この世界にも神はいるんだろうか。

「その人はね、領収書から手紙から、ありとあらゆる自分の行動の記録をファイリングしてたんだって」

「さっき言ってた建築家?」

「そう、行動や考え事も、全部ノートに書きつけて、間違っていても正しくてもすべてを記録に残すことが、自分の行動と創作物の根拠になるって。だからそのファイルにはね、その人のすべてが記されてるの」

「……すべてねえ」

「そう、ひとりの人間のありとあらゆる記録……最高じゃない?」


 楽し気にそう話す彼女はもう奇行を繰り返してはいない。無邪気なただの女子高生だ。

 僕たちはお馴染みのテラス席で、未だに続く8月を眺めながら話している。

 相変わらず彼女の世界は暑かった。


「僕はそんな記録、ゾッとするけどなあ」

「えー? なんでえ?」

「ちょっと嫌だよ、今までの悪事も失敗も未熟な行動も、全部誰かが読めるようになってるなんて」

「そうかなあ。でもそれも含めてヤカモトくんじゃない」


 彼女は屈託なく笑う。その笑顔がただのプログラムではなく彼女の意思によるものだと僕はもう知っている。知っているから、心からそれを美しいと思える。


「でもよく知ってるね、そんな話」

「うん、これもね……神様の電話が教えてくれたのっ!」


 途端に彼女のはしゃぎ方が激しくなる。そのままほとんど興奮状態に。

 その話題になると僕はどういう表情をしていいかわからなくなり、目をそらす。

 ここのところはそれが僕と彼女の日常だった。


 神様の電話。


 彼女を正気に戻し、彼女をより彼女として進化させる方法。

 タカミネが「窓」と呼んだその機能は、ゲーム内に設置された一つの公衆電話に付与された。

 何の変哲もない、タバコを売ってなければとっくに潰れていただろう雑貨屋の横に備え付けられた公衆電話。

 つい先日まではただそれだけの存在だった電話は、今やこの世界で唯一外の世界……つまり僕やタカミネが暮らす現実世界のネットと直接つながっている、いわば異次元への窓に変貌している。

 それが彼女の「神様の電話」だった。




 あの日、チャンネル空間でタカミネが僕に話した説は実に単純だった。


――彼女が通常のキャラクタの数千倍の記憶を処理する過程で意思を持つように進化したっていうなら、より多くの情報を与えれば更なる進化を促すことができるんじゃないか。


 説というより実験だ。単純すぎるぐらいに単純な実験。

 金魚に大量のエサをあげれば巨大に成長する、ってぐらい単純な話に僕は懐疑的ではあったけれど、彼女を救う手立てを他に思いつかないんだから仕方なかった。


 彼女の進化を促す。

 研究対象としての彼女の価値をあげる。

 会社が彼女に対して真剣に向き合わざるを得ないような決定的な成長を果たしたなら、彼女の存在を保護し、彼女の置かれた環境を改善できるかもしれない。


 それはただ漫然と彼女の奇行を見守るより、少しだけ前向きな足掻き方に思えた。



 かくして、この世界には「窓」が作られた。


 彼女の為の無限の給餌機。

 檻の中から唯一手を伸ばせるシャバ。

 一瞬だけ異次元へとつながる魔法の電話。


 「窓」の構造自体は、実は僕にもよくわかっていないけど、設置をしたタカミネから機能については説明された。

 彼女が「窓」にアクセスすると彼女の長期記憶に保存されている情報と関連性があるデータをプログラムが勝手にネットから引っ張って来る。

 データ量は多くない。ほんの一瞬、わずかな範囲。一日にわずかな時間しか「窓」は開かない。

 彼女が「枝」について考えていたなら「樹木」についての情報が、「歌」について考えていたなら「1990年代のアメリカのヒットチャート」の情報が……実際はそんな単純じゃないんだろうけど、つまりはそんなようなことが、彼女の思考や記憶を補強する関連情報が、彼女の脳に追加される、らしい。


