天命の巫女姫

たけのこ

0章 とある兄妹の命運

第0―1話

 美楚乃みそのが丹精込めて作ってくれた昼食を食べ終わった雄臣たけおみは、二階の部屋に戻り、寝間着から外出用の身支度に整える。


「今日は冷えるな」


 着替え途中、カーテンを開けると窓はびっしり結露で覆われていて、外を見ようと手で拭うと、当たり前だが、板氷のように冷たかった。


 今朝の急激な冷え込みもそうだが、今日は一日中、冬の到来を実感させられる日になりそうだ。昼だと言うのに空は薄暗く森の緑さえ見えやしない。四方を森で囲まれていて気温がそこまで上がらない理由もあると思うが、今外の景色を見ている間にも窓は乾燥ですっかり曇ってしまった。


 昔は朝早くに外出するのが日課になっていたが、最近は昼に家を出ても夕食時間の七時までには帰ってこられるようになった。


(まあ、何事もなければの話だが……)


 雄臣は下着を着た身体にシャツを通し、その上に黒の厚い上着を羽織り、手には黒の革手袋をはめて、部屋から一階の居間に下りた。

 ヒーターの効いた居間は温かくて、これから外に出るのは少し名残惜しかった。


「はいこれ。あったかいから飲んで」


 台所からやってきた美楚乃が差し出してきたのは湯呑。食後にお茶を飲む習慣はないが、今日がこんな冬の日だからだろう。気の利く美楚乃は、わざわざお茶を沸かしてくれたみたいだ。


「ありがとう」


 一度席に着いた雄臣はテーブルに置かれたおぼんから湯呑を手に取り、お茶を一口飲んだ。昔飲んだことがあった市販の麦茶がどんな味だったかあんまり覚えていないが、今飲んでいるお茶の味は少し薄いが、葉っぱ独特のクセの強い苦味はなく抵抗感なく飲めた。


「熱すぎ?」


 テーブルを挟んだ向かい側に座った美楚乃は、お茶の温度を訊ねてきた。


「いや、こういうのは熱すぎの方がちょうどいい。……美楚乃も飲むか?」

「え……う、うん。飲む、飲みたい」

「なんだ。飲みたいなら自分の分も作ればよかったのに」


 言いながら美楚乃に湯呑を手渡した。


「あ、うん。でも熱いお茶は苦手だからさ」


 言って、美楚乃は両手で湯呑を包むように持ちながらふうふう息を吹きかけた。


「ん? じゃあ、どうして飲みたいだなんて言ったんだ?」


 苦手なのに飲みたいだなんて、どこかの修行僧みたいだ。


「え? あ……えと……えーっと、あ、そう! おいしそうに飲んでいたから飲んでみたいなって」


 湯呑に入ったお茶を眺めながら執拗に熱を覚ましていた美楚乃は、一瞬こちらに目を合わせた後、なぜか少しあわあわして、その後、物凄い早口で後付け感が拭えないワケを話した。


