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 招かれた室内におそるおそる足を踏み入れると、ほわりとした暖気が頬を撫で、チセは思わずほっと息を吐いた。ほんの一瞬だけ、かすかに甘い花のような香りが漂った気がしたが、その芳香を記憶するより先に、何かを焦がしたような苦い匂いが鼻を刺した。

 嗅ぎ慣れない匂いの源は、どうやら机の上の飲み物であるらしい。チセの視線に気付いた男性が、微笑とともに語りかけてくる。


「ああ、それは珈琲ですよ。少し苦いですが、よろしければ飲んでみますか?」

「……ううん、苦い物はあまり好きじゃないから。ごめんなさい」

「いいえ、お構いなく。では、何かあたたかいものをご用意しましょう。外は冷えたでしょうから」


 男性はチセの返答に気を悪くするでもなく、穏やかな笑みを湛えたまま、備え付けの暖炉の前に、長い柄の付いた鍋らしきものを置いた。

 机の傍の椅子に座るよう促されたチセは、ようやく我に返ったかのように己の目的を思い出し、躊躇いながらも言葉を発した。


「あ、あの……ジークは、どこにいるんですか?」

「まだお仕事中なので、地下室にいらっしゃいますよ。終わるまで、多分もう少しかかりますかね」


 どうぞお掛けください、と再び手を差し出され、その落ち着いた物腰に導かれるように、チセはすとんと椅子に腰掛けた。


「あ、ありがとうございます……」


 不思議な人だ、とチセは少しだけ戸惑いつつ、どういたしまして、と微笑みながら正面に座った男性を観察する。

 おそらく年齢は、ジークとチセよりもやや上だろう。まだそれほど肌に皺が寄っていないから、きっと二十代後半か、多く見積もっても三十代。にもかかわらず、チセにはなぜか、男性が外見よりもずっと年上であるように思えた。

 森の大樹の木蔭で羽を休めているかのような、穏やかな安心感を抱かせてくれる、とでも言えばよいのだろうか。


(人間なんか、大嫌いだけど――この人は、怖くない)


 ジーク以外の人間と向かい合っているのに、逃げ出そうとは思わない。その事実には少なからぬ違和感を覚えたが、チセの本能は、この人間は危険ではないと告げている。

 眼鏡をかけた顔立ちも、栗色の瞳も髪も、ごくありふれたものであるはずなのに――いったい他の人間と、何が違うのだろう。


「……ああ、そうだ。申し遅れましたが、僕はユーディスといいます。ところでお嬢さん、失礼ですが、あなたのお名前を伺っても?」

「――え、あ、はい! ……チセ、です」


 表情のどこかに答えが潜んでいるのではないか、とばかりにユーディスの顔をまじまじと凝視していたため、不意に問い掛けられて、チセは思わず肩を揺らした。


「チセさんですか。素敵なお名前ですね」


 にこりと眼鏡の奥の瞳が和み、つられてチセも口元を綻ばせる。姉がつけてくれた名を褒められるのは、純粋に嬉しかった。


「ありがとう、ございます。……あの、ジークは、ここで何のお仕事をしてるんですか?」

「おや、ジークは話していないんですか? ――それなら、一息ついてから様子を見に行ってみましょうか」


 ちょうどお湯も沸いたところですしね、と柔和なまなざしでユーディスは暖炉を示し、ゆっくりと立ち上がる。

 暖炉の手前で歩みを止めた彼は、傍らの小さな箱から枯葉のようなものを取り出し、二匙分を器に入れた。その中に熱湯を注げば、白い蒸気とともに、ふわ、とかぐわしい薫りが室内に広がってゆく。仕上げにとろりとした液体を加え、ユーディスは丁寧な所作で、チセの目の前に器を差し出してくれた。


「はい、どうぞ。花蜜入りの香草茶です、熱いから気をつけてくださいね」

「ありがとう、ございます」


 一刻も早くジークの下に駆けつけたいところではあるが、せっかくユーディスが淹れてくれた飲み物を断るのも決まりが悪い。気付けばチセは、甘い香りに誘われるように、薄黄色の液体に顔を寄せていた。


(……いい、香り)


 万一毒を盛られていれば、いくら治癒力が高いチセとはいえど、ただでは済まない。ユーディスが怪しい挙動をしていたようには見えなかったが、骨身に沁みついた警戒心は、そう簡単に抜けるものではなかった。


(匂いは、大丈夫)


 次に舌先をわずかに浸し、痺れや痛みが走らないかを入念に確かめる。遅効性の無味の毒も存在しないわけではないが、幸いなことに、それらを舌と鼻で嗅ぎ分けるこつは、姉から教わっていた。


