第3話 コーチング大作戦

桃之井惟が生徒会『雑多相談所』を訪れた翌日の火曜日。


 師龍ら生徒会メンバーの三人、そして相談者の惟は、放課後の開始を知らせるチャイムが鳴り響いた後、学校近くの河川敷に集まっていた。

 服装はもちろん、学校指定の上下紺色ジャージである。


「うん、よろしい! みんな揃ったね。じゃあ早速、『コーチング大作戦』を始めよう! おー!」


「おー!」 「お、おー……」 「おー……?」

 

 満面の笑みで最高潮のテンションを叩き出す高嶺に、直美、師龍、惟は三者三様の反応を示す。ちなみにこの河川敷、今の時間帯は小学生らで溢れ返っている。つまり師龍に言わせればこの状況は死ぬほど恥ずかしい訳で。


「あっ、そうだ。練習を始める前に、何個か確認しなきゃいけないことがあるの」


 そう言って高嶺は一本ずつ指を立てていく。


「まずは、この『コーチング大作戦』の目標だね。それで惟ちゃんのお願いは、人から見ても恥ずかしくないレベルのソフトボール技術を身に付けること。だから目標は、投げる、打つ、捕るの三つの基本プレーが出来るようになること。それで良いよね、惟ちゃん?」


 惟はコクリと頷く。


「二つ目は、担当分担について。わたしはもちろん実技指導で、師龍くんがキャッチボールの相手とか、ノッカーとか、そういう役。それでなおちゃんは動画の撮影とか、その他もろもろの補助的なのが担当だね。オッケー?」


 師龍と直美は首肯する。それに高嶺は満足げに頷き、


「うん、よろしい! じゃあ、三つ目で最後の確認ね。ついでに言えば、一番重要な確認かも。えっと、実はこの『コーチング大作戦』、期間は最大でも3日間しかないんだよ」


「あー、了か……え? 3日間?」


 そのままの流れで承諾しかけた師龍だったが、思わず聞き返す。


「うん、3日間。だってスポーツ大会があるのが今週の金曜日なんだもん。そうだよね、なおちゃん?」


「はい、その通りです、姉様」


「マジか……じゃなくて3日間で間に合うのか? その、桃之井さんの実力的に」


 問うと、高嶺はふむんと顎に手を遣り、


「それはそうだよね。惟ちゃんが今の段階でどれだけ出来るのかにもよるもんね。……よし、じゃあ今すぐ惟ちゃんの現状を確かめちゃおう! 師龍くん、惟ちゃんのキャッチボール相手お願い!」


「お、おう。分かった」


 高嶺お得意の即決に驚きつつも、師龍はすぐにカバンから黒色のグローブを取り出すと、惟と10メートルほど距離を取って離れる。まあこれくらい投げられれば大丈夫だろうとの配慮からだ。


 一方で惟の方も高嶺からグローブを渡され、ぎこちなくもその手にはめる。


「惟ちゃん、準備大丈夫?」


 隣に侍る高嶺に、惟は「はい」と答える。


「ところで足柄。どれくらいの実力だったら3日間でも間に合うんだ? そのある程度の基準が知りたいんだけど」


「確かにそれは私も知りたいです、姉様。基準があれば分析もしやすいですし」


 直美もスマホを構えながら師龍に賛同する。高嶺は「ふっふ」と得意げに鼻を鳴らし、


「そうだね、それなら明確な良い基準があるよ。それはね、――ずばり、なおちゃんより上手いかどうか!」


「えっ!? わっ、私ですか、姉様!?」

 と、突然の指名に直美は仰天する。


「うん。だってなおちゃん、運動神経悪い悪いって言いながら近いキャッチボールくらいは出来るでしょ? だからなおちゃんよりも上手なら、そこまで心配する必要はないかなって。……もしかして基準にされるの嫌だった? 嫌ならやめるんだけど……」