「そ、そうか。火傷、気を付けてな」

「うん」


 そろりと湯呑の縁を口に運んだ美楚乃は、味見するみたいに一口飲んだ後、「あちっ」と反応して咄嗟に口元を外した。


「ふうふういっぱいしたのに……」


 少し不機嫌になりながら、湯呑をこちらへ遠退かせた。


「もういいのか?」

「うん、あげる」

「そっか」


 もう一度、お茶を一口すすった。美楚乃は熱いと言っていたが、その後飲んだお茶は最初に飲んだ時に比べたら、適温ぐらいまで冷めていて、雄臣はそのまま一気に飲み干した。


「美楚乃、ありがとう。おいしかったよ」


 じんわりと身体中に染み渡った温もりを感じながら、もう一度礼を言い、湯呑を洗い場に持って行く。


「あ、いいよ。後で片づけておくから、ここに置いといて」

「そうか? 分かった」


 お言葉に甘えて湯呑をおぼんの上に戻した。


「こんなことで喜んでくれるなら毎日作ってあげるね」

「でも手間がかかって大変だろ? わざわざ見繕ってきた葉っぱを細かくすりつぶしたり、布で濾したり、工程が」

「ううん、喜んで飲んでくれる顔見ているだけで私は幸せだから、こんなの全然大変なんかじゃないよ」

「じゃあ、飲みたい時は頼もうかな」

「うんっ! 任せて」


 元気一杯の陽気な返事。その笑顔も彼女がくれる温もりも名残惜しいけれど、そろそろ行かなくてはならない。


「じゃあ、そろそろ兄ちゃん。行って来るから」

「……う、うん」


 打って変わって元気のないしょんぼりした返事に変わった。まあ、外出する時はいつもこんな感じだからあまり気にはしていないけれど。


 あれ以来、いつになってもこのもどかしい朝は慣れないし、妹を独りぼっちにさせるのは気が引けるが、雄臣は私情を捨て椅子から腰を上げた。立ち上がった雄臣は玄関へと続く廊下を歩く。美楚乃もその後ろを付いてくる。初めは袖を引っ張って引き止めたり、泣きながら駄々を捏ねたりしていたが、十年もこんな生活をしていれば嫌でも受け止めるしかないだろうし、きっと妹も心のどこかで『これは決まり事だから仕方がない』と諦めているのかもしれない。


「危ないから美楚乃は外に出ちゃ駄目だよ」


 そんな思いを巡らせながらも玄関口で靴を履いた雄臣は最後に念を押した。自分でもこんなしつこく言われるのは嫌だって分かっているけれど、この言いつけだけは耳にこぶができるくらい毎回言い聞かせている。


「うん」


 でも美楚乃は嫌な顔一つ見せず、素直に頷いた。もちろん、言いつけを破ったことだって一度もない。


「兄様の好きなシチューでも作って、待ってるね」


 浮かない顔でもしていたのだろうか、美楚乃にいらぬ気を掛けてしまったようだ。


「……早く帰ってきてね。…………一人は寂しい」


 その呟きは妹の切実なる思いだった。


「……。ごめんな」


 謝ることしかできない雄臣は、同じ黒髪の同じ薄水色かかった黒い瞳をした美楚乃の頭を、優しく撫でた。


「ううん、わがまま言ってごめんなさい」

「謝る必要はない。報いは切り捨てられずに付き合わせた僕にある」

「どうして? 私の命、救ってくれた。兄様、悪くない。悪いのは他にももっといっぱいいる。……そうなんでしょ?」

「……そうだね。でも、この世界が平和になれば、ずっと一緒にいられるから。それまで……我慢してくれ。美楚乃」


 これまで何度使ったか分からない我慢という言葉を今日も使ってしまった。使う度に心が締め付けられる嫌な言葉である。


「……うん。私も兄様の役に立てるよう、自分にできること頑張るね」

「でも無理は禁物だよ。身体はあまり強くないんだから」

「大丈夫っ! 兄様のおかげで、私はずっとずーっと元気なままだし」


 そう言うとニコリとはにかんで、えっへんと胸高らかに元気アピールをする。


「そうか。それは報われる。じゃあ、行ってくる」


 美楚乃はこくんと頷き、「気を付けてね」と最後に一言そう言って見送った。



 街の外れに佇む家の近くには庭兼畑があり、レタスやトマトなど畑には旬の野菜が収穫時期を迎えている。その周りにある風景はどれも同じ。緑の濃い深い森が鳥籠のように二階建ての家を囲んでいる。そんな木々に包囲された家を出た雄臣は、白い息を吐いて目だけを動かし周囲を見渡す。


「……よし」


 何も異常がないことを確認すると、フードを深々と頭に被り、森の入り口に足を踏み入れた。


(……理想のために僕は戦う。平和のために、美楚乃のために……)


 理由なくして人は戦えない。それが青年が戦うための動機、理由である。――瞬間、妹には見せたことのない表情に切り替わった。その紺色じみた黒い瞳は、ただ悪を見付けるための器官となり、希望を抱く胸の内は、戦う覚悟だけを強く宿していた。


