華の世紀

賢者の石

 ある秋の日のことである。大きな手提げの鞄を手に提げた壮年の男がふらりとこの酒場に現れた。軍人である。見ればわかる。訓練されたその足運び、その所作を。何よりも明白なのは彼は略装であったが、軍の識別票をつけていた。

 敵国か。

 昔日(せきじつ)を思い、わしは椅子に座り直した。もうそれはどうでもいいことの筈だったが。一瞬背筋が真っ直ぐになるのは致し方ないことであった。長い戦争。それはとても長く激しい戦争だったのだ。

「仕事ですかい? それとも……泊まりですかい?」

 “捏ねられた猫亭”の主人――以下“猫”の主人と記す――も思うところがあるのか、いつもに増して訝しんだ声を出す。もっとも男の方はそのようなことを気に留めた様子はなかったけれども。

「両方だ」

「というと、仕事が片付くまでここに逗留されるってことでよろしいですかな?」

「そうだ」

 男の声は短く、はっきりとしていた。反対に“猫”の主人の声はいつも通り――いやいつもよりも増して耳障りだ。

「仕事は自分でやりますかい? それとも人に頼みますかい?」

「人に頼みたいのだ」

「ではこちらの逗留票に記入を。ついでにこちらの票に依頼内容を。なんなら、自らの口で説明しますかい?」

「面倒なことはしない主義でな」

「えーえーそうでしょうとも。これは。まったく。とんだ失態で!」

 男が逗留票と仕事内容を記している間。わしはずっと男の大きな鞄を見つめていた。さっきからあれがとても気になるのだ。特に隙間から見えるレエスの淀んだ白い輝きが。……明らかに軍人の所持品としてふさわしくない。盗んだ物だろうか? いや違う。酒を一口含みわしは思った。愛着。その鞄からは男の愛着が感じられる。わしは見えない物が見える魔術師やまじない師ではないが、それは何となく頭にするっと入ってきた。何故。わしは考え、そして思いついた。握り手。その握り手は男の左手に馴染みすぎている。おそらくずっと握りしめていたのだろう。長い間。そう、長い間だ。そうして今も、床に置かれることなく男は鞄を握りしめ続けている。

 わしが眺めているうちに男は二つとも書き終わったのか、主人に票を提示する。“猫”の主人は僅かに――いや明らかに顔色を変えた。

「これは……本当ですかい?」

「冗談は書かない」

「了解いたしやした。部屋の方はい今すぐ下男に案内させます。おーい!」

 叫びと共に手打ち鐘が一回鳴らされる。

「頼む」

 それだけいうと男は鐘の合図に従って走ってやってきた下男に案内されて“捏ねられた猫亭”の上階へ続く階段に向かった。

 ――やはり鞄は預けないか。

 わしはぼんやりと男の後姿を見つめながら思った。さて、次はわしの番か。そう思い軽く周りを片付けていると、珍しいことがあるものだ、“猫”の主人がこちらにやってくるではないか。それもどこか慌てふためいて。

「な、お前、これどう思う?」

 言葉と共に提示された依頼票を見てわしは“猫”の主人の驚きがわかった。確かにこれは尋常な依頼ではなかった。

“求む、賢者の石”

 そこには大きな文字でこう書かれていた。


 賢者の石。諸兄等には説明が必要であろうか。それとも必要のない世紀であろうか。とりあえずこの時代の評価として、賢者の石について記しておこう。

 賢者の石。それはその石の力を代償にしてこの世の全てのものを作り出せるという代物である。無学なものは知らぬ。神の教えに服したものは憎んでいる。そしてわしや“猫”の主人のように少し学がある者や人と関わることが多い者ならば誰でも知っている――程度のものである。


