第3話 再会は危険な香りの苛性ソーダ風①

 朝六時半。春乃はスマホのバイブ音で目が覚めた。画面を見ると『奈緒』の二文字。怪訝な顔をして通話ボタンを押した。


「……もしもし?」


「春乃おはよう!もうそろそろ起きないと初日から遅刻になっちゃうよ!」


思わず耳からスマホを遠ざけたくなるような、元気いっぱいの奈緒アラームである。


「……いや、集合九時でしょ。どんだけ準備に時間を割くつもりなの」


「春乃はいつも朝ギリギリに登校してくるから心配だったの!」


奈緒の言っている『いつも』とは、中学生までの話である。それも部活の朝練がなくなった中学三年生の頃の記憶だろう。


「それ、中学の話でしょ。高校はそんなにギリギリでもなかったよ……。あと、お願いだから声のボリュームをもう少し下げて話して」


「あ、ごめん。でも、もう起きたんだから、ちゃんと支度してね!私は光輝君にも電話で起こしてくれって頼まれてるから、電話してくる。二度寝厳禁!」


ブツッと音を立てて切られたスマホを見下ろし、春乃は寝ぼけた脳で「光輝も大変だなぁ」とか「一日でそんなに仲良くなれるもんなんだ」とぼんやりと思いながら、のそのそとベッドから抜け出した。


カーテンを開けると春の日差しが眩しく、徐々に身体の細胞が起きてくる気配を感じた。


「ワイシャツ、下着、靴下にジャージ…んーワックスも入れとくか」


独り言ちながら今日から始まる一泊二日のオリエンテーションの準備をする。今日も入学式と同じくスーツで登校することになっている。


準備を終えると、荷物を持ってリビングへ向かった。


「あら、おはよう。早いじゃない」


母親は春乃が起きてきたことが意外そうに言った。事実、あと三十分は寝ているつもりだったのだから意外に思われても仕方がない。


「……奈緒から電話があったから」


春乃は心底面倒くさそうに愚痴った。


「奈緒ちゃんは相変わらずしっかりさんね」


笑いながら言う母親に少しムッとした。


「お節介っていうんだよ」


「ありがたく思いなさいな」


「…はぁ」


そうですか、と返事をしながら朝食に手を付ける。


奈緒はお節介にも程がある。頼まれていた光輝にだけ電話すればいいものを、なぜ自分にまで掛けてきたのだ。遠足じゃないんだからそんなに気張る必要もないというのに。などと考えながら箸を進めているうちに気が付けば朝食はなくなっていた。