……

………


 テンシ《戦乙女》と人間の成り果てとの攻防があった夜のこと。

 見渡す地上は一面の焼け野原と亡骸。


 だというのに、見上げた夜空には煌めく流れ星のような光の粒たちがひたすら降り注いでいたことを覚えている。そして、流星だと思っていた光の粒が幼い美楚乃を抱きかかえていた僕の頭上へ落ちてきたのだ。眩い光の粒子たち。その光の奔流は僕の全細胞、全血液に流れ、溶け込み、次の瞬間、身体の奥底から力が湧き上がってくるのを実感した。何でもできるんじゃないかって思うくらいに。


 夜が明けた頃には、もう戦いは終わっていた。戦いに負けたのか、勝ったのか分からぬまま、けれど何もかも終わっていた。かつての近代都市の真似事をして、文明を発展させてきた街も社会も世界も跡形もなく廃れて、どうしようもない時代に突入した。


 だがそれでも人間だけは数を減らしながらも懸命に生きていた。また一から人間の活動が始まる。もう何も生まれない。天敵となるものは生まれない。生まれるものは人間だけだ。


 だというのに、人間は愚かだった。


 人間同士の争いが始まったのだ。


 後に分かったことだが、生き残った人間の中には、魔法を扱える者と扱えない者の2パターンで分かれていた。

 だから、魔法を使える者が強者となり、使えない者が弱者となる構図は事の成り行き上、自然と成立した。


 無法地帯の世界で、魔法使い《隠修士》は無慈悲で残酷な仕打ちを容赦なく弱者に与えた。女、子ども関係なく、娼婦、奴隷、人身売買と扱われ……言われるがまま、されるがまま、欲望のままに好き勝手に愚弄され、蹂躙されるのが新たな世界の形となっていた。


 勿論、弱者だってこの状況に黙ってなどいない。


 反乱の時代。動乱の時代。どこもかしこも争いばかりだ。


 兵器と呼べるようなものが存在しない時代で、人を殺すには、己の手で殺す手段しかない。しかし、そんなものは理性と冷静さがあれば戦う前から分かりきっていたことだ。弱者が強者に勝てるわけがないことぐらい。


 だって魔法使いは魔法そのものが兵器となる。


 通常の人間に勝てる道理など微塵もない。二者間の戦力差は明らかだ。村の弱者が集団となって戦おうとも、どれほど強い反抗心を持ち得ようとも、一瞬で虐殺されるのが世の常。


 炎に溶かされた者。

 自然の養分にされた者。

 氷に圧し潰された者。

 骨ごと捻じ曲げられた者。

 未知なる召喚生物に捕食された者。


 他にも……ありとあらゆる殺され方をした。そんな死に際を戦場で嫌な程たくさん見てきた。


 反乱あるところへ僕は駆け付けた。何度も何度も、何度も何度も、赴いた。だが結末は毎回、同じようなものだった。戦場には死ばかりだ。救えた者もいたが、助けられなかった者の数の方が多かった。それに僕ができる範囲はここまでだ。授けられた魔法を駆使して、魔法使いと戦う。本当にそれだけだ。だから、力なき彼らの行方が死に直結することは珍しくない。飲み水もろくに確保できなければ、食べるものも少ない。貧しい生活。ひもじい思いをしながら、死に絶えた幼い子どもの死が印象的だった。そう、何処に行こうが、何をしようが、争いは起こり、たとえ逃れても死は存在するのだ。


 いつになったら平和が訪れるのか、おそらく、きっと、唯一生き残ったテンシでさえ分からないのだろう。


 ただそのテンシは、魔力そのものをこの世から無くすことで、この世に恒久的な平和が訪れることを思い描いている。

 その願望が果たして叶うのか、それが正しいのか、僕には分からないし、考えたところで、僕がやることは決まっているし、否定は許されない。


 禁忌を犯した僕は、テンシの命令に従うだけの、本物の正義とは程遠い存在なのだから。


 それが閻椰雄臣という青年が経験した今までの記憶。


………

……


 森の中に踏み入れてから走り続けて十分強。森林地帯を抜けて辿り着いたのは、廃屋が改築されつつある村のような小さな街。青年が毎日訪れている名無し村の一つだ。この街の住民たちは裕福な暮らしはできないものの、畑を耕し収穫した野菜や果物を交換し合いながら仲睦まじく暮らしている。

