第5話 地獄のような授業

 瓶の表面には幾何学模様のような、ベンゼン環記号にも見える謎のマークが印刷されたシールが貼られており、そこにブランド名などは記載されていない。唯一わかるのは、わずかに透けた瓶から液体らしきものが窺えたことくらいだ。

 明らかに怪しげな道具に一同は軽くたじろいだ。そんな子どもたちの疑問を拭い去ろうと、秋津は速やかに瓶の説明をする。


「これは先生が独自で改良して作った特別製のアロマオイルです。いろんな薬品を、例えばクスノキ精油に含まれるカンフルや、有名なやつだとハーブやゼラニウムやベルガモットとかをいろいろとブレンドしたもので。市販品じゃないからお店とかでは手に入らないものなんですけど。今日はこれを原液のまま使おうと思います」


(……は? ちょ、なに言ってんの?)


 どこか誇らし気に自信に満ちた声音で告げる秋津に、咲は危機感を覚えた。

 そう判断できたのは咲だけのようだ。他の者たちはもっともらしい単語の羅列に、意味もわからぬまま感心して、ひたすらノートに今の言葉を書き連ねる。


「ここで発表することで、その人は周りの人よりも一歩、自分の目標に向かって進むことができます。さあ、今日ここでそのチャンスを掴み取れる人は何人でしょうかね。まあ初めてということもあるし、ここは無難に日付でいきましょうか」


 意気込むや秋津は振り返ってカレンダーを見る。それから生徒名簿に目を移すと、次いで生徒たちに向いて、日付と同じ出席番号の生徒を探す。


「高野さん……だね。よし、それじゃ早速使っていこうか! さ、こっちに来て」

「え」


 秋津がそう言うや、名指しで呼ばれた高野という男子生徒は一瞬戸惑いを見せる。こういう場面で先陣を切るのは、誰でも緊張するものだろう。

 そんな高野の狼狽も顧みず、秋津はアロマの瓶を教卓に置いて蓋を開ける。


「ではまず先生が高野さんにお手本を教えてやってもらうので、次の人も同じようにやってください。じゃあ高野さん、手を出して」

「?」


 言われるがまま掌を差し出す高野。秋津はアロマの入った瓶を傾けると、その上に芳香成分だけを取り出して何百倍も凝縮された原液を直接肌に垂らした。


「このアロマオイルにはリラックス効果や集中力を促す成分が含まれてて、直接肌に塗ることで活性化させることができるんです。こうやって塗ってみて」

「は、はい……」


 秋津が手を揉んで首筋や腕に塗るジェスチャーをすると、それを真似て高野もアロマオイルをたっぷりと肌に塗りこんだ。刹那、強烈な刺激臭が高野の鼻孔を貫く。


「うぅっ……げほ! ゴッホ! ゲェ、ゲェッヘエ‼」


 噎せ返るような濃厚な香りに、高野はまだ原液でべったりのとした両手を口元に当てて押さえる。すると再び刺激臭によって更に咳き込んだ。


「おお、大丈夫か?」


 科遣いの言葉をかけながら秋津はアロマオイルの入った瓶の口にバーナー芯を取りつけると、ポケットから取り出したライターで先端に火をつけた。

 教室内で点火器を使った時点で大問題なのだが、それを咎める者はいない。その辺りの知識のない小学生には善悪を判断する術を持っていなかった。また、秋津が噎せた高野の背中を擦りもせず自分の作業だけを続ける姿に、咲は冷たいものを感じた。

 秋津は特別製の飾り蓋をバーナー芯に乗せると、着火状態をキープする。火が隠れた分危険度は下がったが、依然として危うい状況に変わりはない。


「同じものをもう一つ用意してるので、こっちはこのまま芳香用として授業中焚き続けます。高野さん、次は飾り蓋のところから焚いたアロマオイルが芳香してるから、このまま顔を近づけて肺一杯に吸い込んで」

