2 剣を汚さず切る男

 ウィングエンの半生は、悪い意味で夢物語のようである。

 物心ついたときには中規模の傭兵団の中にいたこの男は、気づいたときにはその傭兵団の団長になってしまっていた。

 実は傭兵団を抜けて一人になりたいと考えていたウィングエンにとって、それは決して本意ではなかったが、その時点で自分以外に適任者がいないこともよくわかっていた。

 それなら早く後継者を育てて団長職を押しつけてしまおうなどと思ったのがいけなかったのだろうか。彼の傭兵団は近隣諸国にその名を知られるほど強くなり、引く手あまたとなってしまった。

 そんな中、後にウィングエンの人生を大きく狂わせることになるあの国が、破格の報酬と待遇を提示して王都の警備を依頼してきた。予言の才は持っていなかった彼は、結果的に彼らの最後の雇い主となったその国と契約を結び、かの地に渡った。

 それなりの歴史と国軍を持つその国があえて彼らを雇ったのは、他国に彼らを雇われたくなかったからだった。そのことはウィングエンも承知していたが、まさか傭兵団長の自分に王子つきの近衛騎士になってくれないかと打診してくるとは想像だにしていなかった。

 もちろん、ウィングエンは断ろうとした。請け負ったのは王都の警備であり、王子の護衛ではない。

 だが、当時の宰相は、終始一貫穏やかに、最初はとにかく一度会ってほしい、最後にはさもなければ彼の傭兵団との契約解除も辞さないと圧力をかけてきた。

 雇用先には事欠かないが、これほどの高報酬・好待遇は望めないだろう。ウィングエンは自分の傭兵団のため、その王子との謁見を渋々ながら承諾したのだった。

 当時の国王にはやたらと王子・王女がいた。それだけ側妻の数も多かったということだがそれはともかく、何番目かもさだかではないその王子は、なぜか王宮内の後宮ではなく、王宮から離れた堅牢な屋敷にいた。

 王子が住んでいるにしては簡素な大広間で一人待たされていると、乳母というより魔術師のような装束をした白髪の老女が、その王子の手を引いて現れた。

 まだ五歳になったばかりの幼児だった。ここの王族に典型的な金髪金目で、王子ではなく王女ではないかと疑いたくなるほど愛らしかったが、その表情はウィングエンを見てもまるで人形のようにまったく動かなかった。

 やはり、自分は何かとんでもない厄介事を押しつけられようとしている。ウィングエンがそう思った、まさにそれを嘲笑うかのように、最初の厄介事は降りかかってきた。

 たった三人しかいない大広間の一角に、魔物が一頭、幽霊のように現れたのだ。

 対魔物の専門家と言えば、一般的には魔術師である。しかし、ウィングエンの傭兵団にいる魔術師たちのもっぱらの仕事は、気休めのまじないと心強い医療行為だった。魔物に対してはほぼ役立たずである。

 魔物はしいて言うなら大熊に似ていた。とまどったように周囲を見回していたが、ウィングエンたちが視界に入ったとたん、自身が魔物であることを思い出したかのように咆哮し、二本足で立ち上がった。

 ウィングエンはまず王子たちを退避させることを考えたが、王子も老女も驚いた顔一つしていない。奇妙には思ったが、それよりこの魔物をどうにかすることのほうが先決だった。ウィングエンは剣を抜くと、それに己の気をはらませ、魔物に向けて振り払った。

 魔物は現れた場所からまだ一歩も動いておらず、ウィングエンとは十歩分ほどの距離があった。が、魔物の上半身と下半身はきれいに分断され、魔物がそのことに気づいたときにはその場から消え失せていた。出現したときと同様、突然に。