 自分もたまに美楚乃を連れて訪れた時には、余所者だからと追いやることはせず、『よく森を抜けてここへ来られたな』と讃えられたり、『腹減ってないか』と心配されたり、『おすそ分け』と言って野菜をくれたり、皆親切で優しい人間ばかりだった。


(……元来、人間とはそういう生き物のはずなんだ。同じ種同士、殺し合うことなどあってはならない)


 そんな平和を守るために、雄臣は普段通り街を見回る。


 空気に触れる顔は相変わらず冷たく、身体を動かして体温は上昇しているはずなのに上着の上からでも寒いことには変わらない。美楚乃が作ってくれたお茶の暖かみも、肺に空気を送り込んだ途端、消え去ってしまった。


 とにかく空気が悪い。


 街は霧の底に沈んだように青ざめていて、周りはよく見えない。だから敵の気配を感知するには正直、状況が悪い。敵の存在を知らせるはずの肌をぴりつかせるような感覚は冬の寒さにやられていて、殆ど役に立たない。


(まあ、そもそも異常が見られないということも考えられるが)


 草の茂る道を歩きながら、ふと見上げた。

 昼だと言うのに、空は時間の感覚が狂うくらい厚い雲に覆われていて薄暗い。


(雪が降りそうだな)


 内心、しまったと思った。こんなにも天候が悪いとは思わなかった。魔力反応が期待できない以上、異常はないか街の隅々まで自分の目で確認する必要がある。その分、一つの街に掛けられる時間も土地の規模で多少変わると思うが、普段の倍以上の時間を掛けて巡回しないといけなくなる。


 このまま天候が晴れない限り、帰りが遅くなるのは否めないと、人通りのない家と家が建ち並ぶ入り組んだ道を歩く。


 街の中心部から遠ざかる場所にある家々は、どれも荒廃していて、自然力の風化していく跡が見えた。古びた壁の塗料。壊れた塀に倒壊した家屋。街の外れに佇む家々は、見捨てられた焦燥感と悲壮感を漂わせている。


 雄臣は住民の気配を求めて歩き続ける。


「……いないな」


 市街地にあたる街の中心部に行けば、いずれ人に会えると思っていたが、静寂としていて人が暮らしている気配がまるでない。


 この寒さと視界の悪さからして皆、家で過ごしているのだろうか。いつもなら人を見かけるのに、街に入ってからまだ誰とも立ち会わせていない。


 適当に家のドアをコンコンコンとノックしてみたが、反応らしきものはない。住民の顔が見られないと次に行けない雄臣はそんなこんなで十分近く立ち往生していた。


(おかしい。どうしてドアを叩いても誰も返事をしてくれないんだ)


 違和感と疑心が募り出す。


 ふと灰色の陽射しで深い霧が晴れ、次第に視界が開けていった。


「――」


 あれは何だろう。キラリと輝く紅い何か。

 目を奪われたそれは紅くて大きくて鉱石ではない、どこか異質でどこか特別な何か。

 この地球上どこを探してもおそらく見つかりはしないだろう初めて見る何か。


 雄臣は惹き付けられたようにその物体へ駆け付けていた。


 だが次第に歩を進める速度は遅くなっていく。


「……赤い像……いや、何だ?」


 見落としていたのか、家のドアの前で物置きのように倒れ込んでいる赤いソレ。


 よくよく見るとなぜかそれは頭や手足……人間と思しき姿形をしていた。


「これは一体、どういう」


 赤いソレは人の血だった。


 雄臣は膝を付き、一体、の血液を観察する。見た限りその血液は液体ではなく、固体、だ。人が這いずったカタチのまま、ぬめりのある血液の塊となっている。その様は、身体全身、赤いペンキで塗りたくられたかのようであった。