「えっ……」


 今さっききつい香りのせいで咳き込んだばかりだというのに、秋津は悪気もなくそんなことを指示する。だが高野にそれを拒否する勇気はなかった。

 高野は鼻先を飾り蓋の穴に近づけ、目一杯蒸発した原液を吸い込む。案の定大きく噎せ返ると、目尻に涙を溜めて苦しげに背中を丸めた。


「もうかなり気分的にも落ち着いてきたんじゃないかな? じゃあそのままここに立って、今週の目標を言ってみよう」


 未だに噎せ返る高野を無理矢理教壇に立たせると秋津は促した。高野は息苦しさに呼吸を乱しながらも、青い顔のまま声を絞り出す。


「え、えと……ゲホッ」

「まあ最初は練習だから。思いついたことでいいから言ってごらん?」


 励ますようにエールを送る秋津。明らかに具合の悪そうな血相が見えていないのか、まったく的外れなことを言って相手の気持ちを考えようとしない。

 ところが高野はそれをおかしいと思わなかった。なぜなら秋津がこのクラスを担当して以来、この教室の生徒たちは現状が常識なのだと信じてしまったから。

 アロマオイルが体に合わないのか。高野は徐々に強くなっていく頭痛に堪えながらもどうにか頭をフル回転させ、さっさと終わらせて椅子に座りたい一心だけで、思いついたことをとにかく叫ぶ。


「ぼ、僕は今週宿題を忘れないように勉強を頑張りたいです!」

「頑張りたいです、じゃなくて、そこは頑張りますって言えるといいね」

「は、はい! 頑張りますっ!」


 いらぬ修正をさせると秋津は満足し、一人深々と頷く。そして。


「それで、他には?」


 笑顔を張りつけた顔面に、一切笑っていない目で高野を見やると、次を促した。


「次……えっと……うっ」


 どうやら五胡目標を言うというのは冗談ではなかったようだ。

 有無を言わさない威圧は下手な脅迫よりも質が悪かった。高野は吐き気と頭痛に涙目になりながらも、秋津の無言の圧力が恐ろしさに抗えず、震えながら言葉を紡ぐ。


「うぁ……あ。きょ、今日は外掃除なので、一生懸命綺麗にしますっ」

「うーん。今週の目標なんだけどな。それじゃあ今日の目標になっちゃうねぇ」


 口角を上げたまま口を結んで唸るとそう指摘する秋津。

 その柔らかい口調に反し、腕を組んでじっと見つめてくる瞳に焦りを覚えながらも、高野はなんとか別の目標を言おうと考える。

 だがもう限界だった。プレッシャーと焦りもあってか、高野はなにも言えぬまま立ち竦んでしまう。そのまま無言の時間が一分続いたところで秋津が口を開いた。


「うん。まあね、今日は初めてだし、トップバッターってことで、ここまでにしておこうか。次はもっと言えるといいね。お疲れ様、みんな拍手!」


 埒が明かないと判断したのだろう。秋津はそう告げると強制的に終わらせて、周囲に拍手を促した。高野はようやくプレッシャーから解放されて安堵の息を吐く。

 賛美の拍手の中、次なる変化が現れたのはそのときだった。突然高野は更に表情を険しくすると、厳しい顔で自分の体を抱き締めるように両腕を擦る。


「せ、先生。なんか、アロマ塗ったところがヒリヒリしてきたんですけど……」

「おっ、早速効いてきたか! いいねぇ。それじゃあこの調子で次の人、目標を言ってみようか。もう席に戻っていいよ」


 体調不良を訴える高野の言葉を都合よく解釈すると、秋津は明後日の方向に向いたままの情熱を滾らせながら、用無しとばかりに高野に席へ戻るよう言いつける。

 到底生徒に対する態度とは思えない秋津の対応に、高野はなんとも言えない焦燥感と突き放されたような寂しさを覚え、胃が痛くなる感覚に目を伏せた。

 だがそれ以上に立っていることの辛さの方が勝ると、高野はそそくさと自分の机に急いで、ようやく腰を落ち着けた。そして頭痛に側頭部を押さえる。


「先にアロマオイルを塗っちゃいましょうか。順番に席に回していくので、みなさん適量手に取って腕とか首回りとかね、つけてください。これまだ先生の家にいっぱいありますんでね、先生の机の上置いときますんで、みんな好きなときに使っていいですよ」


 そう言って秋津は怪しい瓶を、窓側の一番端である先頭の席に渡した。生徒たちは秋津に言われた通りアロマを体に塗りたくると順に回していく。

 やがて瓶は咲にまで回ってきた。咲は机に置かれたアロマオイルを見るや、うげっと顔を顰める。というのも、すでに教室に充満した精油の匂いの時点で、咲は自分の好まないタイプの香りであることを知っていたのだ。

 それでも念のため蓋を開けると、息の詰まるような香りに今度は「ぶっ!」と吹き出しかける。だが反応を見せるわけにはいくまいとどうにか真顔に留めた。

 もちろん心の中は不平不満とクレームの暴風雨である。


(ふっざけんななにこの臭い!? ただのヤバい薬品じゃん! てかくっさオヴエェ! こんなの体に塗るとか絶対に嫌なんだけど。まだうんこ塗りたくった方がマシ!)