 甲高い笑い声が室内に響き渡った。

 剣を握ったままウィングエンが振り返ると、あの小さな王子が別人のように楽しげに笑っていた。

 正直言って、魔物に吠えられたときよりぞっとした。老女もそう思ったのか、怯えたように王子を見下ろしている。


「噂以上だな、ウィングエン」


 舌足らずな声で、しかし尊大に王子は言った。


「剣を汚さず切る男。これからは怪我人の数も掃除の数も激減するだろう」

「はあ?」


 相手が幼児でも一国の王子であることをすっかり忘れてウィングエンは黒い目を眇めた。


「掃除? いったい何の話だ?」


 だが、彼の問いに答えたのは王子ではなく、冷静さを取り戻した老女だった。


「エイシェル王子は強大な魔力をお持ちです。ですが、まだ幼くていらっしゃるので、その制御をうまく行えず、今のように無意識に魔物を召喚してしまったりするのです」


 再び、ウィングエンは声を上げた。


「はあ?」

「死体なら飛ばすことができるのだが」


 少しだけ、王子は決まり悪そうな顔をした。


「だから、私が誤って魔物を召喚してしまったときには、おまえが今のように一刀両断しろ。周りを血や臓物で汚さないようにな」


 宰相の話では、一度でもこの王子と会えば、近衛騎士の件は辞退してもいいはずだった。しかし、王子の中では、ウィングエンが近衛騎士になることはすでに決定事項となってしまっているらしい。何か言ってやろうとウィングエンは口を動かしたが、どうしても適当な言葉が思い浮かばず、とりあえず剣を鞘に収めた。

 かくして、傭兵団長ウィングエンは、この幼児離れした王子の近衛騎士をなりゆきで務めることになってしまった。

 もっとも、本当に騎士になったわけではなく、正式な肩書は相変わらず傭兵団長のままだった。宰相や王子は彼を騎士にしたがったが、ウィングエンは頑なにそれだけは固辞しつづけた。内心、傭兵団に縛られることもよしとしていなかった彼にとって、国家に縛られることなど論外だったのである。

 だが、生まれてすぐに母を亡くし、その桁はずれな魔力のため、王宮外の屋敷に幽閉されて宮廷魔術師たち――あの老女はその一員だった――に監視されている王子には、少なからず同情心を持っていた。

 老女によると、もともとここの王室は魔術師を輩出した家系らしい。しかし、代を重ねるごとにその数や質は落ちていった。今の王族であの王子以外に微弱ながらも魔力を備えている者はごくわずかであり、それゆえに王子は恐れられ、またひそかに敬われているのだという。すなわち――始祖の再来と。

 例の魔物召喚は王子が心を乱すと起こりやすいようだった。だから努めて平静を保つようにしていたのだが、初めておまえと会ったとき、つい興奮してしまったのだと、後に王子は恥ずかしそうに打ち明けた。


「あの伝説の〝無血剣〟の傭兵団長が、こんなに若いとは思わなかったんだ」


 ウィングエンが屋敷に住みこむようになってから――いつ魔物が召喚されても切れるよう、そうせざるを得なかったのだ――王子は感情を押し殺すことをやめた。蜂蜜によく似た金色の目を輝かせてウィングエンを見つめる。自分が伝説になっていたことなど、それまでウィングエンはまったく知らなかった。


「若いって、俺は殿下の父親でもおかしくない年ですよ」


 いくら幼くても相手は王子である。ウィングエンは自分のできる範囲内で敬語を使っていた。


「……隠し子がいるのか?」

「いませんよ。っていうか、あんた、本当に五歳児ですか?」

「さすがに生まれた日のことは覚えていないが、周囲が口をそろえて言うからそうなのだろう」


 この王子は魔力だけでなく、知力も尋常ではなかった。何とか魔物に対応できる精鋭の宮廷魔術師たちを家庭教師がわりに、ウィングエンにはとうてい理解不能なことを、毎日熱心に学びつづけていた。


