幽霊物件

 妻の甲高い悲鳴が寝室から聞こえて来る。

 私は丁度脱衣所で濡れた体を拭き終わった所だった。とりあえず持っていたタオルだけ巻きつけて、急いで妻の元へと向かう。

「どうした」

 寝室のドアを開けると妻は、元々色の白い顔を更に青くさせてベッドにへたり込んでいる。勢い良く入ってきたのが私と分かり多少安堵したようだが、それでもその大きな目を見開いたまま固まっている。

「出たの…また、おじいさんが」


 私と妻は駆け落ちした仲だった。いわゆる身分違いの恋をしたのだ。同じ地方の出身で、小学校だけは同じ所に通っていた。妻は大きな企業の一人娘で、私は平均より低い所得の家庭で育った。地方といえども妻の家の力は強大で、その地方ではかなりの上流階級だった。

 小学生の時分は彼女がいつも新品の持ち物に囲まれていることが羨ましく、嫉妬心からむしろ彼女を毛嫌いしている子供であった。しかし短大を出て働き出した頃に、都会の大学から帰省している彼女と偶然再会した時、私は子供の頃どうしてもっとこの人と親しくなっておかなかったのかと強く後悔する事になった。

 美しく成長した彼女は私のことなどもちろん覚えてないと思った。しかし、声をかけてきてくれたのは彼女の方からだった。私は美しさの中に残るあの頃の面影や、彼女の少し世間知らずの部分をたまらなく愛おしく思うようになり、短い期間の中で猛烈に惹かれていった。幸運にも彼女も私に想いを寄せてくれており、私たちは秘密裏に交際することとなった。

 彼女が大学を出た後、私は彼女にプロポーズをし、彼女もそれを受け入れた。しかし、もちろん彼女の両親は僕との交際や、まして結婚など許してはくれなかった。怒った父親は彼女と有名企業の跡取りとの見合いの話を、予定よりも早く進め出した。

 私は自分が彼女の将来を台無しにしてしまうのではないかと思い、彼女に別れを告げようかとも考えていた。しかし、不甲斐ない私に比べて、彼女の方が勇敢だった。彼女は両親に見合いを断る意志をキッパリと申し付け、出ていくことを告げたのだ。私は一生をかけて幸せにすると彼女に誓い、二人で誰も知り合いの居ない土地へと引っ越したのだった。

 新しい土地で、新しい職をなんとか手に入れられたものの、やはり生活はギリギリだ。私たちは寝室の声が風呂場まで聞こえるほど壁の薄いオンボロアパートに住んでいる。もちろん家賃が格安だったからだ。私は妻の生活レベルをあまりに変化させてしまうことに申し訳なさと不安を抱いたが、彼女はいつでも明るく振る舞い、この新たな生活を楽しんでくれているようだった。私が惹かれた彼女の性格もあまり変わらなかった。時々やはり彼女は一家の令嬢として育てられたのだなと感じる場面があり、私は慎ましい生活の中でも幸せに暮らすことができるのだった。


 そっと妻に近づいた。いつもならこんな格好をしていると恥ずかしそうに顔を背けるのだが、今はそんなことにも気がつかないほど動転しているのだろう。私の腕にしがみついた彼女は小さく震えていた。

 私は妻をリビングへと連れ出した。これだけ怯えていては、今夜は寝室で眠るのは難しそうだ。妻の安眠のためにも早く原因を取り除かなければ。とりあえず服を着て、再び寝室へと向かう。妻が私に声をかけた。本当は怖いのだが、勇敢に私との将来を選んでくれた妻に少しでも恩返しがしたい。私は精一杯の笑顔でそれに応えた。簡単すぎるが、一応手近にあった雑誌を丸めて棒を作り、武器として持って行くことにしよう。

 そっとドアを開け、中を確認する。しんと静まり返った室内が、幾分か不気味に思える。そうだ、いつもなら外や隣の部屋の物音がかなり聞こえてきてうるさいぐらいだというのに。背筋に冷たいものが走る。

 以前にもこんなことがあった。それが出るのはなぜか決まって寝室だった。その時は二人で寝ようとしている時に現われたのだ。妻は一瞬何か分からないような顔をしていたが、すぐに気づいて悲鳴をあげた。私は怯える妻の為に勇気を振り絞り、ゆっくりと立ち上がってそれに近づこうとした。しかし、瞬く間にそれは姿を消した。消える前に一瞬、目が合ったように感じた。

 その時も妻はひどく動揺し、しばらく寝室に近づけないでいた。何日かして、ようやく入れるようになり、時間をかけてやっと元の生活に戻れたというのに。私の中で恐怖心を凌駕するように、怒りに似た感情が湧き上がってきていた。

 その時、背後で小さな物音がした。私は振り返る。それはすぐそこに立っていた。禍々しい雰囲気を携えたそれと目が合い、一瞬体が動かなくなる。しかし、ここでなんとかしなければ私と妻に平穏は今後一切訪れないような気がした。目の前のものに意識を集中させ、ゆっくりと息を吐く。こんなもので何とかなるかは分からなかったが、やるしかない。私は雑誌を持つ手に力を込めて、それを高く振りかざした。


 数分、いやもしかしたら1分も経っていないのかもしれないが、私にはそれが何時間のことのように思えた。ボロボロになった雑誌をそっとずらすと、一匹の赤茶色い生命体が息絶えていた。全身の力が抜けて、その場にへたり込む。全く、妻はなぜこんなものに対しても敬称をつけて呼ぶのだろう。



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