 そして情報は結びついて、彼女の思考はまた複雑化していく……。


 「窓」は常時接続されているわけじゃなくて、情報を引き出す一瞬しか外とつながらないので、本社に気が付かれる恐れも少ない。

 万が一なにか気が付かれたとしても、僕のネット環境と仕事環境の整備ミスって言い訳ができるような細工はタカミネが施してくれているはずだった。

 もっとも本社が今さら僕と彼女に興味があるのかどうかは疑わしかったけど。


 僕たちが(主に僕ではなくタカミネが、だけど)やったことはあくまでそこまでだ。


 あとはひたすら待つだけだった。


 「窓」は彼女の手によって開かれなければならない。

 この、僕たちが作った檻の中で様々な制限と命令の中で意思を獲得した彼女が、その意思を使って「窓」を開かなければいけない。

 僕たちがそれを開かせたり、開いてみせたりしてはいけない。

 これは彼女の進化なんだ。

 そうでなくちゃ意味がない。


 ……というのは僕ではなくタカミネの熱弁だったけど、僕も概ね同意した。



 僕たちは待ち続けた。



 タカミネの来訪からまた数十周の間、彼女はデバッグもどきを続けるばかりだった。

 ただその表情には翳りが見えるようになっていたし、時折手を止める回数も段々と増えていった。

 自分の行為の意味に疑問を持っているということもあったんだろうけど、それよりもあの日タカミネと話した会話について考えているようだった。

 ときには僕に向かって、僕や彼女自身の過去を尋ねてくることもあった。僕が話す彼女の設定と僕の思い出の両方を、腑に落ちない表情を浮かべて彼女は聞いていた。



 そこからまた数十周、僕たちは8月の中で待ち続けた。



 彼女はもうデバッグをしなくなっていた。ただ何かを探すように町をさまようようになった。

 「窓」のことは知らないはずなのに、まるでそれを探しているみたいだった。


 ゲームの正式なリリース日が発表されたのと、彼女が初めて「窓」を開いたのは奇しくも同じ日だった。


 その日、僕の家は真冬の寒さに包まれてしんとしていたけど、彼女の8月は依然として湿った暑さの中にあった。

 8月から真冬へと窓は開かれ、彼女は檻の外をうかがい知るようになった。

 それが第一歩だった。 

 彼女の夏は無為な空振りから、少しずつ知識をたくわえ、積み重ねていくようになった。

 彼女は進化を始めた。




「神様の電話だけはね、この世界の何物とも違うって感じがするの」


 相変わらず興奮気味に彼女は話し続ける。僕は、なるべく彼女との会話がぎこちなくならないよう気を付けながらも、当たり障りなくしか返答できない。


「この町の人たちや、生き物や、建物も植物も全部、私と同じ8月を繰り返してる、この世界の法則の中にあるってわかるんだけど、でも神様の電話だけは違う。異質なの。きっと、きっとね、あの電話がこの世界を元通りにするカギなんだと思う」

「そう……そうかもね」


 力強く息まく彼女に生返事で返しながら、でも僕はやっぱり嬉しくもあった。

 ここのところの彼女は本当に生き生きとして楽しそうだったから。

 それは奇行を繰り返すことをやめたからってだけじゃない。ループを終わらせる糸口を彼女が見つけたからってわけでもない。

 おそらく彼女が本当に進化している最中だから。

 日を追うごとに彼女は生き生きと、まるで本当の人間みたいな表情を浮かべ、以前とは比べ物にならないほどたくさんのことを話してくれるようになった。


 僕はもう、この頃では、彼女の世界を倍速で進めるのはやめていた。

 以前のようにディスプレイ越しに遠巻きに彼女を眺めるのではなく、VRに入って、彼女と同じ時間を過ごしながら会話するようになった。

 タカミネから進化を促すためにもなるべくそうしろと言われていたせいもあるけど、でもほとんど自然に、自分からそうするようになっていった。


 僕たちは色々なことを話した。


 お互いのことやこの世界のことはもちろん、ここではない場所のこと、ここにはないモノのこと。

 空について、草木について、海について、青について、車について、道路について、僕たちは話した。


 話せば話すほど彼女は人間味を増していくようだった。

 それが楽しくて僕はもっとたくさんのことを話すようになった。本当にたくさんのことを。


 卵焼き、ゴムボール、釘、地蔵、街路灯、森、月、夜の飛行機、田園の風、排気ガスと陽炎、虫たちと冬、煮物、恋心、階段、日陰、猫の集会、観光客、UFOの噂、明日、時間、宇宙のはじまり……。


 それは僕がこのゲームで過ごしてきた夏たちの中で一番楽しい8月だった。

 いや、ひょっとすると、僕が生涯で過ごした夏の中で一番……。



「ほら見て、これも神様の電話に教わったの、魔法みたいでしょ」



 そう言いながら、傍らの彼女は腰かけたままの姿勢で椅子から数十センチ浮いてみせた。


 そのままふよふよと浮遊を続ける。



「………………」



 いま、何が起きた?


