サイコブラック

ファイル001 対決! ストーカー

 夜。

 携帯電話の振動音。

 眠りの水面を漂っていた長谷部玲奈はせべれいなの意識が急速に引き揚げられた。

 覚醒するや否や、彼女は弾かれたように携帯を取り、画面を凝視する。怯えに濡れた瞳で。

 知らない電話番号が表示されている。震える手で、彼女は通話に出た。

「……」

 息を殺して、相手の出方を窺う。

《謝れ》

 その陰湿な男声は、ただそう言った。

「もういい加減にして! 私が何をしたって言うの!?」

《キミがボクの言う通りにしないから》

 その性根が滲み出たような粘っこい声音に、玲奈は嫌悪で顔をしかめた。

「警察に訴えてやる」

《け、け、警察? ぼ、ぼ、ボクを警察にっ、警察に訴えるって、ボクを犯罪者みたいに言うのか!? ええっ!?》

 スイッチが切り替わったように、男が逆上した。

《あ、あ、ああああああああああああ! ボクは、ボクはただキミに――》

 玲奈はとうとう携帯を耳からひっぺがした。

《……、……、……!》

 まだ何事かをわめきたてている男を突き放すように、通話を切った。

 着信拒否をしても、彼女自身の番号を変えてでさえも、男の執拗な追跡は止まない。

 それならばせめて、無視をすれば良い――いや、そもそも携帯電話の電源を切っておけば良かったのだ。

 けれど彼女の性格上、それは出来なかった。電話が繋がらないとなると、更に行動がエスカレートするのではと、恐ろしい気持ちもある。

 そしてそれ以上に、彼女は自分の身辺の事が自分の目に届かなくなる事を何より嫌った。

 このストーカーに付きまとわれて、一ヶ月が経とうとしている。

「誰か、助けて……」

 気丈な彼女をして、とうとう弱音が漏れ出した。

 誰一人、聞く者の無い弱音が。

 

 

 

「わかりました。ではさしあたり、ご自宅周辺のパトロールを強化しましょう」

 神経の張り詰めた玲奈を落ち着かせるように、警官が言った。

「でもっ、それだけじゃあ、」

「ええ、おっしゃりたい事はわかります。ですが、直接何らかの被害が確認できない事には私どもも動けなくて……」

「その最初の被害で刺されたら、終わりじゃないですか!?」

 彼女に対応しているのは、中年の落ち着きを帯びた穏和な警官だったが、その美点が今はもどかしい。

「よく思い出してください。何か、証拠になる品物やデータはありませんか」

 電話。

 一番にそれが浮かんだ。昨夜の電話も、録音してある。

 ストーカー被害の立証には、ポピュラーな証拠だが。

「……何もありません。でも、確かに待ち伏せされているんです。この前だって、仕事帰りに」

 それ以上、話に進展は無かった。

 

 

 

 陽がまた落ちる。

「変身ッ!」

 人知れず、漆黒のオペコットスーツに着替える男が一人。

 正義の実行者・サイコブラック。今夜もまた、罪なき人の、声なき叫びが聞こえてくる。

 力なき者を、救わなければ。

 

 

 

 つけられている。

 会社を出て繁華街を通り、新幹線目掛けて流れる人波を潜り抜けて駅のホームに立ち、電車に乗って三駅越えて。

 これだけ人気の多い道を歩いていてもわかる、あからさまな尾行。あの男には、隠れる気など毛頭無いのだろう。

「駅前のベネチア・ハウス、あそこのパスタは美味しいよねぇ」

 血の気が引いた。昼食まで監視されていたのに気づけなかった。

「でも、どうして食べたのがペペロンチーノだったの?」

 警察! 彼女は咄嗟に判断。こうして尾行されたり待ち伏せされるのは、これが初めてでは無い。常習性が認められれば、これを証拠に捕まえる事が出来る。

 表通りは帰宅ラッシュで賑わっているし、今、声を上げれば、

「ぇ……」

 放ちかけた悲鳴を、思わず飲み込んだ。

 何故なら、

「違、う」

 

 この男、以前に彼女をつけ回していたのとは、別人だった。

 

「ねえ、どうして? どうしてペペロンチーノだったの? だってペペロンチーノってさぁ――」

 男の言葉を最後まで聞かず、玲奈は踵を返し逃げ出した。

 ただひたすら来た道を走り、駅に躍り込み、自動改札が道を開けてくれるのももどかしく、電車に飛び乗って、来た路線を逆戻り。

 あの男は棒立ちのまま、追っては来なかった。だから、会社に逃げ帰った。

「長谷部くん!?」

 血相変えて舞い戻った玲奈を迎えたのは、上司の広瀬部長だった。

「一体、どうしたんだ」

 彼は、定年間近のしわがれ声で玲奈を気遣った。

 玲奈は、絶え絶えの息をどうにか落ち着けて、

「また、来た、んです、変な男が!」

 ぜいぜい息と入れ違いに、嗚咽が一気に溢れだした。広瀬部長は信頼できる。だから、ストーカーの事も打ち明けてあった。

「またか! 怪我は、無いのか?」

「それは、大丈夫です。でも、何もされてないから、無傷だから、まだ刺されてないから、警察も動いてくれない!」

 そしてどうやら、ストーカーは一人ではない。これでは、恋愛感情を拗らせた犯行だと断定できるものか。

 巷に聞く集団ストーカーと言うやつ? そんなバカな。妄想にも程がある。

 第一、彼女には集団で狙われる心当たりが無い。恨みを買っているとすれば、それこそ、過去に破局した恋人が居たくらいだが……別れて五年は経つし、ごく平凡な交際と有りがちな別れでしか無かったはずだ。

