応援コメント

第6話 名前(5)朝霞美優、岩瀬基樹」への応援コメント


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    登場人物の名前作りって、個人的にはいつも悩まされる部分でした。

    (事実、いろいろ考えて名前が決まった後でも、他のキャラとかぶるのかーとか、実在する人はないのかーとか、検索してみたりして、せっかく作った名前が流されたり。涙)

    それを、このような裏話を通して、他の方がどのような考えのもとで、キャラの名前を決めているのかを知ることができて楽しかったです。

    それと、キャラに対する考え方がとても印象的でした。
    特に『作者にもコントロールしきれない部分が確実にある』というくだりは、いろいろ考えさせる話でした。

    作者からの返信

    冬野さん

    こちらまでお読みいただき、そして星評価までいただき、ありがとうございます!

    登場人物の名前、悩みますよね。
    私自身、皆さんどうしてるのかなと気になり、私なりの方法を書き連ねてみた次第です。

    一生懸命考えた名前が他作品のキャラとかぶったり、実在人物と似てたりは、本当にあるあるですね笑

    キャラクターに血を通わせて行くと、だんだん作者の思い通りには動いていかなくなるので、そういう時には深呼吸して、自分の奥へ潜り、「…で、君はどうしたいんだい?」とキャラと一対一で話す、という電波なことをよくしています。


  • 編集済

    私だったら、「朝と夕」の両方が入っていることを理由に採用したと思います。
    好みは色々。

    さて、前回に引き続き、「なぜツンデレなのか」について語りたいと思います。繰り返しますが、これは、あくまでも私の邪推と独断と偏見であり、真実とはとんでもなくかけはなれている可能性があります。
    ※ご注意 以下の文章は人によっては重大なネタバレにあたる可能性があります。 











    不思議だなあ、と思っていたんです。

    私、尻鳥はシヴァを破綻した、とか、閉じた、とかいう作品だとは思っていなかったんです。少なくともそう見えたものは、作者が最初からそう見えるよう意図したものだろうと考えていました。なぜならそれが魅力のひとつであると捉えていたからです。なのに作者の評価は違う。
    この齟齬はいったいどこから出てきたのか。
    疑問が解けたのは、本編のコメントのレスにあった、「この作品は語り手の視点によるマルチバース(多元世界)でもある」との説明を読んで事態を把握したのです。

    作者さんが、とんでもない誤解をしている可能性に!

    多元世界(または平行世界)、という概念は、ご存じの人が多いかも知れませんが、科学的には思考実験である「シュレディンガーの猫」に端を発します。
    この実験における猫は、生きている状態と死んだ状態が重ね合わせになっていると考えられます。そんな状態がありうるとしたら、それは可能性の違う別の世界が重なっている、そしてそこからさらに別々な歴史に変化すると言えるのではないか、という解釈が多元世界のもと(の、ひとつ)となりました。

    したがって、猫が主人公の多元世界を物語として表現するとしたら、猫が生きる世界と、猫が死ぬ世界を、同列(同量とは限りませんが)に冷徹に描く必要があります。
    でもそれって、猫好きには難しいと思いませんか?
    猫好きだったら、ついつい、猫が生きる世界を大事に描いてしまうのではないでしょうか?

    シヴァを読んで誰しも感じると思うのは、作者さんが各キャラにそそぐ愛情の深さです。なのに、そのキャラを設定に跪かせようとしている。だから、あちこちで「破綻」してしまう。でも、読者はそもそもそんな隠し設定など知らないし、作者によるキャラへの想いが眩しくて細かい計算など気付かない、もしくは「謎めいた」程度の認識しか持たない。だから作品の魅力を見えるまま、そのカオスそのままで受取り、ああ、こういう作品なのね、と感じてしまう。