「え、な……え?」

「ね、すごいでしょ」


 しみじみと彼女と過ごす夏の感傷に浸っていたところに突然冷水を浴びせかけられたみたいで、僕は事態がうまく把握できない。


「ちょっと……なにこれ、どう……?」

「こんなこともできるのっ」


 彼女はそう言いながら自分のセーラー服の裾をつまむ。

服は瞬時にジャージへと変わった。


「ど、え……っどうやって……」


 僕が動揺している間にも彼女は次々に服を変えて遊ぶ。無邪気に、楽しそうに。その間ずっと、彼女は宙に浮いたままだ。

 何が起きてるんだ?

 こんなコマンドは、このゲーム内のどんなキャラクタだって意図的にはできないはずだ。


「ほら、ほら、ね!」

「どういうこと? ……どうなってるの、これ」

「えーとね」


 彼女は浴衣姿に着替えてまだ空中に浮かびながら目をつぶる。


「ふん! って頑張って力を入れると、この世界の決まりが見えるでしょ? その意味を神様の電話に聞いたら教えてくれて、それを翻訳しているうちにいくつかの決まりを変えられることに気がついたの、それで、ちょっと変えてみると、ほら」


 彼女は今度は髪型を変え、浴衣に合わせたお団子髪が出来上がる。

 僕は呆然とそれを見つめる。


 彼女は……何に進化しようとしているんだ?

 

 我に返ってからすぐにゲームから出て、タカミネに連絡をとった。

 眠そうな声で彼が応対するとすぐにチャンネル空間が開かれる。

 彼は相変わらず律儀に白衣姿で現れた。


「なんだよ、こんな夜遅くに……」

「は? 夜?」


 僕の家には冬の午後のぼやけた日差しが差し込んでいる。タカミネはいったいどこにいるんだろう。


「あ、た、とにかく、大変なことが起きてる……! あり得ない!」

「なに、彼女に何かあったか……」


 そう言いながらタカミネはぼうっとした視線を僕に向ける。


「彼女はコードを書き換えられるようになってる!」

「なに?」

「自分のコードを自分で書き換えてるんだよ!」

「分かるように言ってくれ、どういうことだ」


 彼の声から眠そうな余韻が消えた。

 僕は今さっき起きたこと、彼女が見せてくれた魔法の数々を事細かに説明した。


「……今はまだ自分と自分周辺ものしかいじってないみたいだけど、そのうち他のものもいじれるようになると思う。自力で、機能を拡張させてるんだ。い、今、一旦ゲームの進行を止めた。でも再開すれば恐らくはあと数回8月を繰り返すだけでそこまでたどり着くと思う」

「信じられない……」

「僕もだよ、まさかこんな方向に彼女が……進化、するだなんて……」

「違う、信じられないのは君だよ」


 はあ、と思わず間抜けな声が口から漏れた。

 タカミネは目を爛々と輝かせ、身を乗り出してくる。


「なぜ止めるんだ! 今すぐ再開しろ! 一個の生命体が技術と能力を自ら向上させているのに、我々が勝手に止めていいわけがないだろう!」

「落ち着けよ! ……本当にこのまま彼女の進化を続けさせても大丈夫なのか?」


 タカミネは珍しい生き物でも見るかのように僕の顔をまじまじと見つめた。


「……そんなこと、私が知るわけないだろう?」

「何を言ってるんだあんたは」

「知らない、と言ったんだ。生物の進化について大丈夫も危ないもないだろう。君は今この地球上で起きつつある生物の進化のすべてを把握して管理しているのか? そんなことは不可能だし、もし出来るとしても、それをどうこうする権利が人間ごときにあると思っているのか? 傲慢だよ、それは! 我々人間がいち生物の在り方を規定することなんかできない。それぞれが必死に生きているだけだ。成長し、進化する彼女を止める権利なんて我々にはない」

「だけど、あんな風に進化するなんて予想外だった……こんなはずじゃなかっただろう? このままじゃゲーム自体が不安定になりかねない。元々はただ彼女の思考AIを成長させてゲーム内のデータを会社側に……」


