第2話

 『ご利用ありがとうございました。お忘れ物の無いよう、お気をつけてお降りください』

 車掌のアナウンスで目を覚ますと、山形新幹線つばさ号はちょうど終点である東京駅に到着したところだった。僕は頭上の網棚からキャリーバッグを取り出し、隣の座席に置いておいたスクールバッグを肩にかけると、のそのそと車内前方にある乗車口から東京駅のホームへと降り立った。

 時刻はもうすぐ午後五時。周りを見渡してみると、ホームには地元の駅とは比べ物にならないほどの利用客の姿があり、僕はようやく自分が旅に出たことを実感した。

 ……母さんは今頃、なかなか学校から帰ってこない息子を心配して不安になっているかもしれない。鎌倉に着いたら一度連絡を入れよう。そして、黙って旅に出て来てしまったことを謝ろう。

 そんなことを考えながら、僕は腰の高さまであるキャリーバッグをカラカラと引いてホームに溢れかえる人の隙間を通り抜けると、JR横須賀線が停車するホームに向かって足を進めた。一時間にたった一本しか電車が走らない地元の駅と違って、こちらでは一時間に何本もの電車が行き来する。だから鎌倉行きの電車にも、それほど時間を待たずに乗車することが出来た。そうして入り口付近の空いている席にそっと腰を下ろし発車を待っていると、ものの数分で車両の扉が閉まり、JR横須賀線は目的地の鎌倉に向かってゆっくりと走り始めた。


 JR横須賀線が鎌倉駅に到着した頃には、もうとっくに日は落ち、観光地鎌倉にも夜の帳が下りていた。地元ほどじゃないにしても、やっぱり夜にもなるとそれなりに寒さを感じる。暦上では春のはずだけど、どうやらこの風は未だに冬の冷気を運んで来ているようだ。僕はそんな寒さから逃れるように学生服の上に羽織っていたコートに顔の下半分をうずめると、コートのポケットからスマートフォンを取り出した。

 何はともあれ、まずは今晩泊まる宿を見つけなければならない。あいにく今は観光シーズンというわけでもないし、どこの宿泊施設も十分部屋の空きはあるはずだ。そんなことを考えつつネットで近くのビジネスホテルを調べていると、ふとある考えが浮かんだ。

 ——そうだ。どうせなら、海の見えるところに泊まろう。

 せっかく鎌倉まで来たのだ。多少移動距離と金額が増したとしても、眺めのいい部屋で身体をゆっくりと休めたい。

 それからすぐに海近くの宿泊施設を調べ始めると、候補としていくつかのビジネスホテルがヒットした。そのうちの一つが、今いる鎌倉駅から少し離れたところにある長谷駅のすぐ近くということで、僕は改札を抜けることなくそのまま長谷駅行きの江ノ電に乗り込み、発車を待った。

 その後、五分ほど江ノ電に揺られ目的の長谷駅に到着すると、荷物を持って改札を抜け、スマホのマップ機能の案内に従って足を進めた。長谷駅周辺には、鎌倉の大仏が鎮座する高徳院やアジサイの名所として知られる長谷寺などの観光スポットが存在し、観光シーズンにもなれば昼夜問わず多くの観光客の姿が見受けられる。けれど今は、どれだけ周りを見渡してみてもそれらしい人物の姿は僕の他に見当たらない。

 本当なら僕も、夏の暑い時期にこの場所を訪れてみたかった。太陽の光が反射して青く輝く海の姿を、日が暮れるまでずっと眺めていたかった。

 どれだけそんなことを思ったところで、急に時間を進めることはできそうにもない。

 ……それでも、もし、またいつか旅に出ることが出来たなら、今度は夏の暑い時期にこの街を訪れよう。

 そんなことを考えながらホテルまでの道のりを歩き続けていると、前方から夜風に乗って潮の香りがやってきた。僕は一度足を止め、手元のスマホから顔を上げる。

 その瞬間、思わず口が開いた。

 それまで等間隔に立ち並ぶ街灯しかなかったはずの通りに突如として、白く輝く月に照らされて妖しく煌めく相模湾が現れたのだ。僕はスマホをポケットにしまい足早に海の方へと駆け寄ると、砂浜へ続く階段の前で足を止め、かすかに聞こえる波の音に耳を傾けた。