「……うそだ、ろ」


 視野を広げれば、他にも様々なカタチをした血液の凝固体が、あちらこちらに乱立していた。


 直立不動。

 仰向け。

 うつ伏せ。


 外で確認できるものはすべて赤い蝋人形。

 どの像も痛みにのたうち回ったような形跡。


 雄臣は急いで生存者を確認する。


 手あたり次第、家の中を確認するが、どれもこれも全部、ソレ。


(一軒一軒、律儀に殺しに回ったっていうのか?)


 畑地や広場にも駆け付けた。

 でも全部固まったまま。畑を耕している時に殺された人間。広場で仲睦まじく遊んでいる時に殺された子どもたち。


(誰も生きていないのか。逃げ延びた人ぐらい、一人ぐらいいるだろ?)


 無我夢中で失くしたものを探すように、細い路地裏を、人が通りそうにもない細い道を懸命に捜した。でも生きている人間は見つからなかった。


「……っああ、あああ!」


 心から込み上げてくる悲壮感は首を絞められたかのような憤り。


「あああああっ!」


 その憤りは驚愕へと変わった。


 雄臣の目に映っていた死体は次の瞬間、熱に耐え切れなくなったチョコレートみたいにドロドロに溶け始めた。


 他の死体も同様、みるみる溶けていき、やがて広がった液体が大地を赤々に装飾し、残ったのは模型と化した人の骨だけだった。


 雄臣は立ち尽くして、その光景を見ることしかできなかった。

 不甲斐ない自分への怒り。

 血が滲み出る。爪で皮膚が抉れるぐらいに拳を握りしめ、怒りを露わにした。


「でも悪いのはお前だ。……元凶‼ そこに居るんだろっ!」


 伽藍洞となった町に雄臣の声が轟く。


 身体は既に動いていた。


(赤い死体……あれはおそらく熱による重度の火傷)


 雄臣は死体の状態から術者が扱う魔法を推測する。

 死体は体毛もなく、皮膚もなかった。顔は蝋のような血で覆われていて、目や鼻は確認できず、口は開いたまま、不気味な能面みたいになっていた。


(血と熱……)


 骨以外すべて血液と化した死。

 軽い音を立てながら崩れていく人骨をよそに、市街地を疾走した。固体から液体に変わるまでどれ程の時間経過か、分からない。だが、死体の進行具合からして、敵はまだ近くにいる。その可能性が高い。


(いや、たとえ遅かろうとも逃がさない。絶対に)


 雄臣は流れる身のこなしで霧を払い除け、走り抜く。

 いるとしたら中心街ではなく既に人が住まなくなった廃墟街。

 とにかく迷いの森に逃げられたらいかに森を熟知している雄臣でも手に負えなくなるのは否めない。


 目を動かし、辺りを入念深く見渡す。二キロ先にある迷いの森を一分も掛からない速度で走っている途中、雄臣は見た。


「おいっ! 待ちあがれ」


人影らしきものを視認して、声を上げた。


「……」


 五メートル先、ゆったりと歩くそいつの足が止まり、雄臣も立ち止まった。そいつの周りには逃げ延びようとした住民の骸。時すでに遅く、今まさに殺された三人の死体。赤ん坊を抱えながら死んだ母親と幼いもう一人の子ども。