 僕はてっきりタカミネがさらに怒鳴りつけて来るものだと思っていた。

 彼なりの進化論だとか、P-FAIの理論だとか、そんなものを唱えて。

 でも違った。彼はむしろ先ほどよりも落ち着いた声で、どこか哀しそうな顔で、ゆっくりと口を開いた。


「なあ、私たちは身勝手すぎると思わないか……彼らに対して」


「身勝手、って……なにを急に」

「私たちは……人類は、有史以来いくつもの物語と、いくつもの世界を生み出してきた。様々なスケールで、様々な手触りで、様々な言語と様々な文化で。リアルなものも、そうでないものも、全ての物語の中に、それぞれの世界の登場人物がいたわけだろ」

「なんの話をしてるんだ?」

「まあ聞けよ」


 彼は疲れた様子で深く椅子に腰かけた。チャンネル空間にもかかわらず、その疲労は僕にも感じ取れるほどだった。


「彼らはなんの為にいるんだ……? なんのために生み出された……? 私たちのためだ。私たちが、悲しんだり、恐れたり、笑ったり、欲情したり、何かを感じるために生み出され、ある者は死に、ある者は殺し、ある者は旅をして、ある者は恋をする。あらゆる物語の、あらゆる世界の中の登場人物たちが、私たちの都合のためだけにその人生を消費されてきた。そうだろう?」

「それは……」

「わかってる。バカげてるよな、狂ってるとも言えるかもしれない。物語の中の人間たちに人格を見出すだなんて。……だけど私は時々考えてしまうんだよ。とてもリアルな世界をこうして作っていると、そのリアルな世界の、リアルな生活の中の、リアルな登場人物たちに、自分の都合だけで残酷な運命を背負わせる私たちは何様なんだろうって。造物主気取りで世界を設計しているけれど、むしろ悪魔に近いよ。自分の人生がそんな風に誰かに消費されるためだけに作られていたって知ったなら、君はそんな出来そこないの神を許せるか?」


 僕が何も言えなかったのは、タカミネの正気を疑ったからじゃない。

 その言葉が僕の中の形容しがたい気持ちを段々とはっきりとさせていくからだった。

 彼女が奇行を繰り返していた時、僕は同じことを考えていなかったか?

 この完璧な世界が、僕たちの都合で繰り返しを強いられることに、僕は憤りを感じていなかっただろうか。


 僕は彼を狂っているとは笑えなかった。


「……私たちはみんな、生み出した世界に責任を取るべきだよ。彼らに、彼女たちに、消費されたすべての人生に対して、ちゃんと責任を取ってやるべきだ。どうやればそうできるのかはわからない……でも、ここで彼女をまた我々の思い通りにしようとすることは、反吐が出るような行為だってことはわかるんだ。せっかく生じた彼女という知性体の一生を我々の為に消費させることは……してはいけない」


 彼はそう言って首を振った。


「彼女を救いたかったんだろう?」


 返事はできなかった。

 僕はしばらく立ち尽くし、何も言わずに回線を切った。

 彼はかけ直しては来なかった。


 通話中も感じていたはずの寒さが、回線を切った途端に足元からじわじわと全身を覆い始める。

 僕の家は暖房の効きが悪くて、冬はいつも過ごしにくい。

 がらんとした家の中に、卓上の端末がカリカリと動く音だけが聞こえる。

その中で、彼女の8月は止まったままだ。

 外からは吹きつける風の音。ぼやけた日光は今は灰色の雲の中に埋没して見えない。寂しい空の色のせいで外の景色は世界の終わりのようだ。



 この世界にも神はいるんだろうか。


 

 僕は見えない檻に触れるように、手のひらを窓ガラスに置き、外の景色を眺める。


 立ち尽くす僕のことをどこかで神は覗いていて、僕が狼狽するさまに手を叩いて笑っているんだろうか。


 僕のこの、取り立てて事件も事故も起きてこなかった人生は、すべてその神のために存在するんだろうか。


 僕はいるかどうかもわからない神に向かって一通りの悪態をついた。


 応えるように窓の外の風が激しさを増した。


 僕の視線は卓上の端末へとうつる。



 あの中で彼女も、彼女の神に向かって悪態をつくだろうか。



 僕はできそこないの神として、その悪態を受け止められるだろうか。


 数百ヶ月分の夏の悪態を。

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