第10話 年末年始もお待ちしてます!

 

 少なくとも大女将の入院は年末から年明けまでは続きそうだった。

 大女将本人は頑固にも口にしなかったのだけど、以前からどうやらときどき腰が痛むのを無理してこらえてしまっていたらしい。お医者様と相談を重ねた結果、これを機会にしっかり治療とリハビリをして腰を治しましょう、という方針になった。

 大女将のしばらくの不在については宿のホームページにはのせることはしなかったけど、一部の常連のお客様には折を見てその旨のお手紙をお送りした。

 毎年の恒例行事として年末から年始にかけての数日を竜泉閣で過ごされるお客様がおり、その時に振舞われる女将特製の手打ち年越し蕎麦と、大広間で開催される年忘れカラオケ大会をいつも楽しみにされていたからだ。


 すると手紙が着いた頃にすぐにお客様の一人、松尾様から電話がかかってきた。


「ああ、若女将かな?手紙いただいたよ。わざわざ連絡してもらってすまないね。大女将の具合はどう?」

「松尾様、いつもお世話になっております。しっかり治しましょうということで入院していますが、本人の様子はいたって元気ですので、ご心配ありがとうございます」

「うんうん、それならよかった。それでね、恒例の年末年始の宿泊なんだけどさ」

「そうですよね、今年は無しでしょうか?」

「いや、今年もお願いしようと思うんだ」


 松尾様の申し出に、私は驚いていた。大女将が不在ということで、てっきり今年の宿泊は無しにすると言われると思っていたからだ。思わず尋ねてしまう。


「それは……よろしいのですか?」

「まあ、大女将の蕎麦が食べられないのは残念だけどさ。なんなら若女将が作るかい?」


 想定外の提案だったけれど、私は迷わず返事をしていた。私に出来ることであれば何でも取り組みたいと思っていた。


「私でよければぜひ。大女将には及ばないかもしれませんが、全力で腕を振るわせていただきます」

「あっはっは。それじゃあ楽しみにしているよ」


 私の返事に対して上機嫌な様子を見せて松尾様からの電話は切れた。こういうときにお客様から頂ける暖かい言葉は本当にありがたい。それも大女将がこれまで作ってきてくれた縁なのだから、私がしっかりと繋いでいかなくてはと決意を新たにする。


 年末になって、約束通りに常連のお客様たちは竜泉閣を訪れてくれた。


「やあ、若女将。約束通りに今年も来たよ」

「松尾様、お待ちしておりました。どうぞごゆっくりおくつろぎください」


 上機嫌にロビーに現れた常連客の松尾様を含むご一同に、私は丁寧に頭を下げる。大女将の不在にもかかわらず、変わらずに訪れてくれることがなにより嬉しかった。


「うんうん、ありがとう。今年は若女将の年越し蕎麦を楽しみにしてるよ」

「精一杯準備させていただきます」


 そう答えながら松尾様ご一行をお部屋までご案内する。平静を装ってはいるけれど、内心は心臓がバクバクと揺れるくらいに緊張していた。

 なにしろ大女将の特製手打ち年越し蕎麦と言えば知る人ぞ知る竜泉閣の名物で、その蕎麦打ちの腕前は板長ですら舌を巻く出来映えらしい。毎年の年末にしかお蕎麦を打たないとのことなのだけど、いったいどこでその技術を身につけたのかは誰も知らないそうだ。

 そして実は私はそのお蕎麦を食べたことがない。さきほど述べたように毎年の年末にしか振る舞われないため、継春と結婚するまでは年末は自分の実家に帰っていた私は、そのお蕎麦を食べる機会が無かったのだ。知らないということは怖いことで、その味を知らないがゆえにそれに挑もうとすることが出来たのかもしれない。


 先日の電話を受けてさっそく板長に相談をしたところ、私は板長と莉子ちゃんとともに蕎麦打ちの特訓をすることになった。元々は私一人で指導を受けるつもりだったのだけど、板長はせっかくの機会なので是非指導を受けたいと希望したのだった。


「板長が受けたいと言ってくるのは分かるんだけど、莉子ちゃんはなんで?」と私が聞くと、彼女は少し考えて「んー、なんか楽しそうだったから」との回答を返してきた。「それに、蕎麦が打てる女子ってなんかかっこよくない?」

 ニコニコしながら聞いてくるけど、それはどうだろうか。まあレアなスキルではあると思うけど。しかし私も莉子ちゃんも、そんなほのぼのしたやりとりをすぐに後悔することになった。


 講師には板長の師匠、つまり先代板長のお知り合いのお蕎麦屋さんをお呼びした。先代の板長はかなり厳しい人と聞いていたけど、このお蕎麦屋さんも負けず劣らず厳しい人だった。

 蕎麦粉をこねるだけでなく、まず蕎麦粉に水を足す、という最初の工程から厳しい指摘が入る。どうやらこの最初の工程「水回し」が蕎麦打ちの最重要ポイントらしい。蕎麦打ちと言えばぺったんぺったんとそば粉をこねているイメージだった私にとっては驚きだった。この水回し工程の善し悪しで蕎麦の食感がまったく変わってくるとのこと。厨房を借りて三人で並んで作業をする私たちにお蕎麦屋さんの厳しい指導の声が飛んでくる。