「好き勝手殺したまま、逃げられると思うなよ」


 殺気ある声で、この街の住民を皆殺しにした者を呼び止める。


「えぇ? 何のことですかぁ?」


 振り返ったそいつは、雪が降りそうなくらい寒いのに、上半身、裸。痩せ細った長身の男は、男にしては高い声で訊き返した。


「惚けるな。その返り血、どう説明する」


 男の頬には、雫のような血が流れていた。


「ふぅんふぅん。あ、もしかして、この街の中に殺しちゃいけない人間でもいたぁ?」


 誤魔化せないと思ったのか、開き直った男はいやな笑みを表情に含ませていた。


「そうじゃない」

「じゃあ、何でそんなに怒ってるのかな? 見知らぬ人間が何されようが、君にとってはどうでもいいはずなのに」


 歌うように馬鹿げたことを言うこいつに罪の意識はないどころか、事の深刻さを感じていない。


 倫理と道徳が欠如している人間が、圧倒的な力を手にするとこうなる。この人間に何を言っても通じはしないだろう。


「なぜ殺した?」

「理由? 理由、理由、理由理由理由理由……えっと、そうだな~、下等な生物はいらないかなって。それと僕の趣味かな」


 極めて軽く適当に言い放った。


「下等……。人間、皆同じだと言うのに」

「えぇ⁉ 同じじゃないっしょ」


 男はギョロっと目を見開き、驚きの声を上げた。


「性別、容姿、色、性格、形が違うように、この世に同じ人間は一人たりともいない。そしてその違いの一つに力を持つ者と持たぬ者が存在する。ほら、後者が古く劣った人間たち、だろ?」

「馬鹿馬鹿しい。お前の考えが古く劣っている。仮に才に恵まれた人間がいようとも、それが他者を無差別に傷つけていい理由にはならない。己が他者に比べて秀でていると思うなら、その力は世のため人のために使うべきだ」

「そうかぁ~? そうかなぁ~? 分かんねえやぁ~。それがなぜ良いことなのか、はは、はは、はははははっ」


 考えを放棄した男は、腰がへし折れたかのように大きく仰け反り、嗤い出した。


「じゃあ、なにさ。君は無差別に殺した僕のこと、殺しに来たって言うの? それって、僕とやってること、あんま変わんなくない?」


 背骨が鉄の棒に変わったかのように背筋をピンと伸ばした男は、さらに首を直角に傾げながら問いかけた。


「いや違うな」


 雄臣はそれを端的に否定した。


「この世には、罪と罰がある」

「ほぇ?」

「つまり、殺した罪の代償に、お前の死という罰がある」

「ははっ。やっぱ、殺すんじゃんっ。ってことはさ、君の中でその殺しは正しいものだと認識してるんだね」

「いや、最終的に罰するのは僕じゃない」

「ん?」

「……ただ、君の力量次第では、最悪、殺してしまうかもしれないな」

「ふぅむ、よくわかんないけど、要するに戦うことには変わりないってことでしょ?」


 男は頬に付いた血を、長い舌で絡めとった。


「いいよー。やろうよ。同じように血の彫刻にしてあげるから! 魅せてくれよ、たった一つの最高の出来をさ!」


 言って男は瞳をへの字に、口元をⅤの字のように口元を吊り上げた。その歪んだ笑みは不快でしかない。


「……」


 敵対者が狂気的な笑みを見せる一方、感情を一度リセットした雄臣は無表情であり、その目はさながら夜の海。


「Blood Outburst!」


 発する単語が働きかける。それは死んだ三体の血液に。ジュッと熱々の鉄板に肉が焼かれるような音がして、その赤い遺体は風船のように身体の中にたっぷりと含んだ血液を膨張させながら――破裂させた。


「からの~」


 そいつは楽しそうに次なる呪文を唱える。


「Control!」


 瞬間、地面や壁際、あちらこちらにへばり付いた血液は生き物のように、影のように拡張し、雄臣を吞み込みにかかった。


「――――」


 その動きは確かに速い。だがその現象に雄臣は眉間の一つ動かさず膝を付き、地に手を添え――。


「Heavenly benefit to my slavery《我が隷属に天の恩恵を》」


 ――天から授かった魔法を受理させ、展開させた。


 アラベスク模様のような円まどかが雄臣を中心にして広がる。


「⁉」


 男が驚きの声を上げる。


 人間には発声できない異音。前触れは凄まじい大地の揺れと地割れに変わり、それは天変地異を彷彿させる。いや、まさしくそれは天変地異だった。荒れ果てた大地に潜むのは神秘の大自然。地表から突き出た巨大樹が雄臣を上空へ押し上げ、血の波を可憐に回避した。