 「……」

 声を発することも忘れ、ただただじっと、黒く煌めく神秘的な海に目を向ける。

 思えば、こうして夜の海を見るのは今回が初めてかもしれない。それに周りには僕以外の人の姿はなく、今こうして海を眺めているのは自分ただ一人。そう考えると、今見ているこの景色が何だかとても特別なものに思えた。

 確かに、夏の暑い時期に見る海は鮮明で綺麗だけど、この時期に一人で見る海も悪くない。そんなことを思いつつ、僕は止まっていた足を再び動かしてホテルへと続く道のりを再び歩き出す。

 そうして海岸沿いの歩道を五分ほど歩き続けていると、ようやく目的のホテルへ辿り着くことができた。僕は正面に見える回転扉を通ってエントランスへ入ると、そのまま真っすぐホテルマンの立つフロントへと向かう。

 「いらっしゃいませ」

 「……あの、宿泊希望なんですけど、部屋空いてますか?」

 「えぇ、空いていますよ。一名様でよろしかったですか?」

 「はい」

 「当ホテルは全室ツインからのご案内となっておりますが、よろしいでしょうか?」

 宿泊客は僕一人。ベッド一つ分余計に料金がかかることになるけれど、この際贅沢できると思って割り切ろう。

 「大丈夫です」

 「かしこまりました。では、何泊のご予定でしょうか?」

 ……何泊。そういえば、滞在日数を決めていなかった。

 僕は足元のキャリーバッグに目をやり、その中に入っている着替えの枚数から逆算して答える。

 「それじゃあ、とりあえず三泊で」

 「かしこまりました」

 いかにも紳士そうなホテルマンは、そう告げると一枚の書類を僕の目の前に差し出し、名前や住所を記入するようにと指示してきた。僕はそれに従っていくつかの個人情報を記して提出する。それから当面の宿泊費の支払いを済ませ、ホテルマンから宿泊する部屋のルームキーを受け取った。

 「それでは、ごゆっくりどうぞ」

 そう言ってお手本のようなお辞儀をするホテルマンに軽く会釈を返し、僕はエレベーターに乗り込む。手渡されたルームキーには『211』と三桁の数字が羅列してあった。恐らく二階に僕の泊まる部屋があるということだろう。

 僕はルームキーに書かれた数字が示すとおり、三階まであるうちの二階でエレベーターを降りると、エレベーターホールの案内板に従って部屋へと向かう。211号室は二階フロアのちょうど中央に位置しているらしく、僕は部屋の正面で立ち止まるとドアノブ付近のカードリーダーにルームキーをかざし、ピッという電子音が鳴ったのを確認した後で扉を押し開けた。

 当然、室内の明かりは点いていなかったので、入り口横に備え付けられたカードスイッチに手元のルームキーを差し込む。すると、暖色系の照明が室内を明るく照らし出し、ようやく内装を視認することができた。

 室内は入ってすぐ右手に浴室とトイレがセットになっているバスルームがあり、右手奥にシングルベッドが二つ。向かって左側には小型の冷蔵庫と洋服などを入れる収納スペース、それからテレビ、スタンドライトのついた鏡台が並び、料金にふさわしいだけの広さと真新しさがあった。何より入って正面にある窓から、先程通ってきた坂ノ下海岸と相模湾が見えたことに強い満足感を覚えた。

 僕は持っていたキャリーバッグとスクールバッグをカーペットの敷かれた床に手放すと、ろくに身体を休めることなく、財布とスマホ、それから手渡されたルームキーだけを持って再び部屋を後にした。

 時刻は既に午後七時を回っている。外はもう暗いし観光は明日から行うとして、今日はとりあえず休息を取ろう。何はともあれ、まずは夕食だ。確かここに来る途中にコンビニがあったはずだから、そこで何か買って部屋で食べよう。

 そんなことを考えながら、つい先ほど通ってきた道を戻ってコンビニまでやって来ると、260円のサンドイッチとお茶の入った500mlのペットボトルを一本、それから明日の朝食用の菓子パンをいくつか購入してホテルへと戻った。

 部屋に帰ってくるなり、鏡台の上に商品の入ったレジ袋を置いてコートと学生服の上着を脱ぐと、それを収納スペースにしまってから購入してきたサンドイッチとお茶を取り出し、ベッドに腰かけながら食した。

