二 初恋、レイリー散乱、水平線

 やがて海の向こうから、電車がやってきた。

 古い車両だ、と一目見て思う。くすんだ鈍色の車体は機関車みたいな重厚感があった。長方形の二つの窓を持ち、頭部に大きなライトをつけたデザインは今の時代ではなかなかお目にかかれない。

 警笛もアナウンスもなく、電車は静かに速度を落とし、身震いしながらドアを開けた。

「それじゃあ、行きましょうか。最後の夏を過ごしに」

 車内へと足を踏み出す悠乃に、僕も続いた。まだ完全に納得できたわけではなかったけれど、僕が今際の際に願ったという内容には、我ながら頷ける部分もあった。

 横一列の座席に座ると、電車が揺れて、ゆっくりと身体に慣性がかかる。窓から水平線を見つめながら、僕はかつての記憶を呼び起こした。


 高城悠乃は、僕の初恋の人だった。いや、初恋なんて言葉では言い表せないほど、十二歳の僕にとっては自分の片割れみたいな存在だった。

 僕たちは同じクラスで、似たもの同士だった。思春期の入り口に立った同世代の中でも僕たちは比較的早熟で、有り体に言えば、ませた生意気な子どもだった。ただ、僕のほうが少しだけ猫を被るのが上手くて、クラスメイトや教師にいい顔をするのが得意だった。悠乃の方は頭の良さを隠そうともしないために、周囲から煙たがられているのがいつも歯がゆかった。

「空が青いのと、海が青いのは、それぞれ違う理由なんです」

 世界の秘密を打ち明けるみたいに、ある日彼女は僕に言った。

「空が青いのは、レイリー散乱によるものです。簡単に言えば、太陽の光にはたくさんの色が含まれていますが、その中でも青い光がよく散らばるために、他の色よりも私たちの目によく届くんです」

「海が青いのは?」

「そちらは単純に、水という物質が、青い光以外のすべてを吸収するからです。たくさんの水があるところでは、青い光だけが反射されて集まり、青色として映ります」

「いまいち違いがわからないな」

「そう言うと思いました」

 神妙な顔つきで、彼女は人差し指を立てた。

「つまり、和哉くんにはたくさん友達がいますが、とりわけ私がクラスメイトの中で悪目立ちするために、私と最も仲が良い。それに対して、私は和哉くん以外の友達がいません。だから必然的に、友達といえばあなたになるわけです」

 これが空と海の青色の違いです、と彼女が言う。

 空が僕で、海が悠乃。僕には彼女以外の色の光もたくさん手に入るけれど、彼女にはそもそも僕しかいない。

「要するに」と僕は考えながら彼女の言葉を噛み砕いてみる。

「きみは空と海で、青色の重要性が違うことが不満なんだな」

 悠乃はぱちぱちとまばたきして、それから恥ずかしそうに目を逸らした。

「和哉くんは、私の言葉を翻訳するのが上手ですね」

「僕は理科よりも国語が得意なんだ」

「私と正反対です」

 僕は彼女に微笑みかけた。口をとがらせる彼女が可愛くて仕方がなかった。

「心配しなくていい、僕たちは同じ穴のムジナだ」

「ムジナってなんですか?」

「動物の名前だよ。タヌキと同じ穴に住みつくことから、こういう言葉が生まれたらしい」

 さっきとは逆に、今度は僕が悠乃に教える。いつもと変わらない確かな関係性を僕はなぞる。

「つまり僕たちは同類ってことさ。確かに僕には友達が多いけれど、情けないことに本当に話が合うのは、心を許せるのは、きみだけなんだ。空と海が青色である理由は、結局のところ同じなんだ」

 言葉を区切りながら気持ちを込めて言うと、悠乃は屈託のない笑みを浮かべた。

「もしそうだとしたら私、どちらの青色も好きになれそうです」

 僕たちはそんな風に不格好に大人ぶりながら、臆病に心を慰め合い、絆を深め合っていた。

 自分には彼女がいればいい。頭の固い先生も、うるさい両親も、レベルの低い同級生もいらない。恋を恋とも知らない十二歳の少年は、本気でそんなことを思っていた。


 でも実際には、僕なんて所詮少し賢しい程度のガキに過ぎなくて、心の内で見下していたクラスメイトたちと精神的な脆さはまるで変わらなかった。

 夏になったら一緒にお祭りに行こう。

 そう約束していた悠乃が何も言わずに学校を去ったのは、六月のことだった。


「この電車はどこに向かっているんだ?」

「さあ、わかりません」

 暑いのか、悠乃は肩まで伸ばした髪をかきあげて言った。五年前はショートカットだったから、そんな何気ない仕草も新鮮に映る。

「きみも知らないのか」

「私は呼ばれてここにいるだけですから。この世界については最低限の知識を持っているだけなんですよ」

 どことなくつれない彼女の態度に、僕は少し不安になる。悠乃はいったい僕のことをどう思っているのだろう? 五年前に仲良くしていたというだけの男子に、死の淵の願いで呼び出されて、内心は迷惑に感じていないだろうか?

 そういうあまり良い流れではない思考の末に、浮かんでしまった疑問だった。

「少し、気になることがあるんだが」と僕は切り出した。

「なんでしょう」

「きみは本物の高城悠乃なんだろうか? それとも、僕の頭が作り出した虚像という可能性はあるだろうか?」

 悠乃は眉をぴくりと上げて、硬い声で答えた。

「それは重要な違いでしょうか?」

「わからない。もしかしたらそこに大した差なんてないのかもしれない。でも、もしきみが本物の悠乃だとしたら、あまりに申し訳が立たない。ここは死後の世界なんだろう。そんなところに生きているきみが来て、無事に帰れる保証はあるのか」

 僕が言うと、悠乃は俯いてしまった。スカートの裾をぎゅっと握りしめるその反応は予想していなくて、フォローしようと言葉を続けようとしたとき、彼女は震える声で言った。

「いいじゃないですか。私が本物でも偽物でも、こうして今だけはあなたの隣にいるんですから。どうせそれを区別する方法なんてないんです。少なくともここにいる私は、あなたの願いに協力しますよ」

 僕は押し黙ることしかできず、相変わらず水平線ばかりの車窓を見つめた。

 正確には、状況証拠を集める手段はあった。五年前のあの日、彼女がいなくなってしまった理由を尋ねればいい。あの日から何百回と自問してきたことに、納得できる答えが返ってきたならば、きっと彼女は本物だ。

 でもそんなことができるほど、今の僕たちの距離は近くなかった。神様の魔法で繋がったのは表面上だけで、五年という月日は確かに僕らの間に、厳然として横たわっていた。

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