第33話 束の間の平和



「酷い目にあった……」


 身体にバスタオル一枚だけを巻き付けたまま、洗面所の前に佇んでいた。

 鏡に映る虚ろな蒼い瞳が風呂場での惨劇を雄弁に物語っているようで、そっと目を逸らす。

 全身の隅々まで洗われて、可愛いのなんのと男としての尊厳をゴリゴリと削られる言葉をかけられ続けた結果がコレだ。

『呪魔』と命懸けで戦うよりも余っ程精神をすり減らしていると思う。


「あーほら動かないで」


 陽菜の声で俯きつつあった顔を上へと戻すと、再びドライヤーの温かな風が濡れた髪に吹きつける。

 時間をかけてしっかりと乾かし終えた髪をプラスチック製の櫛を通して梳かす。


「これからも教えた通りにやるんだよー」

「わかってるわかってる」

「ホントかなぁ」


 コレを続けられるよりは自分で出来るに越したことはない。

 主に俺の精神力的な問題で、だけど。

 とはいえ、髪の艶や質感が心做しか良く感じるのも事実だ。


「……まあ、なんだ。ありがとう」

「っ、お易い御用だよ! なんならこれからも陽菜に任せてくれても――」

「それはない」

「えーっ!」


 露骨に残念がる陽菜を背に、ふと鏡に映る自分の姿を見た。

 降り積もった新雪のように真っ白な長い髪。

 澄み切った空の如き蒼い瞳はサファイアを思わせる綺麗な色だ。

 瑞々しくハリのある肌は色白で日に晒すことは躊躇われる。

 小柄な体躯は正しく少女のそれであり、胸元では控えめながら二つの膨らみが存在を主張していた。


 思わずため息が出てしまう無情な現実である。

 これが他人ならば美少女だなと言えたものだが、自分にそんな評価をしようとは思えない。

 中身自体は男なのだから。

 少なくとも、俺はその意識を捨て去ることは出来ないだろう。


「――先輩、着替えを持ってきました」

「あっ、海涼ちゃんありがと!」

「よりどりみどりでつい時間がかかってしまいました」


 先に風呂からあがっていた海涼が俺の着替えと称して持ってきたのは、部屋着として買っていたワンピース風の服だった。

 無駄に布地がヒラヒラしてるし、リボン多いし、何より丈が短いし。


「……いや、自分で選んでくる」

「先輩は私が選んだ服は嫌だと、そう言いたいんですね?」

「別にそうは言ってない――」

「じゃあこれで良いですよね?」

「……はい」


 なんかこう、一歩も引かないって強い意志を感じて逃げられないと悟ってしまった。

 家の中で着るなら別にいいかと無理やり納得して、海涼から服を受け取る。


「着替えるからリビングで待っててくれない?」

「散々お風呂で見てるんですから、今更気にするのは野暮というものでは?」

「野暮でもなんでもいいから!」


 居座る気は始めからなかったのか、手を払うと二人は脱衣場から出ていってくれた。

 深いため息がついて出る。

 二人に悪気がないのはわかっているけれど、これくらいは見逃して欲しい。

 気持ちをリセットするスイッチ的なやつなのだ。


 バスタオルを解いて下着を履き、ワンピースに袖を通して深呼吸。

 髪を軽く直し後ろの方をヘアゴムで緩く一つに束ねた。

 そして、二人が待つリビングへと戻るのだった。


「わあ! 凄い似合ってる!」

「とても可愛いです」

「そりゃどうも」


 リビングに戻るなりかけられた言葉を流しながら、無人のソファへ腰を下ろす。

 裾を正して一息つくと、テーブル側に座っていた二人もこちらへ寄ってきた。

 そして俺の右へ陽菜が、左へ海涼が座り、余白を埋めてしまう。


「もーそんな警戒しなくてもいいのにー」

「警戒するだけ無駄だって。単にこっちの方が近いからだよ」

「そうですかね。私たちが来てしまったので関係ないですけど」

「意味ないじゃん」


 そう言いつつも、本気で拒絶したりはしない。