 雄臣は二十メートルほどの高さから見下ろす。


「やはり、血液を操るか」


 地上は辺り一面、真っ赤に染まり、血の海になっている。


 雄臣は、冷静な観察眼で状況を把握する。


(呪文の詠唱から、物事が展開されるまで一秒と時間を必要としなかった。そして、殺した住民の血を利用できるあたり、おそらく死んだ住民の血には彼の血が混合しているのだろう。ではどうやって血を体内に……)


 雄臣がその経緯を考えている間、


「■■■■」


 見上げた男が何やら口を開き、何やら唱えた。


「!」


 一変。血は炎に変異した。魔法によって急成長した巨大樹が、ミキミキと音を立てながら勢いよく燃え上がる。血液は爆ぜる。地面から揺らめき立ち昇る蜃気楼のように、赤い炎が大地を埋め尽くし、聳え立つ大木だけを爛々とした炎が浸食していく。


「ははっ。残念だったね。樹木使いに炎は相性が悪いようだ」


 勝利を確信したかのように得意げに話す男に対して、雄臣は黙ったままだ。焦げた匂いと血の匂いを含んだ黒煙。雄臣は口元を覆い、もう片方の手を力強く握りしめた。


 立ち昇る炎は、周囲の酸素を奪い付くし、雄臣の思考を削ぎ落とす。炎の血液はまるで大樹を喰うように一瞬にしてすべてを丸呑みにした。


 火山地帯のように燃える血の中で生きる生命はいない。一度燃えれば、死滅するまで燃え続ける。その燃える音はまるで怨嗟の声。そして最後に残るのは、灰ではなく、形を保ったまま真っ赤に彩られる焼死体。それが普通の炎と違うところで、薔薇のようにとても綺麗な人の花を咲かせるのだ。


 男は指をくわえ、心の奥底から込み上げてくるワクワクで胸がドキドキしていた。一体、どんな姿で死んでいるのかを。


 だが、男は見た。炎が燃え尽きた後、黒煙の中から平然と姿を現した青年の怪奇な姿を――。


「馬鹿な。1000℃を越える炎だぞ」


 男は目の前に立つ青年を凝視する。一瞬にして、青年が扱う魔法の正体が看破できなくなった。


「自然を根源とする魔法ではないのか」


 敵に自身の魔法を公表する奴がいるかと、雄臣は無言のまま歩き出す。


「ちっ」


 舌打ちし、突き破って出てきたのは血の管。男は十本ある指先からうねうねとした血管を生やした。


(そうか。それを使って他者に自分の血を打ち込んだのか? 二つ管があるということは、送り込んだり、吸い込んだりできるってことか? 気持ちの悪い)


 雄臣の感想は以上。


 対して男は奏者のように指を動かした。それに連動した血管は、様々な角度で曲がりながら雄臣を襲撃する。


 だがそんなものは雄臣にとってみれば、ノロマでしかない。一直線に最高速度で、一つ二つワンテンポで遅れて、壁に当たりながらジグザグに、どれもパターンは違うが、最終的な標的はどれも一緒で。


(不意を狙った方がまだ勝ち目があっただろうに)


 一本の枝を拾った。

 雄臣が拾えば、たとえ落ちた木の枝でさえも、それは鉄のように硬く、ナイフのように鋭い武器となる。

 迫りゆく血管に対して、流れるように枝を走らせ、悉く血の管を切り裂いていく。


 十秒も経たずして男の血管はすべて使い物にならなくなった。


「はぁ~。こりゃあ、たまげたよ」

「大人しく投降しろ」

「ああ、分かったよ…………ってするわけないじゃん。ばかが」


 男は瞬時に舌を噛みちぎり、口内に溜まった血を勢いよく吹きかけた。その霧状の血液は空気に触れた瞬間、黒煙となり、男の姿は煙幕で見えなくなる。


「目くらまし。逃げるつもりか。だが――」


 盤上を征する者が、勝利を征する。


 自分を相手にするということは、地球上に生きるモノ全てを相手にすることを意味する。それを逃げる男は知らない。故に、重力がある限り、奴はしっかりと大地に根を下ろしていて、水平面上から逃れることはできない。