「加水はいっぺんにするのではなく、数回に分けてやること」

「蕎麦粉はこねるんじゃない。最初は指でなじませるんだ」


 最初の工程で既に汗だくの私たちに対して、そこからも遠慮のない厳しい指導は続いていく。


「こねが足りないと切れやすくぼそぼそになるぞ。もっと力を入れてこねる」

「のすときは厚みが均一になるように。縁が破れやすくなるからな」

「切るときも太さは均一に。太さが違うとゆで上がりにばらつきが出る」


 つきっきりで指導を受けて、ようやく最初の一回分が打ち終わる頃には、全員ぐったりとしてしまった。普段から料理をしているはずの板長ですら厳しい指導でふらふらとなっている。ただ、とても厳しい分、その指導は確かに的確で、出来上がったお蕎麦は自分で打ったとは思えないくらい美味しかった。 

 ただそれでも大女将の蕎麦を食べたことがある板長や莉子ちゃんに言わせると、まだまだ私の打つ蕎麦は大女将の蕎麦には及ばないらしく、それからも私はヒマを見ては厨房の隅を貸してもらって、蕎麦打ちの特訓を重ねてきたのだった。


 夕飯の時間に合わせ、私は厨房へと向かう。いざ勝負!と気持ちを奮い立たせながらたすき掛けにした着物の上からエプロンをぎゅっと締める。

 冷蔵庫に保管しておいた蕎麦粉を取り出そうと厨房の大型冷蔵庫を開けると、そこにちょこんと立っていたのは、おなじみ豆腐小僧だった。にっこりとかわいく笑ってこちらに蕎麦粉の入った器を差し出してくる。私もにっこりと笑顔を返してそれを受け取った。

 私は特訓の成果を余すところなく発揮できるよう祈りながら、全力で蕎麦を打ち始める。常温で保管できるはずの蕎麦粉をあえて冷蔵庫に入れていたけれど、期待通りに豆腐小僧がほどよい状態にしてくれていたらしい。ぎゅ、ぎゅ、とこねるたびに弾力を増していくお蕎麦の状態は、いままでで一番の出来のように思えた。

 必死で蕎麦を打つ私の横で夕飯の対応をしている板長が心配そうにこちらの様子を伺っているのが分かった。

 あまりに不安そうにしているから「心配?」とからかうように言ってみる。板長はまさかこちらが気がついているとは思わなかったのか、びっくりしたように一瞬目を見開いてから観念したようにこちらに言う。


「そりゃまあ、心配にもなりますよ」

「ありがとね」


 お礼を言いながらも手を止めずに蕎麦打ち作業を続ける私に対して、板長はなにやら感慨深げに言ってきた。


「でも今回は正直、若女将が自分で蕎麦打ちまでやるとは思っていませんでした」

「そうなの?」

「ええ、てっきり前のテレビ取材の時みたいに、こちらに頼んでくるものかと」


 う、テレビ取材の話はまだ記憶に新しく、その話をされるととても気まずい。確かにあのときはかなり無理を言って板長に対応してもらったのに、結局はぜんぶ無駄になってしまった。あれは本当に申し訳なく思っている。


「そうだよね。私も実際、板長にやってもらうことを考えたりもしたんだけど、きっと松尾様が望んでいるのはそれだけじゃないんだろうな、って思ったんだよね」


私は蕎麦をこねる手に力を込めながら話を続ける。不思議そうに板長が聞いてくる。


「というと?」

「きっと蕎麦そのものが楽しみというより、それを介して大女将や他の人たちと、お喋りをしたり、一緒に食事を楽しんだりっていう行為そのものが楽しいんじゃないかな。だから究極、蕎麦の味はなんでもいいのかもしれないと思ってる」

「なるほど」


 板長は私の話に作業する手を止めて考え込んでいる。あ、料理人の前で料理の味がどうでもいいなんて発言はまずかったかな。しかし私の心配をよそに、板長は深く考え込んでいるようだった。


「なるほど、人を繋ぐ役割としての料理ですか……それもあるかもしれませんね」

「そう改まって言われるとなんだか恥ずかしいけどね」


 私は照れ隠しにほほを掻く。蕎麦粉がちょっとくっついた頬のまま、こね終わった蕎麦を延べ棒で引き延ばし、慎重に、しかし素早く等間隔に包丁を入れていく。


「でも、そう思うならわざわざ本職のお蕎麦屋を呼んでまで蕎麦打ちの特訓をしたのはなんでですか?」

「それはね……大女将に負けたくないっていう意地、かな」


ぐっと拳を握りしめ、鼻息荒く私が言うと、板長は楽しそうに笑う。


「なるほど意地ですか。若女将らしくて良いと思いますよ」

「ふふ、ありがと。さーて、これで仕上げかな」


 最後まで切り終わった蕎麦をとりわける。あとは日付が変わる前のタイミングで蕎麦をゆでてお出しすればいい。


 年忘れ大カラオケ大会を絶賛開催中の松尾様一行にお出しした年越し蕎麦は、ありがたくも大好評だった。松尾様はとても美味しそうに蕎麦をたぐりながら私に向かって親指を立てて言う。


「いいね、美味いよ若女将。どうしてだろうね、今年の蕎麦はなんだか若々しい味がするよ」


 自分ではよくわからないけれど、そんなものなんだろうか。こちらをからかうように松尾様は重ねて言ってくる。


「こりゃ来年は食べ比べかな?」

「それは勘弁してください」


私の泣き言で場が笑いに包まれる。おもてなし、とはどういうことかを考えさせられる年の瀬の夜だった。



 ちなみにその後カラオケ大会にもお呼ばれしたのだけど、なぜか一回で退場させられたのが解せなかった。莉子ちゃんが眉間に皺を寄せて、「ねえ、優菜。今後絶対に自分からはカラオケやらないでね」と言ってきた理由がいまだに私は分からないでいるのだった。


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