春乃はなんだか食べた気がしないまま出かける支度をする。


「いってきまーす」


 駅に着くと、通勤通学ラッシュで電車運んでいた。昨日は右のホームから乗ったはずだから……と思っている間に電車に押し込まれる。


眠い目をこすりながらふと行先表示を見ると反対方向の電車に乗っていた。


「やべっ、間違えた」


降りようとするも時すでに遅し。ドアは閉まり発射音が鳴っている。何よりこの電車は急行電車だ。


「次の駅で降りよう…」


幸い時間には余裕がある。認めたくはないが奈緒アラームのおかげだ。


 春乃は次の停車駅で降りると、ちょうど反対ホームに止まっていた大学方面行きの電車に乗り込んだ。ラッシュ時だというのに座れるくらい人が少ない。


 春乃は開いている席に座ると荷物を床に置いた。眠気が襲ってくる。


うとうととし始めたとき、目の前に急行電車が止まった。春乃の大学は急行が止まらないので、このまま各駅停車に乗っていればつくだろうと半分寝た頭で考え……気が付いた。


昨日は急行に乗り、手前の駅で降りて各駅停車に乗り込んだはずだ。しかし、ここでも春乃は気が付くのが遅かった。急行電車は春乃を乗せることなく出発してしまったのだ。


「……待って。このままこの電車に乗っていると何時に着くんだ……?」


ようやく焦り始めた春乃はスマホを取り出し、時刻表アプリを開く。結果、九時十五分着。


「遅刻じゃねーかっ!」


しかし、今更足掻いたところでもうどうにもならない。電車でぶつぶつと独り言を言いながら焦りだけが体中を駆け巡る。


そして、焦る春乃を乗せた電車は走り出した。


 八時五十五分。スマホのバイブが鳴り出した。画面を見ると『奈緒』の文字。


しかし、電車に乗っているため電話に出ることができないのを察したのか、数秒鳴らした後メッセージが飛んできた。


「今どこにいるの!」


春乃は渋い顔して「電車を乗り間違えたため、遅刻します」と打つと、秒の速さで「バカ!」と返ってきた。ええ、バカですとも!春乃は心の中で呟いた。


 十五分遅れで春乃が大学に到着すると、既に一組のバスは出発した後であり、残っていた四組のバスに乗ることになった。


幸いというべきか遅刻者は春乃だけではなかったらしく、数名の遅刻者を乗せて四組のバスが出発した。


 春乃は席に着くと、奈緒に無事四組バスに乗せてもらえたことを報告した。またもや秒の速さで返ってきたのは、「ばか」の二文字。


そして今度は光輝から「ハルおっちょこちょいだな笑」とメッセージが来たので両方を無視して春乃は寝ることにした。


 奈緒アラームは結局のところ春乃の眠気を誘い、注意力を欠かせただけで終わってしまったのだった。


 春乃が一組と合流したのは、研修場所である宿泊施設だった。一組で遅刻したのは春乃だけだったらしく、合流した時には一躍有名人のようになっていた。


「初日から遅刻のハルちゃん!おはよう」


後ろから笑いながら光輝が肩を組んできた。「やめろよ」と言いながら肩に回された腕を振りほどく。


「凄かったんだぜ!出発前、櫻木春乃君いますかー!って、先生が大声で言ってたから、きっとハルのフルネーム皆覚えたぜ」


春乃は肩を落とした。自業自得だ、と自分を呪いたい気持ちでいっぱいだった。そこへ奈緒とクラスメイトであろう女の子が連れ立って近づいて来た。


「はーるーのー!せっかく私が起こしてあげたのに何で遅刻しちゃうかなー。学校に


連絡も入れないから、先生に遅刻することも伝えたんだよ!」


「そりゃどうも」


すっかり大学の方に連絡を入れるのを忘れていた春乃は、ほんのささやかだけ奈緒のお節介をありがたく思った。そんなやり取りを端から見ていた女の子が、春乃と奈緒の顔を見比べて少し甘ったるい声で言った。


「奈緒と櫻木君って、幼馴染なだけで付き合ってるわけじゃないんだよねー?」


春乃と奈緒は目を丸くして、大きく首を振った。


「ないない!ただの幼馴染っていうか腐れ縁っていうか」


「腐れ縁は余計じゃない!?」


春乃の答えに奈緒は心外だと言わんばかりに春乃を睨んだ。心なしか顔が赤い。


「まぁまぁ、仲良しなことに変わりはないよな!」


そういいながら、春乃と奈緒の肩を持ちながら光輝が会話に割り込んでくる。実にウザったい。


そう思いながら春乃が奈緒の方を見やると、奈緒は顔を真っ赤にして硬直している。


「そ、そろそろ、大会議室、いかなきゃ!」


奈緒はそう言うとカクカクしながら光輝の手から逃れ、女の子とその場を離れた。その後姿を見ながら光輝はニヤニヤして言った。


「あの様子は、男慣れしてないよな、奈緒ちゃん」


「昔はよく男に交じって一緒にサッカーとかやってたけどな」


光輝は春乃を見て、ちっちっちと人差し指を横に揺らす。


「思春期の女の子はガラリと変わるもんなんだよ」


「ああそうかい。彼女もいたことないのによくわかるな、光輝先生」


春乃はあきれながら自分の肩に乗っかったままだった光輝の腕を払う。そして、光輝と並んで大会議室へと向かった。

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