僕は数年ぶりにあの用水路の上に立っていた。蓋が新しくなっていて、格子状のものは取り外されてしまったようだ。

 道路の端へ寄り、川を覗き込む。少し藻が増えた気のするその水の中には、あの時のような金魚はいなかった。

 さつまの残りで申し訳ないのだけど。そう思いながら手にしていた数本の花を川へ流す。僕は振り返り、川下に向かって手を合わせた。

「ごめん、名前を聞くなら先に名乗るのがマナーだよね。僕の名前は……」

 

 つぶやくと、どこかから懐かしい声が聞こえたような気がした。


 

 





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