 仮面のような無表情で咲は胸中で暴言を吐きまくると、俊敏に周囲に目を向けた。


「私の今週の、目標、は……うっ。生き物係の当番を――」


 運がいいことに、秋津の視線は自分の無茶振りによって混乱&気分を悪くしている生徒のスピーチを聞くのに夢中で逸れていた。他のクラスメイトも憑かれたように前方に視線を向けており、誰も咲のことなど眼中にない。

 咲は何食わぬ顔で瓶を傾けると、原液を手に垂らした振りをして瓶に蓋をした。それから適当に手を揉む仕草をして、なにもついてない手で両腕や首回りを擦る。念には念を入れるため、誰もこちらを見ていないかさり気なく横を見る。

 こちらをガン見する隣の席の真名と目が合った。


「ホッヒヒ!?」

 

 緊張状態での驚きだったため反応は大きいものとなった。咲は大袈裟に机をガッタンと鳴らすと、猿のような鳴き声を上げて飛び上がる。


「どうした? 大丈夫?」


 早速騒ぎを聞いて秋津が問うてきた。必然生徒たちの視線もこちらに集中する。咲はしまったと顔を引きつらせると、慌てて適当な言い訳を探した。


「へ!? あ~……いやその。こ、このアロマすっごくいい匂いだったから、びっくりしちゃってついー……」

 

 と早口で言いながら、咲はそそくさと瓶を後ろの席に回す。

 言動と行動がまったく伴っていなかったが、それよりも秋津は自分で調合した精油を称賛されたことが嬉しいのか、得意顔でふっと笑みを漏らす。


「ははっ、そうなんだ? 気に入ったならいいよ、もっとつけちゃって。家にもまだいっぱいあるし、先生の机の上にも置いとくからさ」

「あははありがとうございますぅー」


 当たり障りのない返事をすると咲はさっと椅子に座った。と、今度は隣の席の真名にアロマオイルの瓶が回ってくる。そんな真名の手には棒つきキャンディが握られており、丁度包み紙を外そうとしているところだった。


(本当に自由だなあいつ。てか授業受ける気ないよね?)


 相変わらずやりたい放題やる真名に咲は最早呆れ返っていた。後ろの席の子に肩を叩かれた真名は瓶に気づくと、キャンディを口に放ってから受け取る。

 そのままバケツリレーのような速さで前の席に回した。


「なっ――!?」


 真横で行われた行為に咲は思わず声を上げる。

反応を示したのは咲だけではなかった。その様子を見ていた秋津も笑顔のまま硬直する。


「あれ……どうしたの? それつけてないけど……」


 真名の奇行を見るや、秋津は躊躇いがちに待ったをかけて瓶を指差す。どこか真名に強く出られない秋津の違和感に気づくと、咲は眉根を寄せた。


(……ん? 飴のことを言わないのは真名の例の力のせいだとして……なんであいつ、真名相手にちょっとビビってるの?)

「真名ちゃんには自分のフェロモンがあるから香水とかつけなくてもいいのです。天然由来の自家製雌臭がいつもムッワアァァって漏れ滲んでるから、わざわざ女の子の匂いをマーキングする必要ないんだよ?」

「あーそう……なるほどね。ごめん止めちゃって。続けていいよ」


 中途半端な返事をすると秋津はそれ以上言及せず、教卓にいる生徒に声をかけると目標の発表を続けるように言って再開する。


(は?)


 高野のときとの態度とは明らかに違う秋津の様子に、咲は胸中でキレる。


(なにあいつ。人によって態度変えるわけ? もしかして女子相手だといつもあんな感じだとか? うわキモ。ロリコンじゃん)


 想像の域を出ない段階で決めつけて罵詈雑言を心の中で浴びせる咲。その間にも黙々と目標発表会は続き、やがて回されていたアロマオイルも全員に行き渡った。

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