 なんだかんだこうしている時間は心の安息になるものだ。

 ついぞ叶わなくなってしまった家族団欒……それをふと思い出す。


 呪いと関係を持たずに平和に過ごしていた世界線、なんてものがあったのかもしれない。

 それは確かに楽しく、幸せな生活だろう。


 ――けれど、そこに二人の姿はない。

 二人だけでなく、呪術師であるから知り合った数々の人との繋がりは泡のように消えてしまう。


 二つを天秤に掛けたら、どちらが大切かなんて決められそうにない。

 だから今ある幸せを守りたい、そう願うのは自然なことだと思う。


「……はるちゃん?」

「ん、ああ。ちょっと考えごとしてた」

「そっか。こうしてぼーっとするのも久々だもんね」

「先輩は日頃からぼーっとしてる気がしますけど」

「そりゃないよ」


 束の間の平和に浸るくらい許してくれ。






 ▪️




 赤褐色の天蓋、呪いによって澱んだ空気が蔓延る世界――『呪界』。

 ここはある呪が根城としていた山の中。

 常人であれば身を呪いに侵され死に至る世界で、二つの人影が蠢いていた。


 ――さらにいえば、左半分のペストマスクの男が襤褸を纏った老人の首を締め上げていた。


「なに、を、する……っ、にん、げんッ!」

「何ってわからないのか? お前を殺そうとしてんだよ」


 ペストマスクの男は嘲笑を浮かべながら、さらに両手に力を込めた。

 枯れ木のような老人の首が軋みくぐもった声を漏らす。

 老人は呪いの集合体――『呪魔』でありながら人間の男に対して後塵を拝していた。


 老人にしてみればあってはならない出来事。

 ましてや周辺の『呪魔』を束ねる頭領であったのならば尚更だ。


「ほら、命乞いでもしてみるか? 俺の気が変わるかもしれないぞ」

「ふざけおって……ッ! 貴様、契約を破ってタダで済むと思って――」

「――そんなのもあったなぁ。まあ、一切合切奪ったが」


 事も無げに男が言ってのけた。

 合意を得た両者の間で交わされる絶対遵守の決まり事、それが契約。

 一方的な破棄はまず不可能で、破れば契約と等価の呪詛返しが襲う呪術。

 それは時に死をも齎す。


 しかし、男はそれすらも己の呪いで貪り喰らい、正式な手順を踏んで破棄してしまった。

 故に男が老人を生かしておく理由がない……否、順序は逆。

 殺さねばならない理由ができたから、男は契約を破棄した。


「悪いがアレを殺すのに契約が邪魔でな。虫唾が走るんだよ……クソみたいな正義を振り翳すクソガキが」


 奪われた何かが目の前にチラつくようで。


 奪った呪いが殺せと頭の奥で声を上げて。


 もう、気が狂って死にそうだ。


「呪ってもいいぜ。誰もお前を恨まないし、俺もお前を恨まない。遍く呪いは全て――俺のものだ」


 ぐちゃ、と。


 握り潰された老人の首が黒いモヤへ姿を変え、残された胴と頭がひび割れた地面へ転がった。

 あまりに呆気ない死に様。


 然して、呪いは紡がれる。


「――っ、流石に重いな」


 顔を顰めながら、右頬の黒い痣を手で摩る。

 黒く、黒く染まったそれは、酷く不気味で不吉な気配を濃厚に漂わせていた。

 しかしながら、男の口は愉悦が滲んだように薄く笑みを湛えていた。


 ――なにか、忘れている気がする。


 失くしたピースによって虫食いになったパズルのような違和感。

 それがどんなものか、いつ失くしたのかまるで思い出せない。


 けれど、ああ。


 ――どうでもいいか。


 腹が減った。


 力を蓄えなければ。


 呪いを、喰らえ。喰らえ。喰らえ。


 幸い、飢えることはないだろう。


 世界に呪いは溢れているのだから。

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