 しおらしく上目遣いで見つめる高嶺。その可愛らしい様子に直美はハワワッと口元を押さえ、


「いっ、いえ。ねっ、姉様がそうおっしゃるのなら私は基準にされても大丈夫です。嫌ではありません。むしろ姉様の願いならいくらでも引き受けます!」


 なぜかムフーと珍しく鼻息が荒くなっている。


「そっか。ありがとう、なおちゃん!」


 対して高嶺も花のような笑顔を浮かべる。


「……いつもこんな感じなんですか?」


「ああ、いつもこんな感じ。いたって平常運転だよ」


 そんな姉妹を見て呆然とする惟に、この尊き姉妹の生き証人である師龍は呆れとも慈しみとも見える笑みを溢していた。


 ・ ・ ・


 一通りの姉妹漫才が終わり、ようやく惟の実力を実際に確かめてみることになった。


 高嶺がカバンからソフトボールを取り出し、惟に手渡す。これは体育担当の先生に頼んで高嶺が借りてきたもので、加えてそのときに校外活動の許可も校長先生から得てきていたりする。


「なおちゃん、ちゃんと動画準備できてる?」


「はい。バッチリです、姉様」


 高嶺は頷き、惟にオッケーマークを送る。


「じゃあ、投げますね」


「オッケー」


 師龍の位置を確認して、惟はギュッとボールを握る。たかが10メートル。惟の中でも簡単に届くイメージしか浮かばない。


「ふぅ……」


 惟は緊張を解くようにゆっくりと息を吐くと、


「エェイッ!」


 力一杯ボールを投げた。


「「おぉっ……!」」



 ボールは指から離れて小さく綺麗な放物線を描き――、



「「おぉ……おぉぉ……ぉぉ……」」



 ――惟の3メートルほど前にポトリと落ちた。




「……あれ?」


 師龍が呆気に取られた目で見ると、惟は固まったまま頬を紅潮させ、


「……っ!」


 プルプルと恥ずかしそうに震えている。そしてスマホを手にした直美も、


「まさか私よりも投げられないとは……。驚愕です……」


 愕然と立ち尽くしている。


 何とも言えない微妙な空気が、夕方の河川敷にやんわりと流れ始める。


「……これ、間に合うのか……?」


「ど、どうすれば良いんでしょうか……」


 不安そうに呟く二人。


 しかし、この女神様は違った。否、むしろ言うなれば、これこそが女神様たる所以であった。


「えっ、全然悪くないじゃん! 惟ちゃん良い線してるよ、特に投げ方とか!」

 皆が当惑する中、高嶺はただ一人嬉しげに興奮した表情を浮かべる。


「そ、そうでしょうか……?」


 自信なさげに尋ねる惟に、高嶺はニッと笑って見せ、


「うん、そうだよ! だって惟ちゃんソフトボール初心者でしょ? なのにちゃんと振りかぶって全身を使って投げてたでしょ? あんなの本当に運動神経が悪かったら出来っこないよ!」


「ほ、ほんとですか?」


「うん! なんならなおちゃんに見せてもらえば? 動画撮ってもらったはずだから。ねえなおちゃん、録画してくれたよね?」


「はっ、はい。バッチリ撮ってあります」


 スマホを覗いた直美は、手早く確認をして惟のところまで走っていく。そして画面を見せると、スタートボタンを押して動画を再生させた。


「……ほんとだ……」


 そこにははっきりと、腕を高く振り上げて重心を作り、足を上げて全体重を移動させ大きなテイクバックから思いっきり腕を振り抜く惟の姿が。まさに往年の大投手を彷彿とさせる豪快なフォームであった。