(味も、問題ない)


 なかなか口を付けようとしないチセを促すでもなく、ユーディスは黙ってにこにことこちらを見つめている。検分を終えたチセはようやく意を決し、湯気を立てる薄黄色の液体を、一口含んで嚥下した。


「――――――おい、しい……」


 ほう、とあたたかな溜息とともに、自然と言葉が零れ出る。よかった、と目元を綻ばせたユーディスは、静かに自分の器を傾けた。


(……あまい。熟れた果物みたいな甘さだけど、ちょっとだけ柑橘類の酸っぱさが効いていて、それがおいしい)


 一口、また一口、と夢中で味わっていると、次第に手足がぽかぽかと温まってきた。そこでようやく、ああ身体が冷えていたのだな、と自覚して、チセはユーディスの心遣いに改めて感謝した。


「あの、ありがとうございます。すごく、温まりました……」

「冷えは大敵ですからね。それなら何よりです」


 じんわりと、心まで溶かすようなユーディスの声と言葉に、知らずチセは微笑んでいた。そのまましばし無言で香草茶の風味を堪能し、やがてチセが空にした器を机に置くと、ユーディスは見計らっていたかのように口を開いた。


「それでは、行きましょうか?」

「はい、ごちそうさまでした! ……あの、ところで、ジークは何を修繕してるんですか?」


 腰を上げ、先導するユーディスの背に思い出したように問いを投げ掛けると、半身だけ振り返った彼は、謎めいた笑みを浮かべて告げた。


「もう少しだけお待ちを。――ご覧になれば、わかりますよ」




 手燭を提げて階段を下り、薄暗い室内を行くユーディスの後に続きながら、チセは先の言葉の意味を考えていた。


(……見ればわかるって、どういうことなんだろう?)


 もちろん字義通り、何を修繕しているのかは、説明するよりも見る方が手っ取り早いに違いない。だが、ユーディスが口を噤んだ理由が、チセには気になって仕方がなかった。


(直接ユーディスさんに訊けばいいんだけど……多分、話してくれないよね)


 長年人間の機嫌を伺いながら生きてきた中で培われた勘が、これ以上の情報を得るのは難しい、と訴えている。あまり困らせてもいけないだろう、と質問攻めにするのは一旦諦め、引き続きチセは黙考した。


(もしかして、説明を聞いただけじゃわからないくらい、複雑なものを修繕してるとか?)


 しかし、それではユーディスのあの表情に説明がつかない。――あの、かすかに笑っているようで、どこか哀しげな、眉を下げた微笑には。


(よっぽど、大切なもの、なのかな……?)


 思考に没頭していると、ふわり、と淡い香りが鼻先を掠め、チセはつと周囲に意識を向けた。

 外から覗き込んだ時と同じく、色も形も香りもとりどりの花々が、薄闇の中で、静かに咲き誇っている。いい匂いだな、と目を細めつつ足を運んでいると、ユーディスが不意に、部屋の壁の前で立ち止まった。


「――鍵を開けますから、しばしお待ちを」


 無言で頷いたチセに、片頬を上げて微笑みかけてから、ユーディスは一見壁にしか見えない部分に手を掛け、何かしらの手順を経た後に扉を開いた。


「チセさん、この先もどうか、ご静粛にお願いしますね。……ジークは今、とても繊細な作業に取りかかっていますから」


 小さく頷いたチセに、ありがとうございます、と律儀に頭を下げてから、ユーディスは暗い階段を下り始めた。ちらちらと手燭の灯りが揺らめくさまに、なぜか緊張感を覚えながら、チセは足音を忍ばせて後に続く。

 息をするのも憚られるような沈黙の中、いやに長く思える階段を、一段、また一段と下っていると、ふと、疑問がむくりと頭をもたげた。


(……あれ? そういえば、何も聞こえてこないなあ)


 これだけの静けさならば、地下でジークが工具を振るう音の一つも聞こえてきてもいいはずなのに――と訝しんでいると、ユーディスがチセの目の前で、ゆっくりと足を止めた。

 ようやく目的地に着いたのか、とチセが喜びを顔に出すより先に、振り返ったユーディスの肩越しに、その光景が目に飛び込んでくる。


「――お分かり、いただけましたか?」


 ひゅ、と浅く息を呑む音が、自分の耳に、いやにくっきりと届いた。

 栗色の瞳に映る己の像を、確かめるまでもない。間違いなく凍り付いているであろうチセの表情を見て、あの複雑な微笑を浮かべたユーディスが、労わるような声音で、静かに、告げる。


「ジークが治してくれているのは――――僕の、妻です」



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