「十五になったら、王位継承権を放棄して、旅の魔術師になるのだ」


 ある日、何の気なしにウィングエンが将来の夢を訊ねると、王子は間食の焼菓子を食べる手を止めて、このときばかりは子供らしい無邪気な笑顔を見せた。


「旅の魔術師……ですか」


 予想外すぎて、それ以上言葉が続かなかった。


「そうだ。いろいろなところに行って、いろいろなものを見て回りたい。特に見たいのが〝世界の果て〟だ」

「世界の果て? ……大陸の果てですか?」

「そこは果てではない。その先には海がある。……私はまだ見たことはないが」

「俺は海は見ましたけど、海の向こうには行ったことはないですねえ……」


 特に何も考えずにそう呟いたところ、また魔物を召喚されてしまうのではないかという勢いで、王子が彼の顔を覗きこんできた。


「ウィンはあるのか!?」

「ありますよ」


 たじろぎながらもウィングエンは室内に目を走らせた。

 彼の本来の仕事は王子と会話することではなく、召喚された魔物を即座に切り捨てることである。


「何と言うか、でっかい湖みたいでしたね。……湖も見たことないですか?」

「……ない」

「そうですか」


 一転して沈みこんでしまった王子に対して、ウィングエンは旅の魔術師になったら見られますよと気軽に言うことはできなかった。

 実質、傭兵団長ではなくなってしまったウィングエンだったが、その支配力は健在で、団員たちにあらゆる情報を収集させ、この屋敷まで定期的に報告させている。その中には、ここにウィングエンを〝斡旋〟した宰相が実は王子の亡母の遠戚で、この屋敷も彼が手配したものらしいというのも含まれていた。

 ただ単に遠戚のよしみでそこまで肩入れしているわけではないだろう。将来的には初代国王のような〝魔術王〟の遠戚となり、彼を介して国を動かしたいと考えているに違いない。

 いずれこの国を離れよう――そのときには身一つで行こう――と考えているウィングエンにとって、それはどうでもいいことではあったが、そんな自分と同じような夢を抱いている王子を見ていると、つい哀れみのようなものを覚えてしまう。


「ウィン」

「はい」


 王子は上目使いでウィングエンを見てから、また下を向いた。


「私が旅の魔術師になったら……おまえが私の護衛をしてくれないか」

「……は?」


 ウィングエンはあっけにとられて、ただでさえ小さな体をよりいっそう小さくしている王子を見下ろした。


「傭兵は戦争だけでなく、護衛もするんだろう?」


 相変わらずうつむいたまま、じれったそうに王子が言う。


「はあ……まあ……それはしますが……」


 はたして十年後、自分はまだ傭兵を続けているだろうか。

 それより何より、この王子は旅の魔術師になれているだろうか。


「でも、報酬がなければ、戦争も護衛もしませんよ」


 とにかく何か言わなければと内心あせっていたウィングエンは、ふとそのことを思いついて口に出した。


「報酬か」


 うっかりしていたとでも言いたげに王子が顔を上げる。


「一日いくらだ?」

「一日……」


 真剣に問われて、ついウィングエンは今の報酬を日割り計算しかけたが、すぐにそんな金額は無意味だと思い直した。


「時価です」

「時価!?」

「そのときになってみないとわかりません」

「そうか……それもそうだな」


 ウィングエンの苦しまぎれの言い訳に、それでも王子は納得したようにうなずく。


「それでは、今から金を貯めておかないと」


 ここに幽閉されている王子がどうやって金を貯めるつもりなのか興味はあったが、これ以上この話題を続けたくなかったウィングエンは、頑張ってくださいと言うだけに留めた。

 ウィングエンが王子のエセ近衛騎士となってから半年も過ぎると、魔物が強制召喚されることはほとんどなくなった。魔力の制御とやらができるようになったらしい。そろそろ自分は御役御免になりそうだと思った矢先、今度は王子に剣術を教えてくれとせがまれてしまった。


「俺は王族のことは知りませんが、それ専門の先生について習うんじゃないんですか?」


 ウィングエンとしては、それで婉曲に断ったつもりだったのだが、この五歳児離れした五歳児に口でもかなうはずがなかった。


「だから、おまえに頼んでいるんだろう。おまえは実戦の剣の専門家じゃないか」


 だが、周囲は反対するだろう。ウィングエンは世話係の老女にこのことを伝えてみたが、反対どころか逆にお願いしますと言われてしまった。


「殿下には魔術以外にも身を守る術が必要です」


 それにはウィングエンも否やはなかったが、何も傭兵の自分から習う必要はないだろう。そう思いつつも実は暇を持て余していたウィングエンは、結局王子に本当に実戦向きの剣術を教えはじめた。

 さすがに王子は腕力は普通の五歳児並みだった。魔力を使えば大人用の剣でも扱うことができたが、それはウィングエンがあえてやめさせた。魔力が使えない場合でも対処できるように。

 できることなら、自分の体力の続くかぎり、この異例ずくめの王子の護衛をしてやりたい。しかし、それは絶対にかなわないことだ。それなら今の自分が教えられることはすべて教えていこう。ウィングエンはそう割り切ることにしたのだった。

