3:富士崎・旭

 自分は、軽く息を弾ませながら、

 ……そうか、七年前に。

 生じた納得に膝を打つ。

 館で起こった出来事について、二人はそれぞれ当事者なのだ。

 大見倉先生は被害者の友人として。

 巌洞さんは館を調査する者として。

 面識があってもおかしくはない距離感であるし、状況から鑑みるに、実際にあまり良くない接触があったのだろう。

「夏休みの盆明けに、いつものように見舞いに行ったら、病室はもぬけの殻だった! 聞けば、あんたらの紹介で別の病院に移ったってな!」

 だけど、と悔いか哀か、擦れる怒号が、

「言われた病院にあいつはいなかった! おじさんおばさんも、いつの間にか引っ越していなくなっていた!」

 夜に半ば隠れた無言の男に叩きつけられて、

「もう一度聞くぞ! どこに連れていったんだ!」

 襟の締め具合を一段増した。

 もともと鋭利な先生の眼差しが、限界まで引き絞られて、鉄面皮を射抜かんばかりだ。

 けれど、巌洞さんの固い頬は割れず揺らがず、真正面から受け止めるから、

「あの子は無事だ。我々の治療設備で適切な処置をして、今は幸せに暮らしている」

「なら会わせろよ! 本人の口から聞き出してやる!」

「すまないがそれは難しい。先の発言も、こちらの役職としては違反なんだ」

 鏃と鉄兜による、つばぜり合いの様相である。

 いつまで力比べが続くものかとやきもきしていたが、目を閉じて息を長く吐きながら距離を取ったのは、

「……わかったよ」

 先生の方だった。

 襟首から手を放し、戻しざまに自分の手を握りしめる。

 汗がにじんで熱を持った、震える指先は、

「先生?」

 握力の限界からくるものなのか、爆ぜた怒りによるものなのか、自分には想像するしかできない。

 けれども、

「あいつのことはわかった。わかりたくないけど、今はどうにもならないことはわかったよ。だけどな」

 握る手に力がこもって、

「こいつが館に出入りしていて、それであんたがこの街に居るってことは、また何か起きているんだろ!」

 代名詞が多すぎてごちゃごちゃした言いぐさだけど、

「あたしの生徒になにかあったなら、今回こそは逃がさねぇからな!」

 自分を守ってくれていると、守ろうとしていてくれていると、そうわかる言葉だった。

 今まで、自由で攻撃的で奔放だな、と外野席から眺めるスターめいた人であったけれど、実際はすぐ隣に並び立って見つめていてくれる、自分と同じ人間だったのだ。

 人っていうのは、実のところ皆そうなのかもしれない。

 誰もが近くにいて、見て、見返して。

 だとすれば自分は、ずっと蚊帳の外だと信じ込んでいたステージの上で、頑なにうずくまる、役に立たない役者だったのではないか。

 今まできつく閉ざしていたものが、金テコか何かでこじ啓かれた気分だ。

 だから。

 この大見倉という人が自分にとって、かけがえのない教師なのだと気が付けたことを、言葉にするには難しいけれど、すごく暖かいものだと思うのだ。


      ※


「うちの学校、六年前に制服のデザインが変わったの、知っているか?」

 巌洞さんに別れを告げ、その前の話の通り家まで送ってもらうことになった、その車中。

 先生は苛立ちを隠すように沈黙し、自分は感謝を伝えたかったがその沈黙を破るほどの勇気はなく、しばらくどちらも口を開くことはなかった。

 だから、突然の第一声に、うまく反応できなくて聞き入るだけ。

「七年前の事件がきっかけなんだよ。当時はいろいろと報道もされてたから、事件に巻き込まれた、なんて悪い印象を拭い落すためにさ」

 声は、なるべく平静を保つ努力を見せていたけれど、

「記憶がな、そうとうヤバいことになっちまったんだ」

 一瞬で崩れ、揺れ始める。

「元々忘れっぽい奴だったけど、一日会わなきゃ名前を、二日会わなきゃ顔まで忘れる始末でな。まあ、夏休みは毎日病院に顔を出してたよ。夏季補修帰りにな」

 健忘の対象は友人に留まらず、親兄弟や自身の趣味嗜好にまで至ったのだとか。

 正直、恐ろしいと思う。

 機関の彼らが言っていた記憶欠落が生々しい実例を持って示され、我が身に迫っている可能性があるのだと言われているのだ。

 ぞ、と背筋が寒気に粟立つ。

「例の彼氏のことも、彼氏がいた、ってくらいしか覚えてなかったよ」

 自分も、そうなってしまうのだろうか。

 ろくでもない父と母はどうでもいいが、温かさを知れた先生のことも、堤防から見た夜明けの美しさも。

 なにより、富士崎さんとの思い出が。

 お話したことも、身を寄せ合ったことも、夏の陽のような笑顔も、クッキーを食べさせて貰ったことも。

 なにもかもなかったことになってしまうなんて、そんなのは嫌だ。

 なんて悲しいことだろうと、身震いしてしまう。

 先生は、こちらの慄きに気が付いたようで、横目に、

「だから、あの館には近づかないでくれよ」

 眉尻を下げながら、

「お前に、あいつ……旭と同じ目には合ってほしくないんだ」

 優しい心配の言葉は胸を温めてくれて、

「え?」

 けれども、その内に混じった名前が一瞬で熱を奪い去っていく。

「ああ。言ってなかったもんな」

 大見倉先生は、

「例の友達の名前だよ」

 事もなげに懐かし気に、

「富士崎・旭。忘れもしないさ」

 フルネームを告げてくれるから。

 ……ああ、先生。

 自分も絶対に忘れたくないですよ、その名前は。

 大切な気持ちを強く確かめるのは、もしかしなくとも、脳裏に渦巻く様々な混乱から逃げるためなのかもしれなかった。

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