    「どっか行っちゃえ……やっぱり行かないで!」
    「べ、別にアンタたちに存在してほしいとか、そんなんじゃないんだからね!」

    ……と、聞かされたかのように。
    まごうかたなき、ツンデレでございます。
    ごちそうさま。

    読者にとってシヴァの魅力は、計算された魅力ではないと思うのです。
    綿密な取材の上に成り立っているため荒唐無稽にならない、それでいて現実と幻実が交じり合う、訳の判らない魅力があると言っていい。
    それは親である作者の希望の進路とは違うけれど、溢れんばかりの愛情と正しき教育を受けて育った我が子が、苦しみながらも自分なりの道を歩まんとする凛々しき姿でもあるのです。
    破綻もまたその一歩に過ぎないのです。
    閉じている、と思っているのはオタクへの偏見を持っている人と、そして作者さんだけではないでしょうか?
    それが誤解、読者に対する誤解、キャラに対する誤解である、と私は思うのです。

    では、設定を読み取らない読者には、実際シヴァはどう見えているのか?

    フィギュアを題材にしたスタイリッシュな小説、という点以外に他人がどう感じるか、というのは私に本当のところは判りません。しかし、おそらく、「カッコいいキャラたちがマンガエファクトを決める謎めいた本格ヌーベル・スポコン」として捉えている人が多いのではないでしょうか。マンガエファクト、というのは私がいま作った造語ですが、テニスのサーブが天地を裂き、告白が薔薇の津波となり、美味が審査員を爆破する、おなじみのヤツですよ。

    そして、当の私、尻鳥は、シヴァをどう見ているのか。

    前置きとして、45年前のとあるマンガの中の台詞をひとつ紹介しましょう。
    作者は萩尾望都さん、タイトルは「ハワードさんの新聞広告」。
    この作品には空を飛べる少年が登場するのですが、その空を飛ぶ理屈というのは、ただひと言。

    「ただの子どもは みんな飛ぶんだ」

    私は、トーマが持つパワーは、本質的にコレじゃないかと思っています。
    すべての高みを目指す者たち(ひょっとしたらこれを読む貴方でさえも)は、すでにそのパワーを持っている。
    そして、スポーツに、音楽に、フィギュアに、神に、深淵に、あるいは「銀盤」に、望む望まざるにかかわらず「選ばれてしまった」者たちは、そのパワーに「気付く」。
    「得る」のではなく。

    だからトーマは自分が英雄や勇者のようにスペシャルな存在だとは思わないし、そのパワーを持っているのに気付いていない人がもどかしくてしょうがない。だから、まるでヴァルハラに英雄をいざなうというヴァルキリーの役割をせざるを得ない。目覚めてくれと放たれたイカズチのように。

    しかしヴァルハラは、万人向けの天国ではなく、誇り高き戦士たちが永遠に殺しあうという、きわめて人を選ぶ世界です。神の審判、真理の深淵、銀盤というコロシアムも、同じ二面性を持っています。
    ある人にとっては救いや喜びであっても、ある人にとっては地獄にしか思えない。だからトーマは天使であり、同時に悪魔でもあると思うのです。

    そして、トーマが見せるファンタジーとは何か。
    それは、マンガエファクトに彩られた、いわゆる「ゾーン」ではないかと思っています。ただし、そのゾーンを表現するヴィジョンと言葉は、語り手によって違う。ある人にとってはそれはオカルトだし、ある人にとっては神話だし、マンガ、ミステリ、SF、哲学、おとぎばなし、幻覚、異次元世界、そして、ゆるぎなき現実のひとつ。さらに、同時にそのすべてでもあります。
    世界は、人の数だけ、その認識の数だけ、もともと重なり合って存在していて、高みを目指すものだけが、つかのま、それを俯瞰することができる。
    これがマルチバースという概念と違うのは、「たくさんの世界によってひとりの人間が成り立っている」のではなくて、「たくさんの人間によってひとつの世界が成り立っている」という考え方の違いになります。

    トーマは氷上の舞によってその視点にいざなう巫女、そして、この物語は、彼にいざなわれた(いざなう、を漢字変換すると、誘う、になります)人たちから見た話のアソートである。