 わけが、わからなかった。

「今日は会社に泊まりなさい。夜勤組の連中にも見守ってやるように言っておくから」

 広瀬部長は優しく言ってくれた。

「長谷部くんは、うちの部署の大事な戦力だ。絶対に、犯罪者の好きにはさせん」

 その言葉が、身体の芯まで沁みた。

 この会社で、一つのチームの主任として全力で頑張って来て良かった。

 

 

 

 この日、兼山博人かねやまひろとは急いでいた。

 本当は早退したいくらいだったが、それは上司が許さないだろう。だから定時まで勤めあげて、足早に会社を出ようとしていた。

 あいつに、捕まる前に。

 事務所の静脈認証タイムカードに指を入れ、退勤処理がされた事を確認。

 早く、早く帰らないと、

「ちょっと、兼山君ッ!」

 甲高い、女の声が背中に突き刺さって彼は鞭打たれたように震えた。

「まださっきの答えを聞いてないけど? 黙って帰るなんて、何のつもり」

 一刻も早く帰りたいのに、捕まってしまった。

 

 博人にとっては直属の上司である、主任・長谷部玲奈に。

 

 この人はいつもいつも、博人を監視して、小さなミス(とさえ言えない言葉のあや)でも見逃さずに叱責し、抱えきれない量の仕事を課した上、個人的に作った課題の提出まで強要してくる。

「理由があるなら聞くけど?」

 嘘だ。

 今まで、耳では聞いても、本当に聞き入れた試しが無いじゃないか。

「ねえ、ぼさっとしてないで何とか言ってよ!」

 主任は、萎縮する博人の眼前で手を叩いて威嚇。だんまりを許さない。

「……妻が、病院に運ばれて」

 命に別状は無いらしい。だが、のたうち回るほど痛かったらしい。

 だから、こんな日くらいは、と。

「それだけ?」

「はい……」

「理由になってない。そんなの、個人の都合でしょ。本当に奥さんに大事が起きたなら、こんな定時まで会社に居られないはずだし。仕事には何の関係もない」

「……」

「さっさと帰ろうとした理由、まだ聞けてないんだけど?」

「今、言いまし、た……」

「ねえ、今、余所見したでしょ! あそこの時計、ちらっと見たよね!? そうまでして帰りたい!?」

「し、してま、せん」

「絶対した! 自覚が無いだけ! アンタ仕事やる気あるの!?」

 無い、なんて言えるはずもない。

「あります」

「無いね! アンタには、やる気が感じられない!早く教えてよ、何でさっきのプレゼン資料の、あそこの文、文字色フォントを青色にしたのか」

「それは、大事な補足文だから、強調するために」

「強調するなら、普通は赤色だよね? 何で? 一般的な赤色でなくて、青色にしたのは、何で? 兼山君にとって、あそこは青色でなければならない絶対的な理由があるはずじゃない? 本当に真剣に仕事の事を考えているなら」

「……ぅ」

 まさか文字の色など突っ込まれるとも思っていなかったから、青色でなければならない理由など無い。しかし、その真実を話したところで、この主任は絶対に納得しない。

「全ての事には意味があるの。プレゼンの文字の色ひとつとっても、私は、私のチームの人には全員、仕事の全部に真剣になって欲しいの!」

 彼は、何も言い返せない。しかし、無言でいれば、

「ねえ、聞いてる!? 無視? 無視なの?」

「ぃぇ……」

 それも許されない。このまま、長谷部主任の気がすむまで、ここに釘付けとならなければいけないのか。

 そう思っていた矢先、主任の血走った目が一瞬泳いだ。

江守えもりさん! アンタも、何帰ろうとしてるの!」

「ひっ……」

 次に矛先が向いたのは、入社一年目の新人・江守ゆかこだった。

 地頭は良いのだが、足元の凡ミスが多く、彼女もまた長谷部主任に目をつけられていた。

「あなたに書いてもらったコレなんだけど」

 そう言いながら、江守に書類を突き出す。

 主任が江守に書かせたもの。凡ミスを無くすために自分は何をすべきかという課題作文だ。

 その紙面には、赤いマジックでただ大きく×が書かれている。

「根本的に違う。やりなおし」

「根本的って……いったい、どうしたら」

「自分で考えなさい!」

 

 玲奈は、真剣に生きて来た。

 人一人が生きると言う事は、無数の責任がついて来る事だから。

 自分は仕事と真剣に向き合って、主任という責務を課せられ、それを乗り切っている。

 だから、真剣になれない人間が許せない。

 今しがた、さっさと逃げ帰ろうとした兼山博人は、半年近くも休職した。

 何でも、職場環境に適応できない事で鬱と同様の状態に陥る“適応障害”と診断されたらしい。

 甘えるな。

 本当に“障害”を持った人間は、いちいちそんな事を口にせず、頑張っている。克服するために、真剣だからだ。

 半年もチームに穴をあけて迷惑かけたと思うなら、それこそ死ぬ気で取り返せ。

 環境に適応できない?

