第3話 遺影

 それから、僕たちは教室でカメラ以外の話もするようになり、休日もよく一緒に出かけるようになっていった。

 出かけるたび、僕は彼女の写真を撮ったが、相変わらず、彼女は自分の写り具合にしか興味がなかった。背景にこだわることもなく、誰かと撮ることもなかった。一緒に撮りたいと思うこともあったが、恥ずかしくて言えるわけもなく、そうやって彼女の写真ばかり撮って、僕らは三年になっていた。

 受験前の夏休み。この大事な時期も、僕らは学校の自習室で一緒に過ごした。

 周りはすっかり、付き合っているものと思いこみ、僕も彼氏面していたが、ちゃんとした告白はできていなかった。そろそろ、はっきりさせないと、と思い始めていたとき、彼女から「今日はウチで勉強する?」と誘いがきた。ケータイに来たそのメールを、何度、読み直したことか。

 その日ばかりは、真夏の暑い日差しも、耳障りな蝉の声も、気にならなかった。彼女から教えてもらった住所を目指し、ムンムンと湿った熱気を振り払うかのように颯爽と歩いた。青春の最高潮だった。

 彼女の家は二階建ての一軒家。呼び鈴を鳴らすと、クーラーの冷たい風とともに、薄手のワンピースを着た彼女が出てきて、すでに期待でいっぱいだった僕の心は、緊張と高揚感が入り乱れてパンクしそうだった。いったい、どんな顔をしていたのだろう。「大丈夫? 早く入って」と、彼女は慌てた様子で僕を中へと促した。


「冷たい麦茶、飲む? 持ってくるから、そこで少し休んでて」 


 そうして通されたのは、広々としたリビングの隣にある、八帖ほどの畳敷きの部屋だった。

 そこで僕は、初めて彼女の兄と対面した。二十代半ばほど。目を半開きにし、鼻の穴を大きく開けて、くしゃみをする寸前のような顔で、僕を迎えてくれた。


「それ、お兄ちゃん」


 麦茶の入ったグラスを手に戻ってきた彼女が、立ち尽くす僕にそう教えてくれた。


「ひどい遺影でしょう」 



 六つ歳の離れた彼女の兄はアクティブな人で、大学に入ってからバイトで貯めた金で一眼レフを買い、全国の絶景スポットを回っては写真を撮ってきたそうだ。飛行機の距離にある大学に進学し、実家に顔を出すこともほとんどなかったというお兄さんは、たまに帰ってくると彼女に写真を見せてくれたという。

 お兄さんのカメラには全国各所の絶景や、大学の仲間の写真が詰まっていたが、お兄さんの写真は一枚もなかった。もともと自分の写真を撮られるのが苦手なのもあったようだ。だから、彼女が中学二年の夏、急にお兄さんが亡くなったとき、遺影に使えそうな写真が見つからず、彼女のご両親は藁にもすがる思いでお兄さんの大学の友人にあたり、なんとか手に入れたのが、嫌がるお兄さんを無理やり撮った写真だったらしい――そんな経緯を淡々と語ってから、


「転んだんだって」


 彼女はぽつりとそう締めくくり、麦茶を飲んだ。長い髪をアップにまとめ、あらわになった彼女の細い首筋がごくりと動くのを僕は横目で見つめた。


「人間、いつ死ぬか分からないんだから。用意しとかなきゃ」


 ぼそっと彼女がつぶやいたその言葉が、鉛のように重く、僕の心の奥へと沈んでいった。

 僕は、そのとき、知った。彼女のカメラが、お兄さんの遺品だということ。僕が撮ってきたのは、彼女の『遺影』だったということを。

 そして、ようやく、彼女を理解した気がした。

 常に感じていた彼女との距離。隣にいるようで遠くにいるような、目が合っているようで合っていないような、その違和感の正体をやっとつかめた。

 彼女は、僕と同じ時間を生きてはいなかったのだ。彼女の意識は『今』にはなく、彼女はずっとその先を見ていた。希望あふれる『未来』ではない。それよりも先にある、いつ来るともしれない『終わり』だ。肉体は灰となり、骨は細かく砕かれて、写真の中にだけ僕らはその姿形を残して消える――そんな、むなしくあっけない『終わり』。

 僕はその日、彼女に告白はしなかった。

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