    そして、トーマが果たして何者か、という問いかけは私にとって無意味です。
    もともと人間は、神にも悪魔にもなれるし、されるからです。

    私はシヴァを、そのように解釈しています。
    二度に渡っての長文、失礼いたしました。
    素晴らしい物語をありがとう。

    作者からの返信

    尻鳥さん

    作者である自分よりも的確に、そして芳醇に、自作を語られた時、作者としてはどのような言葉を発すればいいのか、というのが率直な今の気持ちです。降参してしまいたいところですが、そうもいきません。

    シヴァはマルチバースではなくユニバースだと言い切れたらどんなに気持ちが楽でしょう。というか、まさにそう言い切れるような作品をこそ私は書くべきだった…。

    当初はそんな妙な仕掛けを入れるつもりは皆無でした。
    単に「桐島」スタイルを気に入り、章ごとに語り手を変えて書いていくうちに、時系列の齟齬が避けて通れなくなってしまったのです。(章を照らし合わせると、刀麻の四回転失敗や、里紗のリンク入りするタイミングなど、出来事の前後関係が矛盾していることに気付くかと思います←そんな細かいこと誰も気付かないよ、ということをまさに尻鳥さんは仰りたいのかもしれませんが…)
    その齟齬を解消しようとすると、章が死ぬ気がしました。あっちが生きる代わりに、こっちが死ぬという風に。何とかこの齟齬を齟齬として残したまま、作品として成立させる手はないかと思い、辿り着いたのが、いわゆるギャルゲーやビジュアルノベルのマルチエンディング手法でした。
    結局のところ、策士策に溺れてしまったのだな、と思います。

    本当は芥川龍之介の「藪の中」のように書きたかったのかもしれません。あれはそれこそ尻鳥さんの仰るような「アソート」だと私は解釈しています。

    実際のところ、世界はどのようにできているのでしょうかね?……というのが、私がこの作品で一番、読者一人一人に突きつけたい問いなのかもしれません。
    たくさんの世界によって一人の人間が成り立っているのか?
    たくさんの人間によって一つの世界が成り立っているのか?
    一人の人間はどこにいるのか?
    一つの世界とは何を指すのか?
    世界に観測者はありうるのか?

    こういうものを刀麻一人に背負わせてはいけなかった。あるいは、ありったけ背負わせて完全に向こう側に追放するべきだった。
    ……この二律相反が私の中に同居する限り、尻鳥さんが私に下した「ツンデレ」という評価はやはり的確だと思います。

    >「ただの子どもは皆飛ぶんだ」
    この言葉を見て、一番大切なものが伝わっていた、ということに涙が止まりませんでした。
    各章の語り手は刀麻を「ワガママ」だと形容します。そしてそれは即座に刀麻に出会って以降の自分への評価に直結します。
    「ワガママ」とは、「べき」や「ねばならない」によって社会に矯正・馴致される前の状態、すなわち「子ども」を指しているのです。
    第一章のタイトルが「Child」なのも、刀麻の何よりの本質が「子ども」だからです。

    もともと人間は神にも悪魔にもなれるし、される。
    それは、人間は元々みな「子ども」だから……と結論付けるのは、少し安易すぎるでしょうか。

    最上級に優れた講評とは、作者自身が気付かなかった作品の死角にスポットライトを当てるものだと思います。
    尻鳥さんがシヴァに対して下さった講評は、そういった意味では私にとってまさに目から鱗であり、同時に「そこまで伝わっていたのか」と共有する世界の思わぬ広さ・深さを眼前に提示する……二つの矛盾を華麗に飛び越える、まさにアクロバティック的跳躍でした。

    尻鳥さんのような読者に見つけていただけたこと、そしてこのような講評をいただけたこと、この上ない僥倖だと思っております。
    宝物のようなお言葉、しかと胸に抱き、また一歩ずつ前に進んでいきます。
    本当にありがとうございました。

    編集済