 ふざけるな。

 上司からは尻を叩かれ、血を吐く思いで部下を導き、その上あんな理不尽なストーカーに狙われるという環境に置かれても責任を全うしている私は、何だ?

 あいつらは出来ないんじゃない。やらないだけだ。

 私は、やっている。どんなに苦しくても。

 広瀬部長だって、賛同してくれている。

 兼山や江守の方が、甘えているだけだ、と。

 だから、

 

 

 

 悲しい。

 闇の中に鎮座するサイコブラックが思考したのは、ただその一文だった。

 自分が他人を傷つけて、その重みを実感する事が出来ない。

 それはなんて危険で――そして、悲しく寂しい事なのだろう。

 長谷部玲奈にあるのは、自分が絶対的に正しいという自負。

 それが、部下を一度潰し、また今も彼ら彼女らの人生を破壊しようとしている事が自覚できない程に、目を曇らせている。

 兼山博人の為に、江守ゆかこの為に、そしてサイコブラックが知らない長谷部玲奈による被害者の為に、

 ヒーローたる自分は何が出来るだろう?

 そして――、

 いや。

 沈鬱な思案に浸る時間は終わったようだ。

 サイコブラックが居座る部屋の扉が、静かに開けられた。

 電気が点けられ、その漆黒のヒーロー姿が光に曝されて。

「!? ぃ、ひッ」

 自室に帰宅した長谷部玲奈が、腰砕けになって、尻餅をついた。

 当然だ。

 毎日、得体の知れないストーカーに追い回されていた女。

 それが帰宅したら、変身ヒーローの格好をした男が忍び込んでいたのだ。

 この上ない恐怖だろう。


 ――あ、あ、ああああああああああああ! ボクは、ボクはただキミに、

 ――キミに、パワハラはダメな事だって認めて欲しいんだッ!

 

 ――ねえ、どうして? どうしてペペロンチーノだったの? だってペペロンチーノってさぁ――

 ――ニンニク使ってるよね? においとか職場の人に迷惑だよね? 何でボロネーゼじゃダメだったの?

 

 サイコブラックは自分が演出した恐怖の成果を無機質に演算したのち、

 勝手に持ち込んでいたチェーンソーを拾い上げた。

「そろそろ理解できたか。自分が犯して来た罪を」

 凶器のスイッチに指を這わせながら、ヒーローはゆらりと立ち上がる。

 だが、哀れな女はただ頭を振るだけで、何も答えない。

 残念だ。

 本当に残念だと、ヒーローはそう口にした。

 これだから、他人の痛みを共感できない人種と言うのは度し難い。

 特定の誰かに粘着して苦しめる、という点において、パワハラ上司とストーカーは何が違う?

 他人だって傷付けられたら痛いんだって、そこに気付けるから、思いやりと言うものが生まれるのではないのか。

「どうして、こんな事をするの」

「君が根本的に間違っているからだ」

「わけ、わからない」

「その答えを僕に示すまで、僕は君を許さない」

 次善の策。

 本当なら、彼女にも気づきを与えたかった。

 長谷部玲奈も兼山博人や江守ゆかこと信じあい、笑い合える未来を作りたかった。

 サイコブラックにとっては、それが悔やまれてならなかった。

 これが、サイコブラックの初任務。

 途中までは先輩ヒーローが請け負っていた、この長谷部玲奈パワハラ案件を、サイコブラックが引き継いだ。新米ゆえに、信頼されていなかったのだ。

 それでも、ヒーロー組織の評価など、心底どうでも良かった。

 加害者をも救ってみせると、若きヒーローには自信があったのに。

「気付くか、消えるか。さもなくば……」

 スイッチオン。チェーンソーのけたたましいエンジン音が、この場の音全てを飲み込んだ。

 玲奈はすくんだ腰を無理矢理持ち上げ、一目散に逃げ出した。

 もう、自室にさえ安心出来ない。仕事のために命を捨てるなんて馬鹿げている。

 この土地から去るしかなかった。

 

 

 

「兼山、最近調子いいねぇ! 何か、顔つきも変わったし。業績にもちゃんと出てるよ」

「そ、そうっすか?」

「お子さん、来月生まれるしな! 一皮むけたんじゃないか?」

「だと良いんですけどねぇ」

 長谷部玲奈が居なくなったこの場所で。

 兼山博人は、確かに笑顔を取り戻した。

 それを遠くで見守る若い男が、曖昧な笑顔を浮かべていた。

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