第3話雨雲は雷雲へ。少年は大人へ。

 メロンソーダで一息ついたあと、せっかくの機会だからと、京香さんに色々な種類の酒を飲むことを促された。

 だが、もうすぐ飲み放題が終わる時間だった。そのため、二軒目で飲み直そうという話になった。


 会計の際、俺が多く出そうとしたが、京香さんは逆に「私が先輩だから」と、多い金額を払うことを申し出た。それをなんとか断り、割り勘に落ち着かせた。

 

 ふらつく感じも、思考力が下がっているという感覚もない。大学の新歓で飲んだときにもそうならなかった。俺はきっと、アルコールに対する耐性が強いのだろう。酒は怖いものだと両親から聞いていたが、拍子抜けだ。


 次の店も、飲み経験が豊富な杏香さんに決めてもらった。小雨が降っていた。傘を差すほどではないため、折り畳み傘はカバンに入れたままにした。

 辿り着いた居酒屋は、先ほどよりも洒落た内装だった。案内された個室は、薄暗くて良い雰囲気が出ていた。

 京香さんは、アルコールのせいか少し顔を火照らせていて、より色っぽく見える。


 俺が始めに注文したのは、彼女が勧めたキティという酒だ。甘みがあり飲みやすかった。風味も悪くない。

 その次はオペレーターだ。これも飲みやすかった。キティもオペレーターもワインが使われているらしいが、こちらの方がアルコールを感じない。

 そのまた次はハイボールだ。今まで感じたことのない、不思議な味がする。この味は好きになれにそうになかった。


 ジョッキの半分ほどを残して、トイレに行こうと席を立つと、よろけてしまった。そういえば先程から気分が変に高揚している。俺は酔ってきているのだろうか。京香さんはそんな俺をからかった。

「大丈夫? さっきは『俺、酒にめっちゃ強いです』って言ってたのにフラフラじゃん」

「大丈夫ですよ。酔ってません。ただ三半規管が無くなっただけです」

「いや、それはどう考えても大丈夫じゃないよ」彼女は笑って言った。


 しょうもないことばかり言っている自覚はあり、気の利いたことが言えない自分が嫌になるが、彼女が笑ってくれることで救われていた。俺がここに居ることが、場違いではないという証明をもらった気にもなれるし、「高位の存在」に思えてならない京香さんに一矢報いた気さえする。

「私もだいぶ酔っ払っちゃった」

 俺がトイレから戻ると、すぐに京香さんはそう言った。

「俺のこと笑えないじゃないですか」

「ははは、本当だね」

 彼女は枝豆を口に運んだ。赤い唇がやけに艶かしくて、見入ってしまった。当然、目が合う。慌てて目を逸らし、ジャッキを手に持った。ハイボールを一気に煽った。やはり不味かった。

 

 再び目を合わせる。ああ、後ろめたいときに目を合わすといつも同じ考えが頭を過ぎる。

 やはり彼女は、俺の焦りだったり下心を見透かして、俺の遥か上から見下している。そんな考えだ。

 にこやかな表情はずっとしているが、さっきよりも少しだけ、口角の位置が高い気がする。無論気のせいかも知れないが、彼女が「高位の存在」であるというイメージは拭えない。拭えないどころかイメージがより固まってしまった状態で店を出ることとなってしまった。


 店から出ると小雨は本降りへと変わっていた。俺は傘をカバンから取り出したが、彼女は傘を持っていない様子だ。ということは、これから相合傘をすることになるのだろう。

「入りますか?」俺は訪ねた。

 一応平静を装って言ってはみたが、ドキドキしていることはどうせ筒抜けなんだろう。もう諦めの境地に達していた。

「ありがとう」と京香さんは言って傘に入り、そのまま駅に向かった。

 

 肩と肩が優しく触れ合う。自分が緊張しているということがはっきりわかった。

 距離の近さと、アルコールによる判断力の低下が、タッグを組んで俺の理性に攻撃を仕掛けてくる。俺の理性は、単騎で抱きついてしまいたいという衝動と闘っている。

 

 そんな折、俺の左側……つまり京香さん側の空が一瞬光った。そして三秒後にゴロゴロという音が聞こえた。雷だ。

 京香さんは立ち止まった。彼女が雨で濡れないよう、俺は慌てて一歩戻った。

 すると彼女に肩を掴まれた。Tシャツがくしゃっとシワを作る。雷くらい急なことで焦ってしまう。

「私、雷が本っっ当にダメなの」目を伏せたままでそう言われた。

 京香さんの手の暖かさが、布を貫通して伝わってくる。

「だ、大丈夫ですって」少しどもってしまった。ダメだ、照れてるのが悟られてしまう。

 また、遠くの空が一瞬光る。そして数秒後にゴロゴロという音が届いた。京香さんは「ひっ」っと短く小さな悲鳴を上げた。俺を掴む力が強くなった。

 そして、ようやく顔を上げる。

 

 京香さんの目が、いつもとは違って見えた。相変わらずパッチリとした目ではあるが、普段の印象とはかけ離れていた。俺の心の内を見透かしているようにはとても見えなかった。

 恐怖の色が滲んでいる。俺へ、助けてくれと言っているかのような目だ。

 胸が熱く、高鳴った。彼女の新たな一面だ。それを今俺だけが見ている。

 怖がっている彼女はあまりに愛おしく、思わず頬が緩んでしまいそうになる。

 