 ウィングエンがその国に滞在していた間で、この時期がもっとも平穏で充実していた。彼には確固たる目標があり、王子は自分の夢の実現を信じていた。


「〝果ての果てに果てはあり、果ての果てに果てはない〟そうだ」


 あるとき、どこから入手したものか、大陸の地図を眺めながら王子が言ったことがある。


「何ですか、それは?」

「暁教団の聖典、『暁の書』の中の一節だ。ようするに、果てだと思ったところにたどりつけたらそこはもう果てではなくなる。果てとは永遠にたどりつけない場所だということだ」

「……それならそうと、素直にそう書けばいいのに」

「それをしないのが暁教団なんだ」

「しかし、それだと〝世界の果て〟も永遠に見られないってことになりませんか?」

「うむ。実は今のへそ曲がりな一節には、まったく真逆の解釈もある」

「真逆?」

「果てだと思えばそこが果てだ。その先に果てはない」

「……本当にへそ曲がりですね」


 ウィングエン自身には、〝世界の果て〟に対するこだわりはなかった。具体的にどこがそうなのかわからなかったし、実際、それを見られたとして、だから何だと言うのだろう。

 だが、もし王子にここが〝世界の果て〟だと宣言されたら、自分は迷いなく同意する。そのとき彼は満足げに笑っているはずだから。

 旅の魔術師ではなく旅の魔術剣士もいいかもしれないな、などと王子がうそぶくようになった頃、心地よい日だまりのような日々は唐突に終わりを迎えた。

 ウィングエンは王宮に呼び出され、国王――あの王子と同じ金髪金目だったが、顔は似ていなかった――から、契約内容の変更を一方的に伝えられた。

 王都の警備から、国境の警備へ。

 驚きはしなかった。昨今、隣国との関係が急激に悪化していることも、王都の警備があくまで名目上であることも知っていた。ことに、王都の警備に関しては、その本来の担い手である騎士団との軋轢が絶えず、ウィングエンは決して揉め事は起こすなと部下たちに再三言い含めていたのである。

 それを考えれば、自分たちは王都を離れたほうがいいのだろう。ウィングエンは報酬の上乗せを条件に、その契約変更を受け入れた。

 ウィングエンの決断に、傭兵団の幹部たちも異は唱えなかった。しかし、屋敷への情報伝達係をしていた団員の一人は、思わしげな目をウィングエンに向けた。


「でも、団長。いいんすか? あの王子様を残して行っちゃって?」

「残すも何も、あの王子はここの人間だろうが」


 ウィングエンは呆れてその団員を見やったが、言葉遣いは怪しくても有能な青年は表情を変えなかった。


「そりゃそっすけど、あの王子様は団長にずいぶん懐いてたみたいだったから。団長がここを離れるって知ったら、大泣きしちゃうんじゃないですかね」


 あの王子の泣き顔などウィングエンにはまったく想像できなかったが、別れを切り出しにくいことは確かだった。一度この王都を離れたら、もう二度と彼と会うことはないだろう。

 いったい何をどう話せばいいものか。こういう方面にはとんと弱い頭を悩ませながら馬を駆って屋敷に戻ると、すっかり顔なじみとなった門番たちがほっとしたようにウィングエンに駆け寄ってきた。


「ウィングエン殿! ちょうどよいところに!」

「どうした?」

「先ほど王太子殿下がいらっしゃって、殿下に面会を求められたのです! 不審には思いましたが、お断りするわけにもいかず、そのまま中に……」

「王太子?」


 夢にも思わなかった名前を出されて、ウィングエンは一瞬呆けた。

 自分よりやや年下の王太子――金髪金目ではなく、茶髪茶目だった――とは、これまで一度しか顔を合わせたことがなく、言葉も交わしたことがない。今日、国王に謁見したときにも、例の宰相は同席していたが、王太子は不在だった。

 ウィングエンたちを雇い入れることに最後まで反対していたのが王太子だそうだから、そのような対応をされても不思議ではない。が、彼が年の離れた異母弟にわざわざ会いにきたというのは明らかに不自然である。

 ウィングエンがここに来る前も来た後も、国王をはじめ他の王族たちが王子を訪ねてきたことは皆無だった。もちろん王太子もだ。

 それがなぜ今突然に。それもウィングエンが王子のそばを離れたときを狙いすましたかのように。


「とにかく中に入る。馬を頼む」

「は、はい」


 ウィングエンは馬から降りると、門が完全に開ききる前に敷地内に入り、屋敷に向かって疾走した。

 屋敷の入り口の近くには、王家の紋章つきの四頭立ての馬車が停まっていた。王太子の馬車だろう。御者が一人残っていたが、ウィングエンに気がつくと、ぎょっとした顔をして御者台に身を伏せた。切られるとでも思ったのだろうか。