「ね? 投げ方はちゃんと出来てるでしょ?」


「はい……」


「だから、あとは投げるって経験をたくさん積んで、体にボールを投げる感覚を身に

付かせるだけ! 3日もあれば余裕だよ!」


 言われ、惟は少しずつ表情を晴れさせる。


「そ、そうですか?」


「うん、そうだよ!」


「私でもソフトボールが上手くなれますか?」


「うん、なれる! わたしが保証するよ!」


 そう言って高嶺は判子を押す動きをする。


「……そ、そうですね。そう言われると私、何だか出来るような気がしてきました」


「そう! その調子で特訓を始めよう!」


「はい!」


 最後には快い笑顔で、惟は強く頷いていた。


 それを見届け、高嶺はそっと師龍と直美のところまで歩いていく。その顔はいかにも不満そうに膨れている。


「もー、二人とも心配しすぎだよ! あんな言い方してると惟ちゃんが自信失っちゃうじゃん! ……まあ、わたしが教えるんだから問題ないんだけどね」


「自分で言うなよな……」


「まあ、それが姉様ですから……」


 ボソッと溢されるツッコミ&フォローも、高嶺の耳には聞こえない。今もぷんぷんと可愛らしく頬を丸くしている。


「でも足柄。ホントに3日間で間に合うのか? いくら投げ方が良いって言ったって、妹より下手なんだぞ、この妹より。ホントに確信あるのか?」


 怪訝げに問うと、「悪かったですね、私の方が出来てしまって」と毒づく直美を尻目に、高嶺は「ああ、」と首肯した。


「それなら大丈夫だよ。だって見てよ、惟ちゃんあんなに真っ直ぐな目をしてるんだよ」


「目、ね……」


 見れば、確かに煌めくような目付きで直美から借りたスマホを大事そうに覗き込んでいる。一言で言ってやる気に満ちていた。


「きっとスッゴく真面目なんだろうね。それに意志が強い。誰よりも惟ちゃん自身が頑張る気でいるんだよ。なのにそれを師龍くん、わたしたちが諦めちゃダメでしょ? それが相談を引き受けたわたしたちの責任なんだから」


 曇りのないまっさらな瞳で見つめられ、師龍は言葉を失う。そして次の瞬間には、諦めたような呆れたような、ポップコーンみたいに軽い笑い声が心の底から溢れていた。


「ハハハッ。あー、そうだよ。それでこそ足柄高嶺だよな。ホント、本気で人の力を信じてんだから。まあ、俺もそんなお前に信じられた一人なんだけどな」


 なおも笑いを浮かべる師龍に、高嶺はコテッと幼く小首を傾げ、


「ん? 何で笑ってるんだろう? わたしって変なことでも言ったっけ?」

 とハテナマークを浮かべている。


 それがまた師龍には滑稽でそれでいていつくしく思えるのだけれども、今はそれどころではない訳なので、


「いや、何でもない。でも、分かった。足柄がそう思うんだったら、俺は足柄に付き合うまでだ。だてに俺も生徒会執行部メンバーじゃないからな。会長様のご意志にはそれなりに従うさ。な、妹?」


