閑話 ティラお留守番の穏やかな時間
「はあ……」
美咲先生が説教している頃、ティラは吐息を漏らしていた。アパートの窓を開け、桟に頬杖を突きながら。
うららかな春の陽に照らされて、目の前には墓地が広がっている。墓参りに来た家族が、楽しげに会話を交わしているのが聞こえた。銀杏の樹からは、ヒヨドリの鳴き声が聞こえてくる。
今日は直哉も古海も学校に行っており留守だ。ティラの後ろでは、例によってミントが猫で遊んでいる。前足を持ってバンザイさせ、二足歩行で歩き回らせて。
「あーあ……」
ティラの口から、また溜息が漏れた。
ティラは悩んでいた。人格分裂に。そして自分がどう進むべきかに。もちろん守護天使を目指したい、なんとしても。しかしそれには問題がある。
――守護天使になる。そのためには、直哉くんを成仏させないと。でも……。
ティラは窓枠に顔を横たえた。
――でもそうすると、直哉くんは天国か地獄に行ってしまい、もう二度と会えなくなる。それにいつまでも現世に留まっていても、結局は地獄行きだわ。あと数か月程度で。
こうして暮らし始めると、最初は意地悪に思えた直哉の行動も、照れ隠しとわかった。口は悪くとも行動は優しく、人を気遣う人間だった。実際、古海のために、自ら術にかかろうと決意してもいる。それに自分の悩みを知って、助けようとも。
直哉と別れたくない。知り合ってまだそれほど経ってはいないのに、なぜこれほど強く直哉に惹かれるのか、ティラは自分でもよくわからなかった。
ならば宿命に従い、天魔になるべきだろうか。自分がこの意識を諦めて天魔に育てば、直哉の強制上天だって天魔の力で防げる。一生添い遂げることが可能になるのだ。
天魔人格に体を乗っ取られるのは嫌だけれど、意識の裏側に押し込められるとはいえ、自分も直哉と暮らすことができる。なんと言っても、天魔は自分自身なのだ。ちょうど今とは逆に、たまにはこの意識が表に出られるだろうし。
――そうして私たちは、永遠に幸せな時を過ごすのよ。
おとぎ話のハッピーエンドのように、それはティラの心を揺らした。空を駆け巡る魔導自転車(バイク)に跨って、屈託なく笑っている未来を想像した。後ろの席には、直哉が跨っている。大空狭しと飛び回るバイクから振り落とされないよう、直哉は自分にしっかりしがみつく。自分は直哉の手に手を重ね、にっこりと微笑んで……。
こんなドン臭い「守護天使カッコ見習い」とは異なり、天魔の自分は、自らの生をおおらかに楽しめるはずだ。
悪夢にうなされたとき、直哉が抱いて落ち着かせてくれているのを、ティラは知っていた。直哉の鼓動を聴くと落ち着ける。自分が消えてなくなってしまう――そんな恐ろしい予感から、わずかの間とはいえ逃れていられる。そんなとき、直哉がそろそろ背中を撫でたり、胸に顔を突っ込んでくるのにも気づいていた。そうやってやせ我慢していることに。
――無理しなくてもいいのに。
不意にそんな考えが頭に浮かんだ。そう、あの世に旅立つのが目標とはいっても、なにも完璧に禁欲する必要はない。そんなことをしなくても、多くの人は天国への道を辿っている。最初の頃は胸を揉んだり飛びかかってきたくせに。もし……もし直哉がベッドで手を伸ばしてきたら……。
――そうなったら、どうなっちゃうのかしら。私、前みたいに直哉くんを拒めるのかな。
頬が熱くなってくる。ティラはそっと瞳を閉じた。
「お姉ちゃん」
ティラのすぐ脇で、声がした。
「あっごめんね。ぼーっとしちゃってた。ご飯食べる? 今、パン焼くから」
「行き場のない死者は、ミントが冥府に送ってあげるの」
「そう……。あなた、冥府の勢力に加担しているんだものね。冥府は天国や地獄、冥界なんかとはまた違うやり方で、死者を弔うんでしょ。……直哉くんを地獄から救ってくれるって言いたいのね」
ミントは無言で頷いた。
「ありがとう……。私が解脱誘導に失敗して直哉くんが地獄に落ちそうになったら、あなたに委ねるわ。連れて行って優しくしてあげてね」
微笑みかけると、ミントは真剣な表情になった。
「お前も来い。
男の野太い声になっている。
「天魔になればお前の人格は裏に隠れ、ただ『見ているだけ』の存在になる。天使になるには、あの男を他界させて別れなければならない。自らの意識のまま添い遂げるには、冥府に来るしかないぞ」
「……あなたにできるの、それが」
ミントはティラをじっと見つめた。
「そう。できるのね……。それでもいいのかな。きっと私はうれしい。守護天使になりたいっていう、この自分でもわからない欲求さえなくなればの話ね。それとも冥府に入れば消えちゃうのかしら自然に……」
ミントの薄い色の髪を、ティラは撫でた。
「でも直哉くんはどうかな。冥府にも安らぎはあるはずだけれど、そんな世界を望むのかしら」
「波旬の娘よ。すべてを得ることはかなわん。お前はなにかを諦める必要がある」
「そう……そうだよね。私、混乱してるよね。天使見習いなのに……それに天魔なのに。情けないよね」
ティラの瞳から、涙がひと粒、ぽつりと落ちた。
「人を救ってあげるのが守護天使の使命なのに、私、直哉くんに救ってもらってばかりだわ」
涙は次々にあふれ出てきた。
「お姉ちゃん、泣かないで」
こらえ切れずミントを抱き締めると、ティラは声を上げて泣いた。抱かれたまま、ミントはティラの背中を優しく撫で始めた。足元では、猫も身を擦り寄せている。
「お姉ちゃんの心には、痛い針が刺さってる。それで混迷しているの。天魔の人格が表に出だした頃、そう十年ちょっと前に、ある
「インシデント……」
涙に濡れる瞳に、疑問が浮かんだ。
「そう。天魔のあなたは知っている。表の人格の記憶を操作したんだね。だから心の惑乱が続いているの、十年以上も」
「それって、なに?」
「ミントにもわからない。でも、お兄ちゃんが関係しているのは確か。お姉ちゃんを見ていると、それが透けるの」
「直哉くんが……。そんな昔に、私が直哉くんと会っていたというの?」
ミントは答えなかった。
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