「がっ――」


 苦痛に悶える男の声がした。煙の帷の中で、赤く燃える色がした。

 身体を突き刺した木の枝を燃やして逃亡を図る。


「無駄だ」


 捕まる。

 逃げる。

 捕まる。

 逃げる。


 何度、自身の燃える血液で樹木による束縛から逃れようとも、何度も何度も緑は地面から芽を生やし、急激に成長し、不死鳥のように同じことを繰り返すだけ。一面に張られた巨大樹による蜘蛛の巣から逃げることは、果てしなく続く大地そのものから逃げることを意味する。つまり、いかに優れた魔法を持ち得ようとも、何処までも続く大地相手からは逃げられない。


「頃合いだ」


 そして、魔力が枯渇し始めた時が、そいつの運の尽き。それはその攻防が時間にして一分経った頃だった。


「ぐ、ははっはははははあ!」


 笑いのような悲鳴が上がった。煙が晴れると、男はモズの早贄みたいに両腕、両脚、心臓を除いた身体全身に根や枝が突き刺さり、蔓つるや蔦つたが身体中に絡みついていた。


「死んだ者はもっと痛かったはずだ」


 雄臣はぼそりと呟くと、男の元へ近寄る。


「お前の力量では、殺すにも及ばない」


 その言葉は魔法を操る人間にとって、屈辱的なもの以外の何ものでもないだろう。雄臣は端から殺すつもりはなかった。そんな彼に殺しをさせたのなら、それは手加減ができないほど強かったことを意味する。故に今男が殺されずに済んでいるのは、単純に弱かったからだ。


「はは、おかしいな。これでも僕、古流魔法の使い手なんだけど」

「お前の使う魔法は古流魔法なんかじゃない。その端くれだ」


 雄臣は指を鳴らし、自然の拘束具を解除する。穴の開いた身体からは大量の血が流れ、男は力なくその場に倒れた。


 それからして血塗れの手足を蔦つたで縛り上げると、雄臣はその蔦つたの端を掴み、そのまま何処かへ引きずっていく。


「はは、いいねぇ。僕も君みたいな魔法が欲しかったよ」

「……。人間が手にしていいような力じゃない。力に溺れて、大事なものを忘れた結果が、今のお前だ」

「はは、はは、ははははは」

「何がおかしい」

「違うよ、青年。ただ単純に、優勝劣敗の法則に生きる世界で敗北しただけだよ。世界はそういうふうにできてる」

「黙れ。僕らはそこらにいる動物たちとは違う。何のための知能と言語か、弁え、律しろ」

「――――」


 男の返答がないことに気付いて、雄臣は背後を振り返った。


「……」


 その格言を男は聞いてすらいなかった。


 自分の世界にでも閉じこもったかのように、男は身体の傷を修復するための深い眠りに入っていた。頭を引きずられながらも、痛みを知らない赤子のように眠っている顔を見て、雄臣は怒りから表情を歪ませる。


 街の人間を好き勝手散々殺しておいて、何とも思っていない。街の皆は炎に焙られながら、酷い死に方をしたと言うのに、こいつは苦痛も感じずスヤスヤと眠っている。


「こんな奴、生かして何になる」


 蔓を握る手に力が入る。

 今すぐ殺してしまいたい感情に襲われる。


 だが、その思いは妹の顔を思い出して押しとどまる。殺したところで、何も生まれない。殺してしまったら、命の価値が分からなくなる。戻れなくなる。


「……くそっ。僕はまだ人でありたい……」


 雄臣は妹と同じように綺麗な手のまま、純粋な正義の味方でいたいと、なれなくても心の中では思っていたかった。

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