「ふむ、ですがありそうなことではないですか?」

 わしはその書体を見つめながら言った。書体を見ればそれはどのような意志で書かれたのかぐらいはわかる。これは本物だ。

「何故そう思う」

 “猫”の主人に問われてわしは答えた。

「嘘を書くような男には見えませんでしたし、そのような書体ではありません」

 そしてあの強い意志で握りしめられ続けていた鞄。三つ揃えばもはやわしに疑いはなかった。

「そうかい。では読み上げてくれるかい」

「それがわしの仕事ですから」

「よしきた。ではさっそくやってくれ」

 “猫”の主人は依頼票をわしに預け店の方へ戻っていった。これからはわしの出番だ。わしは立ち上がると言った。

「新しい依頼が届いておるぞ!」

 その声で周りは一瞬で静かになった。実はこれがわしのささやかな楽しみでもある。わしは周囲を見回す。皆がわしの次の言葉に注意し、注目している。わしは依頼を読み上げた。

「求む、賢者の石」

 一呼吸置く。何の反応もない。当然だ。賢者の石のことなど普通の人間が知るはずもない。わしはもう一度依頼を読み上げた。

「求む、賢者の石。報酬、アルゴン金貨五十枚」

 今度こそ酒場はざわめいた。アルゴン金貨五十枚。それは物品の調達依頼としては破格のものだった。わしを中心にざわめきが波のように立つ。わしはそれに満足し依頼文をさらにもう一度読み上げた。

「求む、賢者の石。報酬、アルゴン金貨五十枚。我は賢者の石を捜すものなり。この街にそれがあると聞いてやってきた者なり。知るものがいれば連絡を請う。また同品について何事かを知るものに関しても情報料を支払う用意有り。仔細はこの宿屋の主人まで」

 とはいえ全てを読み上げたわけではない。不用な箇所は飛ばしたり、補足を入れたりしている。特にこの箇所は伏せざるを得なかった。

“なお、当品は魔術の物品なり”

 魔術。それはこの街では禁忌(きんき)とされていた。しかしそれはここ最近のことで、以前は魔術も当然のようにこの町で受け入れられていた。つまりは最近の教会の指示なのだ。三年前にこの一帯の教区を任されることになった新しい主教、アンゲスト枢機卿は、魔術の類を憎んでいたのだ。何故かは知らぬ。憶測はいくらでも出来るが何故かは知らぬ。

(最近、新教の輩が騒がしいからかな?)

 わしは少し考えその考えを捨てる。そうだ、いや新教の連中こそそういった魔術の類を憎んでいるのだ。そして隣国は新教の国であった。戦争の理由もまあそんなところだ。宗教対立。まあそれだけではないが……それ以外もじつにつまらん理由だ。おっとまた思考が横道にそれた。わしはあの男の依頼を思い返す。アルゴン金貨五十枚とは。まず個人で出せる限度の金額である。あの男は国に帰れば相当な高位の武官なのだろう。

(それとも、相当な無理をしているか、だ)

 わしは思った。前出の通り隣国は新教の地である。そして新教において魔術は御法度。その国の武官が同じように魔術が禁忌なこの町で魔術の品を探し求める。そこに何事かの不整合さをわしは感じるのだ。

「何か質問はあるか?」

 疑問はさておき、わしは呼びかけた。これもわしの仕事である。さっそく声が上がる。

「賢者の石って何ですかい?」

「知らぬ」

 わしは答えた。知らぬものに教えても無意味だし、わしも教会には目を付けられたくない。周囲を見回す。わしの態度に腰を折られたのか、他に質問はないようだった。

「無いようならばわしの話は仕舞いじゃ」

 言い終わって喉を潤すために酒を口に含み、わしは歩き出した。これからこの票を依頼版に貼り付けに行く。そこまでがわしの仕事だった。わしは目立たないところにそれをそっと貼り付ける。教会に目を付けられてはあの男も迷惑するであろう。貼り付け終わった時にはもうすでに宿屋はいつもの喧噪を取り戻していた。まるで何事もなかったかのように。

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