第8話

 飲み会がお開きになり、俺は家路についた。


 幸い、まだ終バスがあったため、俺は走って飛び乗る。例のごとく誰もいない。昔家畜を輸送する貨物列車を見たことがあるが、あっちのほうがよほど生気が充満していた。


 世界が滅びたようにがらんとしたバスが、宇宙みたいな道路を進む。さながら銀河鉄道のように、あるいは新たな惑星を求めて旅をする宇宙船のように。


 何度乗ってもこれには慣れない。人類が俺だけ遺してどこかへ去ってしまったような気がして、不安になる。

 子供じみた空想だ。しかし、心が子どものまま、身体だけ大人になってしまったかのような俺にとっては死活問題だ。


 ——寂しい。


 どこから来たのかも分からない感情が、かすかな香りを伴って去来する。甘美な絶望を伴う芳香が官能をくすぐっていく。


 そうだ。

 孤独感と絶望、そして後悔。


 それだけが、俺を形づくるすべてだった。




 家に着く。


「ただいま~」


 とあいさつをして玄関のドアを開けるが、当然誰もいない。暗い部屋が真なる闇を宿してたたずんでいる。


 真の闇だ。

 ほかの暗闇なんかとは格が違う、掛け値なしに本当の……。幽霊でも出てくれればどんなにマシだろう。


 速足で廊下を歩き、手当たり次第に電気をつけていく。しかし、明るくなった部屋もそれはそれで独特の寂寥感を伴っていた。


 床に置いた電気ポットにつまづいて転ぶ。

 ペットボトルが音を立てて散乱する。


「ああ、クソッ……」 


 久々に人と飲んだ。

 それだけのことだ。それだけのことだったんだ……。


「死にてえ……」


 久々に巻島と桂と飲んで、俺が最も強く感じたのは楽しさや嬉しさなんかじゃなかった。


 自分だけが大人になりきれなかったような、自分だけが人間たりえなかったような、そんな気分だったんだ。俺はそれを寂しさ、あるいは切なさと呼んでいた。人と一緒にいるのに孤独なのだ。もはや救いようがないと思えた。


 アルコールで頭が酩酊する。

 視界が定まらない。


 目が回る。

 世界が回る。



 ——このまま死ねたらいいのに。



 そうすれば、アイツに対する罪悪感とか、みじめさとかいうやつとはおさらばできるんだ。


 単純明快な方程式だ。


 すでに式は出来上がっている。

 あとはそこに変数を代入するだけ。


 なのに、それができない。

 子どもの頃の遠足のように、運動会の入場のように足踏みをしている。

 俺の命はみじめたらしく生にすがりつこうとしている。


 不快だ。

 みじめだ。


 自分のことが――どうしようもなく嫌いだった。


 ……。


 俺は知らぬ間に、意識のまどろみに身をゆだねていた。




 目が覚めると、朝になっていた。


「——やべっ!」


 慌てて飛び起きてスマホを開く。


 7時15分。


 結構危ないが、十分遅刻はしない時間だった。


 簡単な朝食をとり、昨夜履いたままだったスラックスを脱いで別のズボンを履く。灰色のしゃれたズボンだ。


 洗面所で歯を磨き、顔を洗う。そしてコンタクトレンズをつける。


 クリアーになった視界には、やつれた20代の顔が映っていた。

 醜い顔だ。生きている価値があるとは思えない。


(……いかんな)


 朝からネガティブな気分になってしまう。まだまだ仕事は終わらないのだ。根性を入れないと、人生は生き切ることすらままならない。




 午後9時半。

 仕事が終わる。


 帰ろうとしていると、同じく残業していた桂に声をかけられる。


「あ、ねえ名屋」

「なんだよ」


 かばんに荷物を収める手を止めると、彼女は心なしかもじもじとして俺の顔をうかがっていた。


「その、さ、今日……食事でもどう?」

「今日?」

「うん。昨日話し足りなかったこともあるしさ」

「うーん……」


 正直気は進まない。

 昨日みじめな気分になった挙句に今日も彼女と顔を突き合わせるには、俺の神経は繊細過ぎる。


「今日はなあ……」

「お、奢るよ!? 付き合ってもらうんだしさ!」

「そういう問題じゃあなあ……もう時間も遅いし――」

「タクシー代も出すよ!」


 あくまでも、桂は今日俺と飯を食いたいらしい。正直なぜなのかは全く分からないが、やはり男からの人気が高い彼女に誘われると、俺のような権威におもねる人間は断ることもできなかった。


「わかったよ。飯代もタクシー代も出すから、行くか」

「やった!」


 両手を胸の前で握って喜ぶ彼女を見ていると、俺の中の知らない部分にかすかに火がともったような気がした。




 今日やってきたのは、桂の行きつけというイタリアンバルだった。


「こんばんは~」


 桂があいさつをして入店するのに続く。すると、カウンターに立ってグラスを磨いていた男が顔をあげた。


「おお、芙蓉ふようちゃんか。平日なのに珍しいね」

「こんにちは、店長。二名、空いてる?」

「好きなところに座りなさい」


 店長と呼ばれた男は、豊かな口ひげを蓄えた顔を微笑ませる。シックな照明によく似合う笑みだった。


 全面ガラス張りの壁に隣接した二人掛けのテーブル席に、向かい合って腰掛ける。そばには観葉植物の鉢が置かれており、店内の照明と外の道路を走るヘッドライトを緑色に反射していた。


「名屋は何にする?」

「俺は……」


 と言いながらメニューを開いて目に入ってきたのは、わけもわからない横文字の商品ばかりだった。


「……とりあえずプレモルかな」

「そ。料理は?」

「桂に任せるよ」


 うなずいた桂は「すいませ~ん」と店長を呼んで「いつもの」と言う。店長は一切承知の顔でうなずき、キッチンへと引っ込んでいった。


「ここ、常連なのか?」

「そうだよ。立地的に穴場でさ。お酒も料理も安くておいしいし、名屋も通えば?」

「考えとくよ。……タバコ、いいか?」

「いいよ。その代わり、一本頂戴」

「またかよ。いい加減自分で買え」


 ぶつくさ言いながら一本差し出すと、桂はにっこり笑ってそれを咥える。俺がライターを近づけて着火してやると、流麗な動作で煙を吐き出した。同じタバコなのに、吸い手が変わると見栄えも変わるもんだなと思った。

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