 しかし、ここでこの御者に詰問するより、屋敷内で使用人か宮廷魔術師たちに質問したほうが早い。ウィングエンは御者を無視して、屋敷の重厚な玄関扉を開けた。


「……何だ、これは」


 見ればわかる。だが、そう声に出さずにはいられなかった。

 玄関ホール。廊下。階段。

 各所に血塗れの人間たちが倒れている。

 ウィングエンは自分のいちばん近くに倒れている男のそばにしゃがみこむと、すでに事切れていることを再確認した。

 ここの使用人の一人だった。初老の陽気な男。しかし、その顔は恐怖と苦痛で歪みきっており、その目は限界まで見開かれている。体を調べると腹を大きく切り裂かれていた。刀傷。まだ乾いていない血や体の硬直具合からしてそう時間は経っていない。

 男の目を閉じさせてから、ウィングエンは立ち上がり、静かに剣を抜いた。

 行き先は決めていた。抵抗らしき抵抗もできないまま切り捨てられた使用人や宮廷魔術師たちの死体を避けながら、そこに向かって歩いていく。

 やがて、ウィングエンは両開きの扉の前に立った。

 壊れたら弁償しますからと心の中で呟き、垂直に剣を振り下ろす。

 その切っ先は触れてはいなかったのに、扉は目に見えない誰かに押されたかのように一気に開け放たれた。それでわかったのだろう。決して聞き違えることのないあの声が彼の名を呼んだ。


「ウィン!」


 ご無事ですかとはウィングエンは問わなかった。

 あのとき、この大広間で世話係の老女に手を引かれていたあの王子は、今は王太子に抱きかかえられており、あの老女は屈強な騎士に抱えこまれて、首筋に剣の刃先を押しあてられていた。

 他に騎士が三人、いつでもウィングエンに切りかかれるよう、油断なく身構えている。


「少々待ちくたびれたぞ」


 ほどほどに整った顔に下卑た笑みを浮かべて王太子は言った。


「もう少し早く戻ってきてもらってもよかった」

「ウィン! ウィン!」


 暴れたら老女を殺すとでも脅されているのだろう。王子は王太子の腕の中で声だけを張り上げた。


「おまえがここを離れて国境に行くと聞いた! 本当か、ウィン!」

「……本当です」


 正確には、国境に行く予定だった、かもしれない。自分がここに戻ってくるのを待っていたという王太子の今の言葉で、ウィングエンは彼の邪悪な魂胆を悟った。もしかしたら、この王太子が国王に、ウィングエンたちを国境の警備につかせるよう進言したのかもしれない。


「そうだ! おまえは国境に行くことになっていた!」


 王太子は王子の小さな口を片手で覆うと、王族とは思えない下品さで哄笑した。


「だが、こやつの魔力に目をつけていたおまえは、その前にこやつをさらって逃亡しようとした! そのために屋敷中の人間を切り殺したが、たまたま居合わせた我らによって討ち取られた! そんなおまえが率いていた傭兵団員は、当然一人残らず死刑! 我らはもうおまえたちに無駄金を払わずに済むというわけだ!」


 ――王子の魔力に目をつけていたのはおまえのほうだろう。

 狂ったように笑う王太子に、ウィングエンは醒めた眼差しを向ける。

 その先の計画も簡単に想像がついた。あの宰相の代わりに、自分が王子の庇護者になる。そして、王子の魔力を自分のために利用する。

 王太子に口をふさがれてしまった王子も、剣を押しあてられて何も話せない老女も、潤んだ瞳でウィングエンを見つめていた。

 ――せめて、この二人だけでも助けたい。

 ウィングエンがそう考えたのを見透かしたように、ふと王太子は茶色い目を細めた。


「しかし、ウィングエン。おまえのその魔術のような剣技、失わせるには実に惜しい。この場で私に永遠の忠誠を誓うなら、この一件は適当に揉み消し、おまえの傭兵団は国外追放で済ませてやろう。もちろん、この女の命も助けてやる」