 直美もしかと頷く。


「はい。高階先輩に同意を求められるのは心外ですが、この直美、絶対に姉様のご意志に従います。それが私の生きる意味、生きる道ですから!」


「PUFFYかよ……」


「何か言いましたか、高階先輩?」


「いや、何も言ってないけど?」


「どうして疑問形なんですか。まあ良いですけれど。もともと高階先輩は意味不明なんですから」


 フンッと嘲るように鼻を鳴らす直美に、師龍はやれやれと溜め息を吐き、


「まあ、何はともあれ、これで俺も妹も踏ん切りがついたってことだな」


 すると聞いていた高嶺はニコッと微笑み、


「うんうん、よろしい! よく分からないけど、二人がそう言ってくれるならわたしは信じるだけだよ。だから早く練習に入ろう! もうすぐ日が沈んじゃうよ!」


 惟の待つ方へ駆け出す。


 気付けば太陽もだいぶ赤みを帯び、いつしか小学生たちはいなくなっていた。嫌でも日没が近いことを認識させられてしまう。

 さらに見遣れば、その太陽の下では惟が入念に動画をチェックしながら自主練習を始めているではないか。


「まっ、待ってください姉様!」


 先行く高嶺を慌てて追いかける直美の後ろ姿を眺めながら、


「ホント、面倒くさいったらありゃしないなぁ」


 師龍は微かに口元を綻ばせた。


 ・ ・ ・


 それから1時間と少し。

 高嶺ら生徒会執行部による惟の『コーチング大作戦』初日は、思いの外激動のうちにひとまずの終息を迎えた。


 カバンを肩にかけて達成感のある顔でお辞儀をする惟に手を振ると、高嶺と直美、師龍は惟が帰途についたのを確認して踵を返す。


 堤防沿いの道路を夕日に向けて歩きながら、高嶺が夕空に向けてグッと両手を伸ばした。


「ッッアー、疲れたー!」


「私もです、姉様」


「お前は動画撮ってただけだろ」


「黙ってくださらないですか高階先輩?」


「……はい」


「アハハッ、二人ともまだ元気じゃん!」


 そんな取り留めもない会話がカラスの鳴き声と交じり合う。


「ただまあ、あれだな、思った以上に熾烈を極めたね、初っ端から」


 微笑を湛えながらくたびれたように言うと、直美も軽く頷き、


「はい、高階先輩に全く同意します。まさか投げ方以外が壊滅的に下手だったとは。特にキャッチングは酷かったですね。自分で言うのも馬鹿馬鹿しいですけど、私の方が上手いですよ、絶対」


「ホントそれね。珍しく妹が運動神経良く思えたからな」


「……いつもなら心外ですが今日は文句は言えませんね」


 不満げに小さく口にする。


 すると高嶺がパンパンッと手を叩き、


「はいはい、そこまで! もう、二人ともそんなに言わないの! 惟ちゃんだって一生懸命やってるんだから」


 腰に手を当てて叱るようにムウと頬を膨らませる。しかし今回ばかりは直美も退かなかった。


「分かってます。分かってます、姉様。でも姉様だって見たではありませんか。私よりも下手なんですよ、桃之井惟さん」


「うん、そうだね、そうだよ。確かに惟ちゃんの運動神経は抜群に悪かったし投げ方しか綺麗じゃなかった。その辺りに転がってる石の方が綺麗なんじゃないかってくらいに汚い捕り方だったし、打ち方だった。それに投げるのだって結局5メートルしか投げられないなんて。わたしも正直驚きを隠せなかったよ!」


「いや、私はそこまでは言ってないです姉様……」


「あれ、そうだっけ?」


「……確かに鳩が豆鉄砲を食ったような目をしてたからな、足柄」


 自らの姉の容赦のなさに若干退くことを覚えるまでは。しかも天然物の。


 「ハハ……それはごめん……」と照れ笑いを浮かべる高嶺。


「……でもさ、その分張り合いがあるでしょ? それに惟ちゃんが実際にスポーツ大会で活躍できれば、惟ちゃんだけじゃなくてわたしたちの達成感もすごくなると思わない? それこそが、わたしが『雑多相談所』を作った理由なんだ。例年通り毎年同じのいつもと変わらない生徒会執行部なんてつまらない。なら、わたしたちはわたしたちの、わたしたちによるわたしたちにしか出来ない生徒会執行部になれば良い! 例えそれが、ただの悪足掻きに終わってしまうとしても、ね」


 ジャージには何ヵ所も土が付き、白く砂で汚れている。惟の初めての練習に一番真剣に付き合い真っ正面から向かい合った高嶺が、絶対的に一番疲れているだろう。

 にも関わらず、それでもなお、高嶺の笑顔はどこまでも続く青空のように晴れ渡っていて、儚げな夕日を浴びようとも霞まない快活さが、言葉の端々から溢れんばかりに滲み出ていた。


「……そんなことにはならないだろ。……いや、俺がそんなことにはさせないよ、絶対に……」


「え? 何か言った、師龍くん?」


「……いや、何でもない」


 キョトンとした顔をする高嶺に、師龍は柔らかく微笑む。もし聞こえていたら恥ずかしさここに極まれりだが、それでも師龍の意志は、想いは、確かにその一言に表れていた。



 そう、それがあの日から変わることのない、師龍にとっての生きる道なのだから――。



 輝き照らす日の光に目を瞬かせながら、直美は軽くない足で上級生二人の後をゆっくりと歩く。眩しそうに前方を見つめるその顔は、姉とは反対に曇り空のように陰っていた。

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