 軽い夕食を終えた後、ベッドで少し横になりながらスマホで投稿型のSNSをぼんやりと眺めていると、クラスメイトの一人がどこかの飲食店で撮影したと思われる写真をアップしているのを見つけた。写真にはクラスメイトの何人かが集まって、楽し気に食事をしている様子が映っている。恐らく、卒業式の後にみんなで送別会でもする予定をあらかじめ立てていたんだろう。そのまま画面を下にスクロールしていくと、同じような内容の投稿が何件か目に入った。そのどれもが、つい数時間前まであんなにも別れを惜しんで涙を流していたとは思えないほど、快活な表情をしていたことに驚いた。彼らにとって高校生活三年間の思い出とは、たかだか一、二時間程度の食事会に劣ってしまうものだったんだろうか。だとすると、それはなんだかとても滑稽に……いや、とても残念に思える。

 そんなことを考えながら引き続き画面上に表示された投稿を眺めていると、突然僕のスマホから着信を知らせるアラームが鳴った。一瞬、どこの誰からだろうと疑問に思ったけれど、よく考えてみれば僕に電話をかけてくる相手なんて一人しかいない。

 僕は着信マークをタップして電話に出る。

 「はい、もしもし」

 『……七海? あなた今どこにいるの? 卒業式はとっくに終わったんでしょう? だったら早く帰ってきなさい。卒業式終わりに補導なんてされたらみんなの笑いものよ』

 スピーカー越しでもわかるほど心配……というか呆れ果てている母さんの声を聞いて、鎌倉についてから連絡するのをすっかり忘れていたことに気が付いた。

 「ごめん、母さん。こっちに着いたらすぐ連絡するつもりだったんだけど、いろいろあって忘れてたよ」

 『ちょっと待って。〝こっち〟ってどういうこと? あなた本当に今どこにいるのよ』

 「鎌倉。海を見に来てるんだ」

 『……はぁ?』

 当然、こういった反応をされることは予想していた。卒業式からなかなか帰ってこない息子を心配して電話をかけてみたら、突然「鎌倉にいる」なんて告げられたのだ。驚かない方がどうかしてる。だから僕は、できるだけ丁寧に事の経緯を母さんに伝えた。

 「……そういうわけだから、家に帰るのは三日後になると思う。バイトで貯めたお金もまだ十分あるし、体調だって良好だからそんなに心配しないで」

 自分で言うことじゃないかもしれないけれど、僕は昔からそれほど手のかからない子供だった。もちろん、生活していく上で必要になる迷惑はたくさんかけてしまったけど、それ以外の……例えば、僕個人の感情を優先するようなわがままは、今まで一度も言ったことがない。自分でも、全然子供らしくない可愛げのない少年時代だったと思う。それも恐らくは、幼いころから理想の大人に強い憧れを抱き、中身だけでも早く大人になりたいと願い続けた結果、生じた成長だったんだろう。

 母さんはしばらくの間考え込むように沈黙すると、小さなため息を一つ漏らして僕に言った。

 『まぁ、何でもいいけど問題だけは起こさないでね。あなた、来月からは社会人になるんだから』

 「うん。わかってる。……それじゃあ、おやすみ」

 そう言って母さんとの通話を終えると、僕はスマホの画面を消してキャリーバッグから着替えを取り出し、そのままバスルームへと向かう。そうして十分ほど軽くシャワーを浴びてバスルームから出ると、ろくに髪も乾かさず、まるでベッドに倒れこむかのようにうつ伏せに寝転んだ。枕元のデジタル時計にちらりと目を向けると時刻は午後九時を示している。

 いつもならまだ起きている時間帯だけど、今日はいろいろあって少し疲れた。明日に備えて今日はもう寝よう。

 僕はベッド上部にあるスイッチに手を伸ばして部屋の明かりを落とすと、今日一日を振り返るようにゆっくりと瞼を閉ざした。


 さて、明日はどこを見て周ろうか。

そんなことを考えながら、段々と薄れゆく意識の中であの海を思い浮かべる。


 ……どこからか、穏やかな波のさざめきが微かに聴こえたような、そんな気がした。

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