 傲岸に顎で指されたその瞬間。

 恐怖に震えていたはずの老女が、ウィングエンを見て柔らかく笑んだ。

 嫌な予感がした。

 だが、ウィングエンが声を発するより早く、老女は剣に首を押しつけた。


「アイネ!」


 王太子の手を振り払って王子が叫んだ。それがその老女の名前だった。

 どれほどの決意がこめられていたのだろう。アイネと呼ばれた老女の首は胴体を離れて床を転がっていた。

 それで覚悟を決めた。

 ウィングエンは反転すると、呆然としている三人の騎士を剣を汚さず解体した。老女の体を抱えたままの騎士は見逃したのは、たとえ死体となっても彼女を切り刻みたくはなかったからだ。


「断る」


 顔色を一変させた王太子をねめつけながら、ウィングエンは毅然と言い放った。


「俺の主君は、後にも先にもエイシェル王子殿下ただ一人。おまえに下げる頭など持ち合わせてはいない」


 ――逃げよう。

 このとき、本気でウィングエンは思った。

 頭も心も腐っているこの王太子の言うとおり、ここから王子を――エイシェルをさらい、彼が見たがっていた〝世界の果て〟まで逃げつづけよう。邪魔する者は、王族だろうが仲間だろうが、すべて殺す。

 騎士が老女の体を廃材のように床に打ち捨てた。まずはこいつだ。近くにいるエイシェルを誤って傷つけないよう、ウィングエンが剣を血で汚して切ろうとした、まさにそのとき。


「ウィン!」


 彼の幼い主君の制止。しかし、それは間に合わず、ウィングエンはすでに騎士の首を切り飛ばしていた。


「ウィン! もういい! アイネの死を無駄にするな! アイネは私のためではなく、おまえのために自決したのだ!」


 ウィングエンは動きを止め、無表情に呟いた。


「……俺?」

「そうだ! おまえを自由にするために! ここから解放するために! ウィングエン! おまえが本当に私の騎士ならば、〝世界の果て〟で私を待て! 私も必ずそこに行く!」


 なぜと問おうとした。なぜ今自分を連れて逃げてくれと言ってはくれないのか。騎士たちを全員殺された王太子はすっかり色を失い、自分の心臓を守るかのようにエイシェルを抱えこんでいるが、その足元はがら空きである。

 だが、エイシェルは泣きながら首を横に振った。まるで彼の心の声が聞こえたかのように。初めて見たエイシェルの泣き顔は静謐すぎて、やはり五歳児らしくないなとウィングエンはぼんやり思った。


「誰にもおまえを追わせはしない」


 エイシェルがそう言った、とウィングエンは草地に投げ出されていた。


「……え?」


 わけがわからなかった。すぐに起き上がろうとしたが、ふとその気をなくして仰向けに横たわり、澄みきった青い空を眺めた。

 そういえば、あの国に雇われてから、こうして空を見上げたことなどほとんどなかった。

 たいていの場合、下を向いて、楽しげに笑うあの小さな顔を見ていた。


「ああ、そうか」


 ウィングエンは独りごち、ようやく上半身を起こした。


「死体じゃなくても、飛ばせるようになってたのか」


 魔法円もなしに無詠唱で転移魔法を使える魔術師はグランド・マスター以上だと、あの老女が自慢げに言っていたことがある。

 しかし、そんなことができなくても、ウィングエンはエイシェルをずっと守ってやりたかった。一緒に世界を見て回りたかった。

 周囲を見渡すと、黒々とした森が広がっていた。まったく見覚えがない。ここはいったいどこなのか。


「でもまあ、〝世界の果て〟ではねえんだろうなあ……」


 血で汚れた剣を杖がわりにして、ウィングエンは草むらから立ち上がった。

 結局、一年足らずしか共にいられなかったあの王子は、このような形でウィングエンを傭兵団からもあの国からも解放してくれたのだった。

 それから七日後。

 急逝した国王の後を継いだあの王太子は、国名を〝ラリオン王国〟から〝ラリオン帝国〟に改め、手始めに隣国を攻めて属国とする。

 これにより、ウィングエンの傭兵団はさらにその名を世間に知らしめたが、即位前の王太子を知る者たちは陰でこう囁きあった。

 ――まるで別人になったようだ、と。

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