「大丈夫ですか?」

 彼女は少し笑って首を縦に振った。一見余裕があるように見えるが、強がっているのが透けて見えた。

 俺は目をそらしてしまった。このまま目を合わせ続けていると、きっと俺はにやけ面を晒してしまう。

 屋根のある場所に行けば、恐怖も少しは和らぐだろうと思い。駅へ早く行こうと促した。

 歩いている間、俺の脳はさっきの表情、目、愛おしさを何度も反芻した。歩数と比例してこのまま別れたくないという思いが増していく。

 しかし、駅との距離は伸びたりなんかしない。いつもと同じように佇んでいる駅が、非情で邪悪な存在に思えた。


「あーあ。雨、止む気配ないな。私さ、駅から家まで結構距離あるんだよね」

 なんと返すのが正解だろう。酔っているなりに脳みそを回転させる。

 傘を持たない彼女を家まで送るべきだろうか。いや、最寄駅も違うのにそれは重すぎるだろう。俺の傘を渡すのはどうだ。いや、それもやり過ぎかもしれない。

「じゃあ、うちに来ますか?」

「えっ」

 何を言っているんだ俺は。「えっ」と言いたいのは俺自身も同じだった。最悪だ。

「じゃあ、お邪魔してもいいかな」

「えっ」今度は口に出してしまった。京香さんに怪訝な顔をされる。

「あれ、ダメだった?」

「いや、そんなわけないじゃないですか。一瞬聞き取れなくて聞き返しちゃいました」

 苦しい言い訳だった。彼女の目は元に戻っており、また俺の焦りは見透かされている気がした。


 家に向かう途中では、俺は部屋が散らかっているということや、狭いということをあらかじめ伝え、予防線を張った。

 そんなことを伝えている傍ら、俺は気が気じゃなかった。いや、むしろ家に着いた今の方が気が気じゃない。

 最寄駅から家に向かう途中、風が強くなってきて、傘をさしていても濡れてしまった。そのため、風邪をひかないようにしなければならないという話になり、うちのシャワーを貸すことになった。

 今、壁を隔てて京香さんは裸でシャワーを浴びている。気が気じゃないのは仕方ないことだろうと自分を納得させる。

 

 今日、俺は京香さんに手を出すべきなのだろうか。

 俺達はバイトの先輩と後輩という関係だ。恋人でもなんでもない。下手に手を出したら前科が付く可能性すらある。

 だけど、手を出さないのも失礼に当たるとも聞いたことがある。

 念のため、避妊具を忍ばせている財布を、ベットの脇にあるテーブルへ置いた。


「シャワーありがとう。さっぱりした!」

 俺の貸したTシャツと短パンを着ている。濡れた髪が色っぽかった。

 続いて俺もシャワーを浴びた。念のため陰部をいつもよりしっかりと洗い、風呂場を出ると彼女はベットに座っていた。

 俺の家にはソファが無いのだ。部屋が狭く、ソファを置くと空間を圧迫してしまうということと、買いに行くのが億劫だったというのが理由だ。

 部屋が狭いのは彼女も了承済みだから文句を言われる筋合いはないが、ソファを買いに行かなかった俺の怠惰を責める権利は少しだけあるのかもしれない。


「なんで突っ立ってるの?」確かに自分の家でボケっと立っているのもおかしい。だが、ベットに並んで座る勇気は出ない。

 すらっとした鼻立ち、潤い溢れる唇、くりっとした目。改めて綺麗な人だと思った。

 家に来る前に寄ったコンビニで買った酒の缶を、袋から取り出しテーブルに置く。

 ベットに座る彼女と、テーブルを挟んで向かい合う形で、俺は床に座ろうとした。しかし、京香さんはベットをポン、ポンと叩き、隣に座るように催促した。

 それを押し除けてまで床に座るのは不自然なため、俺もベットに腰を沈めた。俺の心臓の音が、彼女に聞こえないか本気で心配だった。


 俺のベットに二人で腰かけている。そんな状態に、現実味はまるでなかった。自分と京香さんを第三者の目線から見てるかのような錯覚さえしてきた。

 そんな状態なので当然、会話がうまく繋がらない。テーブルの上の酒を飲んで少しでも間を持たせようとした。酔いが醒めかけていた頭が、再び鈍ってくる。


「ねえ、ちょっと眩しくない?」不意に京香さんが言った

「電気消します?」俺は立ち上がった。パチッとボタンを消すと、部屋は暗くなった。

 玄関の方から光が漏れ出ているのに気付いた。帰ってきた時からつけっぱなしだったようだ。その電気はそのままに、ベットに戻った。

 幼い頃、真っ暗闇が怖くて豆電球をつけたまま寝ていたことを思い出した。

「ありがと」彼女は缶チューハイを両手で握っている

「なんもですよ」俺はそう言って座った。さっきよりも少し彼女の近くに。

 

 彼女は酒を一口飲み、テーブルに置いた。缶から離れた手が俺の手に触れる。京香さんの方を向くと、彼女もこちらに顔を向けた。

 唇が薄明りに照らされて艶やかに光っている。俺は吸い込まれていく。

 二つの唇が重なった。





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